鯨よりも深く

夢月七海

前編


 艦内は、赤い光で瞬いている。数分間に渡って聞いても、警告のブザー音には慣れず、耳障りのままだった。

 「制御不能」の文字が出たままのモニター。押しても引いても動かない操縦桿。一歩も動いていないのに、息が浅い。空気が、薄くなっているのかもしれない。


 海底に埋まっているゴミを拾おうと、潮に近付きすぎて、巻き込まれてしまった。警告音は聞こえていたけれど、大丈夫だろうと高をくくっていた。

 そうして、どこなのか分からない場所に流された挙句、潜水艦は、岩に叩き付けられた。あの衝撃で、穴が開かなかったのは幸運だったけれど。


 頭がくらくらとする。そろそろ危ないのかもしれない。

 一人、こんなにも暗い場所で死んでしまうなんて。海が好きで、この仕事には誇りも愛着も持っていたけれど、こんな締めくくりは望んでいない。


 水圧のように、恐怖が圧し掛かってくる。家族の顔が心に浮かび、ごめんなさいと謝った。

 その時、分厚いアクリルガラスを突き刺して、ぱっと光が入ってきた。二つのライトの輪郭が見える。あれは、潜水艦だ。


 助かった……気が遠くなりかけながらそう思った。

 光に慣れた目が捉えたのは、僕のよりもずっと大きな潜水艦だった。全体が真っ黄色に塗られていて、鯨の姿を簡単にしたような絵がペイントされている。


 国内で売られている潜水艦とは全然違う。あれは、デザイン法違反だぞ……。

 最後に、そんなことを思いながら、僕は意識を失った。






   ◇






 自分自身の呼吸音で目が覚めた。ぼんやりとした視界に、白く曇った呼吸器が見える。

 何度かの瞬きで、目の前がはっきりしてくる。白い天井が目線の先にある。今、僕の体は、ベッドの上に横たわっているようだ。


「良かった。目が覚めたようだね」


 少しハスキーな女性の声が、左側から聞こえた。

 首をそちらに向ける。枕元に、僕と同じ二十代くらいの女性が座っていた。こちらの顔を覗き込んで、安堵した表情を浮かべている。


「体は動かせるようだが、声はどうだい?」

「…………ええ、はい」


 自分のものとは思えないほど、酷く掠れた返事が出た。僕は、自分の呼吸器を取って、脇にどける。

 ベッドの上で上半身を起こそうとする僕を、彼女が手伝ってくれた。しかし、背中を押してくれる手つきが少々ぎこちなく、こういう看病に慣れていないのかもしれないと思った。


