2.空の登下校

どうしてか目覚ましよりも先に目が覚めた咲夜は、テレビでニュース番組を見ていた。咲夜は流れていくニュースをぼーっと眺めていた。暗い中でテレビを見るなんて、とても目に悪いことは分かっている。だが、特にやることがない。もう一度寝るにも、目はすっかりさえてしまい、だから仕方なくテレビを見ているのだ。他にあるとすれば、空のことを考えることくらいだ。空は今何をしているんだろう。まだ寝ているんだろうか。もし、そうなら一体どんな寝顔で寝ているのだろうか。いや、真面目な空のことだ。もしかしたら俺よりもすっかり早くに起きて、勉強しているのかもしれない。そんなことを考えて、幸せな気持ちに浸っていると、あるニュースが目に入った。

「女子高生、車に轢かれ死亡ー帰宅途中、単語本に気を取られたか」

そのニュースはあまりに衝撃的だった。自分たちと同年代であることもそうであるが、何よりその女子高生はイヤホン等をしていて音が聞こえなかったわけでも、自ら飛び出した自殺でもなく、ただ単語本を開いて勉強していただけなのだ。懸命に努力している女の子に、車は突っ込み、女の子はその車がやってきていることに気づかなかった。それがあまりに残酷で、画面の中の現場の光景に、咲夜は目を瞑りたくなった。

(ちょっと、待て。空、空は……? 空っていつも登下校中、単語本を開いて勉強していなかったか? 電車に乗っている間はともかく、登下校中でさえも時間が惜しい、からって……)

思い出した途端、咲夜は背筋が凍った。

(だ、だめだ。危険すぎる。空が、空が死んでしまう!!)

時計を見ると、七時を指していた。うちの学校は八時半から始まるが、早く登校する人達は、教室が開けられる七時半頃には着いている筈だ。咲夜は家を飛び出した。

(登下校中、単語本を開いて勉強することが空の習慣だとしても、空には悪いが、俺は今日、残酷にもそれを止(や)めさせよう。空が死んでしまっては俺が生きている意味がないんだ)

幼馴染とは言っても、より広い家に住むということで空が家を引っ越したので、もう近くには住んでいなかった。そういえば、咲夜は一時期それで病んでいた。引っ越したために頻繁に会えなくなったからだ。引っ越しても最寄り駅は同じままだったので、咲夜はそこで空が来るのを待った。疲弊しやつれた顔の会社員や自分たちと同じような学生が大勢改札に吸い込まれていく。会社や学校が潰れない限り、この光景に変化は生じないだろう。もうこの光景も見飽きた。迫りくる人々の波の間から、目当ての人物は姿を表した。 

(空……)

案の定、空は単語本を開いて勉強していた。こんな朝早くから、しかも下を向きながら。時より、行き交う人々との衝突を警戒しているが、それでも単語本に気を取られている間は、今にも人々に当たりそうだった。

(空、分かっているよ。空にはどうしても行きたい大学がある。だからお前は内申を得るために努力を惜しまない。それは素晴らしことだよ。他人がどうでも良いと思っている小テストも、空は満点を取るように心がけている。それ故にそんな危険なことにも身を投じているのだろう? 目標の難関大学に行くことを空は周りから期待されている。空は必死にそれに応えようとしている。空は、家族の、友達の、学校の希望の星だから)

それでも、最寄り駅までずっとあんな状態で歩いてきていたって考えると、咲夜は今にも発狂しそうだった。とてつもないほどに怖くて、思わず身震いしてしまうほどだった。

(考えてもみろ。実はすぐそばまで危険が迫っていて、だけれどそれに何らかのものが作用してたまたま死ななかっただけかもしれないじゃないか。そんな確率的な問題で死ぬなんて嫌だ。絶対に許さない。そうだ、いっそのこと自分が毎日空と登下校すればいいんじゃないか)

咲夜は名案だと思った。まだ、単語本を開いていて、一向にそれから目を離さないことに耐えかねた咲夜は空に向かって大声で叫んだ。

「空ーーー!!」

「さ、咲夜!?」

空は身をビクッと震わせ、顔を上げると短く驚きの声を発した。それもそうだ。咲夜はいつもこの時間にここで空を待ち伏せていたりしない。空の顔は信じられない、とでも言いたげだった。すると、空は小走りにこちらの方に走ってきて、言葉を発した。

