第四章-1

 外が農夫の声で騒がしくなり、リエは目を覚ました。短い間しか眠っていないが、それでも疲れは少しとれた。眠い目をこすって身支度し、荷物を持って土間へ行くと、女主人が「あらあら」と迎えてくれる。

「あら、おはよう。今ご飯を用意するね」

 席は全て空いている。二人は端っこに座った。

「他の人達は?」

「もう行っちゃったわ」

 女主人はおむすびと漬物を二人分用意した。リエとヒナリは、黙々と食べる。

「あら、元気ないわね。昨日は眠れなかったの?」

「ええ、まあ」

 化け物の襲撃には気づかなかったらしい。リエは曖昧に頷き、ヒナリは笑顔を作る。

「そうそう。あんた達、山へ行くんでしょう? だったら、森も通るんだよね?」

「ああ、はい」

「それなら、シグレさんとこに行くいいよ」

「シグレさん?」

「森の中に、シグレって男の人がいてね、とても頼りになるんだよ。ここからだと少し遠いけど、身体の具合が悪い時には、みんなシグレさんとこに行くんだ。お二人さんも行ってみたら? 何か力になってくれるかもしれない」

「シグレさんはどこに住んでいるんですか?」

「里を出て、道をまーっすぐ行ったら、夕方ごろには着くよ」

 女主人に礼を言い、二人は宿を出た。薮に行くと、ソラが待っていた。

「ああ、良かった」

 二人の顔を見るなり、ソラは言った。

「お前ら、昨日は平気だったか? すごい数の化け物が、宿を取りまいていたぞ」

「あんまり平気じゃなかったね……」

 ヒナリは、夜におきた事をソラに話す。

「石化は止められないのか?」

「私には無理。常闇の呪いは解けないし、食いとめることもできない。ただ、多分だけど」

「多分だけど? 何だ?」

「化け物が近づいた時に石化が始まるんじゃないかなって。ほら、今はリエちゃん、石化してないでしょ? 多分、あいつがいないからだよ。だから、結界を張って距離を取れば、完全に石化してしまうことはないと思う」

 そう言われても、リエはあまり安心できない。身体の感覚が消えて動けなくなるのは、まるで全身を縛られたかのような、どうしようもない恐怖と不快感がある。この先何度繰りかえしても、慣れることはないだろう。

「は、早く森に行こう」

 リエは言った。

「あ、そうだ。宿屋の人が言ってたんだけど──」

 森に住む薬師の話をする。すると、ソラは「ああ」と頷いた。

「確かにいるな。そんな奴。どんな人間かは知らないが、家の場所は分かる。今日はそこに泊まるのもいいな」

「え? でも、また化け物が」

「森の悪霊の倒し方を知ってるかもしれん」

「化け物の方は、私がまた結界をはるよ。任せて」

 自信満々なヒナリ。リエは、分かった、と小さく頷く。

「じゃあ、出発だ」

 二人を背中に乗せ、ソラは走りだす。薮から飛びだした瞬間、近くにいた農夫が悲鳴をあげ、腰を抜かす。リエが謝る前に、ソラはその場を走りさった。

 薮の影、ぬかるんだ窪地、世ノ河のほとり。ソラは人目につきにくい場所を選んで走っている。それでも、稲刈りをしていた農夫が、ソラに気づき、何か叫んでいる。枝を振りまわして遊んでいたリエと同じくらいの子どもも、こちらを指さし、大きく手を振った。リエも素早く手を振りかえす。

 どこまでも続く田んぼと畑、そして世ノ河。そこに突然、前方にこんもりとした緑の帯が現れる。

(あれが森? 瑞木の森とは全然違う)

 遠くに見える山脈の下、世ノ河の左右に、森がと果てしなく広がっている。近づけば近づくほど、森は異様なものに見える。一度入ってしまったら、百万本もの枝が自分達の周りを塞ぎ、二度と森から出してもらえないのでは……そんな想像が頭を駆けめぐる。

「あの緑色が森?」

 ヒナリが尋ねた。

「そうだ」

「かすかに、悪霊の気配がするよ」

「ヒナリ、お前にも分かるのか?」

「ええ」

 リエは集中して森を見、耳をすませたが、それらしい気配は分からない。

 ほどなくして、森に入る。

 黄緑色の木漏れ日で、中はとても明るい。空気は葉と苔と水の臭いで満たされ、清々しい。

(こんな所に、悪霊がいるの?)

 リエは心の中で首を傾げる。しかし、ふと気がついた。鳥の鳴き声が全くしない。虫の鳴き声も聞こえない。動物の足音すらしない。

 静かすぎる。

「ソラ」

「喋るな」

 リエは口をつぐんだ。

 奥へ進むにつれ、木々はいっそう生い茂り、暗くなっていく。風はなく、落ち葉の腐った臭いが充満している。

(悪霊はどこにいるの?)

 木々の隙間、岩の影。様々な暗がりにリエは目を凝らす。

 草むらの後ろに目が見えた気がする。しかし次の瞬間には消えている。かと思えば、木の後ろから何かが覗いているのが、一瞬瞬見えた……ような気がする。

 見えるもの全ての影に、悪霊が潜んでいるような感じがする。目をぎらつかせ、真っ赤な舌をちらつかせ、鬼の形相でこちらを見ているのではないか? リエの両手はブルブルと震え、ソラの毛に顔を埋める。

「ソラ、まだ?」

「まだだ。悪霊はまだ遠い。怯えず、じっとしてろ」

 リエにとって、無限にも近い時間が経った頃。

「着いたぞ。あれだ」

 ソラが足を止めた。リエは顔を上げた。

 鬱蒼とした森がプツンと途切れ、明るい広場があった。

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