「……あの、水、を」

「ああ、そうだね。ごめんよ、気が付かなくて」


 まだかすれた声を出しながら手を伸ばすと、彼女は傍らのテーブルの上にあった水差しを手に取り、コップ一杯分の水を注いでくれた。

 それを受け取り、一気に飲み干す。喉のかさかさした違和感も、多少和らいだ。


 改めて、室内を見渡す。白一色の、僕らが使っているもの以外に家具がない、出入り口も自動ドアが一つだけの部屋だった。

 外の様子が見たいのに、それは叶わないようだ。不安に駆られて、僕は「あの」と口を開く。


「ここは、どこなのでしょうか」

「海底にある、希少金属採掘用コロニーだよ。と言っても、今はそのために使われていないが」

「そうなんですか……」


 採掘をしていないのなら、あなたはどうしてここにいるのですか、と訊きたかったが、臆病風に吹かれて、それを飲み込んだ。

 それよりも、他に確認することを優先させた。


「あの、僕はどれくらい気を失っていましたか?」

「半日くらいだね。ここでは、応急処置しか出来なかったが、後遺症もなさそうで良かったよ」

「酸素欠乏症でしたからね……。危なかったと思います……。ところで、僕の潜水艦は?」

「うちのメカニックが修理しているよ。ただ、コンピュータ部分の損傷が酷くて、海面に浮上できるまでに直すので精一杯らしい」

「いえ、十分ですよ」


 僕は安堵した。何とか、自分の潜水艦で帰ることが出来るようだ。

 あの、鯨の絵が描かれた潜水艦に乗るのはごめんだった。もしも、領海警察に見つかったら、僕も逮捕されてしまうからだ。


 そんなことを内心思っている僕を気にせず、椅子に座った彼女は感じ入ったように、一人で頷いていた。


「監視レーダーに、謎の潜水艦があるから、様子を見に行ったんだ。そしたら、君がいたから、びっくりしたよ。大事になる前に、ここまで連れてこれて良かったよ」

「あ、あの潜水艦、あなたのなんですね」

「あなたなんて、かしこまった言い方はやめてくれ。私のことは、ぜひ、『サニー』と読んでほしい」

「え、ええ、分かりました」


 彼女が言ったのは明らかな偽名だったので、僕はさらに困惑する。絶対に裏があると、確信していたが、追及する勇気も気力もなかった。

 ともかく、僕の命の恩人なのは確かなので、ちゃんとお礼を言う。


「あの時は、ありがとうございました」

「いやいや、当然のことをしただけだよ」


 彼女、もといサニーさんは、謙遜しているというより、心からそう思っているように返した。言動の怪しさを掻き消すほどの爽やかさに、ますます混乱する。

 でも、悪い人ではなさそうだ。いや、デザイン法違反の潜水艦を持っている時点で犯罪者ではあるけれど、僕のことを脅したり、傷つけたりはしないらしい。


「ところで君、腹は減っていないかい?」

「あ、そうですね。少しだけですが」


 僕が正直に言うと、彼女はにんまりした。


「半日も眠っていたのだから、無理はない。君の潜水艦の修理には、あと数時間ほどかかるから、食事を持ってこようか?」

「いえ、食堂まで歩いていきますよ」

「先程起きたばかりなのに、大丈夫かい?」

「ええ。むしろ、体が凝ってしまっているので、動かしたい気分です」


 彼女の申し出は優しさから来ているものだが、僕は決して譲らなかった。もしもの時に備えて、このコロニーことを知っておかないといけないと、そう思ったからだった。

 サニーさんは、それならと納得した様子で、椅子から立ち上がる。僕もベッドから降りた。立ち眩みもなく、直立したので、彼女はほっとしていた。


 サニーさんの案内に続いて、部屋を横切り、自動ドアが開いた先を見る。

 ベッドのある部屋の外は、アクリルガラスに面した廊下だった。室内から零れる光で、ほんの数メートル先の海底の石などが照らされているが、その先は、果てしのない暗闇だ。


 潜水艦乗りとして、海底の光景には慣れていても、目の前のガラス一面の暗黒には、原始的な恐怖心を抱いてしまう。

 自動ドアから出て、僕はすぐに後ろを見た。そして、後悔した。


 壁一面、ムラのある黄色に塗られていた。所々に、異なる青や緑のハンドフリーで描かれた線が引かれている。それが、等間隔に置かれたドア以外、見渡す限りの壁の上に描かれていた。

 僕がそれを見て絶句していると、隣に立つサニーさんが、腕を組んだまま言った。


「中々いいだろう。自信作なんだ」

「え、ええ……」


 満足げに胸を張るサニーさんを横目に見る。一切の罪悪感を抱いていないようで、僕は余計に混乱した。

 そこでやっと、もしかしたらサニーさんはデザイナーなのかもしれないということに思い至った。


「あの、サニーさんはデザイナーですか?」

「いやいや、私は趣味で描いているんだよ」


 人を小馬鹿にするような「ふっ」という息と共に言われたサニーさんの一言が、僕をさらに絶望させる。膝から崩れ落ちそうなのを、何とか堪えた。

 「趣味で描いている」つまり、政府から創作の許可を取っていない。改めて、六歳の子供でも知っていることを頭の中で反芻する。


「さ、いつまでも見惚れていないで、食堂に行こうか」

「は、はい」


 見惚れていた、とは全く違う反応なんだけどなと思いつつ、彼女に合わせて頷く。法律を破れる大胆さがあるためか、サニーさんはこちらの気持ちを汲もうとしない。

 サニーさんの後に続いて、一つ二つのドアを通り過ぎ、三つ目の自動ドアを入った。そこは、緑の葉っぱのようなものが壁一面に描かれている部屋だった。


「ここは、ジャングルをイメージしたんだ」

「なるほど……」


 真ん中に鎮座したテーブルを勧めてから、サニーさんはそう説明してくれた。確かに、葉っぱの絵の間に、映像や写真でしか見たことないような極彩色の鳥が隠れている。

 サニーさんは、備え付けのキッチンに行き、コーヒーを入れながら、絶え間なく話しかけている。


「ここ以外の部屋も、私が塗っているんだ。ただ、白のイメージが強い医療室と、私と他のメンバーのアトリエには、何も塗っていないだがね」

「サニーさんたちは、ここで何をしているのですか?」


 僕がずっと気にかかっていることを質問すると、サニーさんはコーヒーカップを二つ持って、くるりと振り返った。その笑顔は、母に内緒で悪戯を計画する弟の顔を思い出させた。


「創作禁止法が発令されて、もうすぐ百年になる。その日、我々はネット上に作品を発表しようと、準備しているのさ」

「それは……つまり、テロですか?」

「君、人聞きが悪いぞ」


 あっはっはっはと声を上げながら、サニーさんは一つのコーヒーカップを僕の目の前に置いた。深い香りにびっくりした。人口ではなく、天然物だ。

 目を白黒させている僕に踵を返して、サニーさんは冷蔵庫を開けた。


「サンドイッチは好きかい?」

「あ、はい」


 先程の宣言が嘘かのような自然体で、サニーさんは訊いてきた。僕の返事の後、皿に載った綺麗なサンドイッチが置かれる。

 瑞々しい野菜とふっくらとしたパン。「いただきます」と言ってから、一口食べる。いつも食べている小惑星産よりもほんのり甘くて、もしかしたら、地球産の野菜なのかもしれない。