「どうしてあんな大きな声で呼ぶの!? みんな見てたじゃない! あーもう、恥ずかしい……」

怒りと羞恥心の混ざった顔で空は早口にそう言った。

(ああ、空って可愛いなあ)

顔を紅潮させる空を咲夜は見つめた。そして、開いている単語本にイラッとした。

「ごめん、ごめん。空に会えたのが嬉しくってさ」

「……ど、どうしたのよ、こんな朝早く。ここで何してるの?」

「今朝のニュース見た?」

「見てないけど」

「……」

生きるために必要な時間以外、勉強に費やしている空が、ニュースを見ないことは分かっていたが、咲夜はまたイラッとした。

(空の生死に関わることだっていうのに!) 

気づけば、ここ最近、咲夜はイラッとすることが多い。

「咲夜?」

「大変なんだ!」

「え? あ、ちょっと」

咲夜は、空の持つ単語本を奪い取ると、左手で空の右肩をがっちりと掴んだ。

「な、何」

「女子高生が単語本を開きながら帰ってて、それで……亡くなったんだ! 車に轢かれて! 今朝、ニュースでやっていた……」

「え……?」

空は言葉を失い、両手で口元を抑えていた。

「だから、空も危険だと思って。早く、早く伝えないとと思って!」

咲夜は深呼吸をして、息を整えた。

「俺は真剣だ。決して大袈裟に言っているわけじゃない。空、お願いだ。もう、登下校中に勉強するのを止めてくれよ」

「でも、」

「分かっている。懸命に努力している空は素晴らしいと思う。けど……空が死んでしまう」

咲夜の左手に力がこもる。

「さ、咲夜……」

自分を守ろうと、必死にその悲痛な思いを伝えてくる咲夜に、空の心は少し動いた。だが、空にとって時間を惜しまないことは、他人に追い越されてしまうことに等しかった。自分が勉強していない間に、他人は少しでも勉強をして賢くなっているかもしれない。空はそれが怖くて仕方がなかった。だから、完全に咲夜の意見に同意することは出来なかった。

「私は、」

「じゃ、じゃあ、俺が一緒に登下校したい……」

空には咲夜が別人に見えた。自分の目の前の男子高校生はまるで子犬のようにしゅんとしていた。空は少し考えてから言葉を発した。

「私、朝早いけどいいの……?」

「え、いいのか!?」

勉強に集中できないから、とてっきり断られてしまうと思っていた咲夜は、一瞬戸惑った。そして、質問に質問で返されると思っていなかった空も一瞬戸惑った。

「うん、いいよ」

「ありがとな!!」

咲夜はその嬉しさあまりに、そのまま後ろに手を回して空を抱きしめてしまうような勢いだったが、理性を働かせてなんとか抑えた。

「こちらこそ、ありがとうね」

「おう!」

空はやはり、登下校中に勉強をせずにただボーッと時間を過ごすという自分を許すことが出来なかった。空は勉強に囚われていた。だから、空は咲夜と登下校をすることを選んだのだった。

電車に乗った二人は背負っていたリュックを体の前側で持ち直すと、横に並んだ。流石空は慣れているようで、前に抱えたリュックの上に単語本を開いて器用に勉強している。咲夜はその横で、必要なとき以外は言葉を発さずにただ、空のそばにいた。絶対に勉学に励む空の邪魔をしたくなかったからだ。時折、横目でチラッと空を見ると、その横顔のあまりの美しさに、咲夜は顔を左にひねってガン見しそうになった。だが、これも咲夜は理性を働かせてなんとか抑えた。目を反らした後でも、その光景は残像として残っていた。前髪の奥にある長い睫毛(まつげ)に縁取られた真っ黒な瞳は、光が差し込んでいて、例えるなら黒い宝石の「オニキス」のように美しかった。


『題:空の瞳はオニキスのように美しい。

案の定、空が単語本を開きながら、こちらに歩いてきた時は本当に心臓が止まるかと思った。登下校中に単語本を開いて勉強するということを止めさせるということは出来なかったけれど、空は俺と一緒に登下校することになった。空が登下校中の勉強を止めてくれるなんて可能性が低いことは分かっていたけれど、流石に空も俺の言うことを聞いてくれると思っていたから、断固として拒否した時は本当に焦った。その時に出た本音でまさかこんなことになるなんて思っていなかった。すげー嬉しい。どうしよう。ずっと願っていたことが叶った。空は絶対に俺が守ろう。』

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