第二章-2

 どれだけ走り続けていただろうか。ソラの走る速さが、少しずつ遅くなり始めた。

「もうすぐ休めるぞ」

 ソラは言った。

「ほら、向こうに出口がある」

 リエは少しだけ顔を上げた。ソラの進む先に、眩しい光が見える。

「あの先は何があるの?」

「通ってきた霊道の位置からすると、海の中だ。普通は海の中に空気なんかあるはずがないんだが、どういうわけか向こうから空気の臭いがする。潮と魚の臭いもな。安全かどうかは分からないが、常闇より危険な場所ということはないだろ」

 そう言いながら、ソラは光の中に飛びこんだ。再び周りが真っ白になった後、明るい場所に出た。

 壁や天井はゴツゴツした灰色の岩だ。足元は白い砂で、一粒一粒が淡く光っている。所々に、古い木の破片が落ちている。砂の地面は途中でぷっつり切れ、そこから先は水がある。手前側の水面は砂粒の光を跳ね返し、輝いているが、奥は真っ暗だ。

 リエはソラの背中から下りた。すると、足に力が入らず、ぺたんと砂の上に座ってしまう。足に力が入らず、立ちあがることすらできない。

「大丈夫か?」

「うん。疲れちゃっただけ」

 ソラはリエの隣に座った。リエはソラのフカフカのお腹にもたれかかった。

「洞窟だ。安全そうだな。とにかくここで一眠りするぞ。明日は陸で何か食おう」

「うん……」

 黒い水、化物、泡。恐ろしいものをたくさん見すぎた。まだ、そこらの暗闇から化け物が見ているような気がする。それでも、疲労による眠気はその幻影を押し流す。リエはことんと眠ってしまった。



 ソラは無防備に眠るリエを見つめながら、嘆息する。

(何でもっと早くに名前を呼ばなかったんだ。そうしたら俺も楽に助けだせたんだが。いや、あらかじめ舟を壊すか何かして、河に流されないようにすれば良かったんだ)

 彼はただ名前を呼ばれるのを待っていたわけではない。リエが乗っていた舟をずっと探していた。

 リエが乗っていた舟は世ノ河を流れ始めてすぐに消えた。一瞬にして、常闇へ連れていかれてしまったのだ。ソラは世ノ河から漂う臭いから、どうにか常闇への霊道を見つけた。そこからは霊道を疾走し、リエをずっと追いかけていた。そうしているうちに、名前を呼ぶ悲鳴を聞いたのだ。

「あの子ども……」

 ソラは水面の泡と化していた、無数の子どもを思いだした。彼らはあの場所で殺された。その時の絶望と、救いを求める祈りと執着が、あの場に染みついてしまっている。彼らは幽霊とも呼べない。ただの魂の残骸だ。

「哀れだ」

 そう呟き、ソラは眠りについた。



 リエが目を覚ました時、まず目に入ったのはいつもの小屋の天井ではなく、黒々とした岩だった。空気はひんやりと冷たく、潮の臭いがする。臭いを書いだ途端、今までの記憶がまざまざと蘇る。黒い川、無数の泡、そして化物。リエは悲鳴をあげた。

「起きたのか、リエ」

 低い声が耳元でささやいた。リエは蒼白な顔で声のした方を見る。ソラが、深緑色の目でリエを見ている。その目を見ているうちに動悸が少しずつ収まってくる。

「ああ、うん。大丈夫」

「全然大丈夫じゃなさそうだが。早く何か食わねえとな」

「お腹、空いてない」

「はらぺこだと元気でねえぞ。背中に乗れ。陸地に行くぞ」

 ゴボリ。

 水面が泡立った。

 ソラは素早く砂を蹴り、リエの前に飛びだす。リエは石のように固まり、動けない。水面の泡と、昨夜の黒い泡が重なる。

 泡の中からぬうっと何かが現れる。それは化け物──ではなく、藍色の衣をまとった人間だった。

 見た目はリエと同い年の少女だ。肌は青白く、少しのくすみも傷もない。黒々と波打つ長い髪が顔を縁取り、肩から腹へ流れている。

「あれあれ?」

 彼女は小首をかしげる。

「何で陸の住人がここにいるの?」

「勝手に入ってすまない。俺達は常闇の化け物から逃げてきたんだ。疲れきっていて、ここで休んでいたんだ。すぐに出ていく」

 ソラが答えると、彼女はふうんと相槌をうった。

「そういうことなの。言われてみれば……」

 彼女はリエに目を向ける。

「その手首のアザから、常闇の気配がする。もしかして、烙印を押されたの?」

「ラクイン?」

 彼女はリエの手をとった。手首のアザを、真剣な目で見つめる。

「うん、これは烙印だよ。烙印はね、常闇の住人が生き物に押す印なの。これは私のものだっていう荷札みたいなもの。このまま逃げても、化け物がどこまでもどこまでも追いかけてきて、いつか捕まって、常闇へ引きずりこまれてしまう」

「え?」

 リエの顔が青ざめる。石化する、それは里の伝説に出てきた、まるで石化病と同じだ。

「どういうこと?」

「昨日見た、あの魚もどきが、その烙印を押した張本人、ということだ」

 意味を中々理解できない。

「じゃあ……あの魚が、オボロ様?」

「そういうことになるな」

「昔、石化病が流行したのも、もしかして……オボロ様が、こっそりと里の人間を石化させたから?」

「だろうな。わざと人間に石化の呪いと、十年に一度生まれる子どもに烙印を刻む呪いをかけ、『治してほしけりゃアザ持ちの子どもを差しだせ』、と現れる。人間は喜んで子どもを差しだす。奴からすれば、自分から狩りをせずとも、食い物の方から勝手にやってくる、というわけだ。お前らは騙されたんだ」

 バア様に繰り返し伝説を聞かされた思いでが、ガラガラと崩れていく。

(全部、嘘だったんだ)

 両手がわなわなと震える。

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