「……サニーさんって、仕事は何をしているのですか?」

「流石にそれは言えないなぁ。まあ、それなりの収入はある、と言っておこう」


 それなりの収入だけでは、天然コーヒーも地球産野菜も、手が届かない筈だ。こんな海底で、高級レストランのような食事ができるなんてと、羨望なのか呆れなのかよく分からない視線を彼女に向ける。

 サニーさんは、ずずっと乱暴にコーヒーを啜っていた。もっと大事に飲めばいいのにと思うのは、僕が貧乏性だからだろう。


 地上だといくらするか分からないサンドイッチを食べながら、僕は創作禁止法について考えていた。もったいないことこの上ないが、変なことを言い出したサニーさんにその責任がある。

 百年前、この国が戦争をしていた頃に、創作禁止法は制定された。戦後、物も人も少ない状態から早く復興するために、唯一この法律だけは改訂されなかったと、学校で学んだ。


 とはいっても、政府から許可を取れば、創作を職業とすることが出来る。そういう人たちは、ほんの僅かで、僕からしたら、物好きのように思える。百年以上昔は、学校の授業で、絵を描いたり、物語を作ったりしていたそうなのだから、信じられない。

 僕は創作をしないのが当たり前の世界に生まれたので、わざわざ法律を犯してまでしようとは思えない。そもそも、職業創作者以外は、絵を描く道具を買えない筈なのだが、サニーさんはどうしているのだろう……。


「あの、どうして創作をしているのですか?」


 海の底まで逃げて、見つかったら間違いなく懲役刑を逃れられないことをやっている、そんなサニーさんたちの神経が信じられなかった。

 しかし、コーヒーカップから口を離したサニーさんの答えは、シンプルだった。


「やりたいから、やっているだけだよ」

「はあ……」

「素晴らしい絵を見た時に、自分の心の底から、情熱が湧きあがるんだ。自分も、負けないような、素晴らしい絵を描いてみたいってね。君にはないかい?」

「申し訳ないのですが……」


 ギラギラした目でそう問われても、僕は力なく首を横に振るしかない。確かに、昔描かれた絵を見るのは自由なのだが、それに対して、すごいなぁとか綺麗だなぁとかしか思えない心しか、持ち合わせていなかった。

 ただ、サニーさんは僕の返答に対して、特に非難するようなことは言わなかった。その瞳は、どちらかと言うと、そういうこともあるよねと言いくるめてくるようだ。


「とはいえ、描いた後は、誰かに見せたいという欲求が生まれてくる。私には、ネットハッキングの技術がないため、同じ志の仲間たちと集い、立体映像やVRを用いた展覧会を開こうと思っている」

「創作禁止法が制定された日に開くのは……」

「特に理由はないね。一応、当てつけの意味はあるが、その日の方が、より大々的に見てもらえそうだと思ったからだ。だが、人を傷つけるわけではないのだから、テロと言われるのは心外だ」

「すみません」


 初めて、サニーさんは不機嫌そうな顔を見せたので、僕は正直に謝った。ふにゃふにゃと柔らかそうだが、彼女なりの信念があるらしい。

 だけど、それならばなぜ、危険を冒す理由が分からない。僕は、また質問を重ねた。


「あの、政府の許可を得て、創作者になるとか、そういう選択肢はなかったのですか?」

「政府の許可なんて、死んでも御免だ。窮屈で、自由がなさそうだろ?」

「では、外国に行って、創作者になるのは?」

「私は、この国で生まれて、育って、この国で見て、感じたものを描き、この国の人に発信してみたいんだ。もちろん、全員に理解されるものだとは思わないが……」


 途中で、サニーさんの言葉は途切れ、ちょっと斜め上を見るように考えた。


「いや、それだけではないな。政府のやつらに、お前らがどんだけ厳しく律しようとも、人間が創作をしたいという気持ちは、止めることは出来ないのだと、見せつけてやりたい。そんな気持ちも、含まれているのかもしれないが」

「反骨精神があるのですね」


 にやりと笑ったサニーさんに対して、僕も初めて相好を崩した。自分の創作の力を真っ直ぐに信じている、そんなサニーさんの姿が、眩しかったからだ。

 そんな話をしている間に、僕はサンドイッチを食べ終えて、コーヒーも飲み干した。その深い味わいを舌の上で思い返していると、サニーさんは自分の端末を取り出し、画面を見ていた。


「君の潜水艦、修理が終わるまでまだ時間がかかるそうだ。暇つぶしに、我々のアトリエを見学しないかい?」

「え……」


 どうしよう、咄嗟に考えをめぐらす。サニーさんは、僕を脅迫することはなさそうだけど、他の人はどうだろうか。

 その時、僕はずっとサニーさんから「君」と呼ばれていることに気が付いた。コンピュータが故障していても、僕の個人情報は厳重なロックで保護されているため、名前などを知りようがないらしい。


 自分が大丈夫だと分かると、途端に肝が据わってきた。今はむしろ、サニーさんたちが、どんな工夫をしながら、創作に勤しんでいるのかが気になっている。


「構いませんよ」

「よし、決まりだ」


 勢いよく立ち上がったサニーさんに続いて、僕も食堂室から出た。































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