蝶が羽ばたいた、その先で

風嵐むげん

推しを応援するファンの話

 社会人三年目にもなると、仕事だのなんだので色々大変だけれども。

 私、橋本奈々未は毎日心躍る日々を過ごしている。


海音カイネさん、今日も素敵なお歌ですぅ……」


 帰ってくるなり着替えどころか化粧も落とさないまま、テーブルの上で開きっぱなしのノートパソコンに飛びつく。一分もしない内に流れる推しの歌声に、仕事で溜まったあれこれが浄化されていくのを感じる。

 彼は海音さん。定期的に動画サイトに歌ってみた動画を公開している歌い手だ。

 男性らしい低い声に、特有の気怠い雰囲気があいまって唯一無二の世界観。

 間違いなく、テレビで活躍しているアイドルやバンドよりも実力がある。


 それなのに、彼の知名度はイマイチなのだ。


「はあ……今日も素敵。海音さんも早くメジャーデビューしてほしいなぁ。世界は早く彼の素晴らしさに気が付くべき」


 十曲ほどじっくりと堪能してから、部屋着に着替えて化粧を落とす。

 時計を見ると、針はすでに夜の七時を過ぎていた。私は慌てて夕食作りに取り掛かる。

 今日は七月二十四日土曜日。毎週土曜日の夜八時は、海音さまの生放送の時間である。

 だから今日も急いで夕飯を食べて、五分前にはパソコンの前でスタンバイしていたのだが。


「……あ、あれ?」


 八時になり、一分過ぎ、二分を過ぎ……五分経っても、生放送は始まらなかった。何度もページを更新してみるが、変化はない。

 最初は、動画サイトの不調を疑った。でも違った。ならば、海音さんに何かあったのかと、SNSで彼のアカウントに飛ぶ。

 そして、知った。


『諸事情により、来月の第一土曜日まで活動を停止します』



「それで珍しく土曜日に宅飲みしようなんて言ってきたわけね」

「うえぇーん! あやぁ、慰めてえー!!」


 あやは中学校からの親友だ。近所に住んでいるので、たまにこうしてお互いの家や近所のお店で飲み会をしている。

 もちろん土曜日を除いて、だが。


「うう、来月まで活動停止だなんて……二週間も新しい供給がないだなんて耐えられないよぉ」

「体調が悪いとか?」

「ううん、それは違うみたい。SNSで言ってた」

「それなら安心じゃない。別に引退するなんて言ってないんでしょう?」

「わかってない、あやはわかってないよ! ネットでしか活動していない歌い手が、どれだけ儚い存在なのかを!!」


 ネットでの活動は誰もが気軽に始めやすい反面、気軽に辞めやすいとも言える。一時活動停止と言って、そのまま戻って来なかった歌い手たちは少なくない。

 それに、少し前から海音さまは不穏なコメントを残すようになっていた。私はスマホで彼のアカウントを表示し、缶ビールを煽るあやに渡す。


「見て、これ。前までは好きなゲームのこととか、飼ってるワンコのことばっかり書き込んでたのに」

「どれどれ……『最近マンネリ気味だから、新しいことを始めたい』『正直焦る、今年で三十なのに何の結果も出せていない』……へえ、この人三十歳なのね。いいわね、年上」

「コラぁ! 海音さんに邪な感情抱くの禁止!」


 慌ててスマホを取り返せば、あやは呆れたように笑いながら枝豆をつまんだ。


「わたしもたまに聞いてるけど、海音さんって本当に歌上手いわよね」

「ふふん、でしょう?」

「なんで奈々未が得意げなの気持ち悪っ……でも、人気はイマイチなのよねぇ」

「多分、他の歌い手さんと比べて露出が少ないせいで埋もれちゃうんだよ」


 最近の歌い手は、歌動画以外にも活動範囲を広げるようになってきている。

 でも海音さんは、淡々と歌ってみた動画を上げるだけ。生放送は三ヶ月前に始めたばかり。SNSの更新も二日に一回あるかないか。

 私はそういう硬派でのんびりしたところも美味しく頂けるものの。いくら実力はあれど、星の数ほどの歌い手の中から浮上するのは難しい。


「そうね。どんなに光り輝く宝石でも、砂漠に埋もれたら見つけ出すのは無理だもの」

「ぐぬぬ……こうなったら、生放送の時に給料をまるごと投げ銭するしか」

「やめなさいよ、気持ち悪いから」

「何回気持ち悪いって言うつもりよ! これでもさっきから傷ついてるんだけど!?」

「ていうか奈々未さ、推しだって言う割には全然SNSで拡散しないじゃない。なんで?」

「そ、それは……」


 改めて言われると、確かにそうだ。評価ボタンを押すことはあれど、SNSで拡散したことはない。


「好きなものをSNSで広めるって、結構馬鹿に出来ない影響力なんだよ? わたし、小説投稿サイトでよく小説を読んでるんだけど。前にレビューを書いてSNSで応援した作品、ランキング圏外から最終的に週間五位まで上がって、ついに書籍化が決定したからね」

「え、あのホラー小説が? ほんとに?」


 そういえば、前にあやが『超面白い』って言って拡散していた小説があった。あやがそこまで言うから私も気になって、一週間くらいかけて読んだ記憶がある。

 その間にもレビューは増えていって、読み終わる頃にはランキングに載っていたような。


「タイミングや運がよかったのもあるだろうけど。誰かからオススメされたものって、ちょっと気になるじゃない? 最初は友達一人にしか知って貰えなくても、その友達もまた広めてくれたら、海音さんを知ってくれる人もどんどん増えるかもよ」

「う、でも……なんて書けばいいかわかんないし」

「一言だけでもいいじゃない。素敵とか、好きとか。書いていく内に慣れるし。とにかく何かを変えたいなら、自分から行動しないと」

「わ、わかった。やってみる!」


 あやと話をしてから、私は自分のSNSアカウントで海音さんの歌を広めるために発信を始めた。

 とは言っても慣れていないせいか、本当に一言を添える程度のことしか出来なかったけれど。あやも協力してくれたおかげで、ほんの少しだけれど、チャンネルの登録者数が増えてきた。

 それから、動画にもコメントを残すようにした。返信はなかったので、読んでくれているかどうかはわからないけれど。あなたの歌声に魅了されているファンがここに居る、応援しているファンが居るっていうことだけでも知って貰いたかった。

 そうやって過ごしている内に、二週間という時間は意外にもあっという間に過ぎ去っていった。



「ううー、緊張するー」

「なんで緊張するのよ、昨日まで子供みたいにはしゃいでたじゃない」

「だってさあ、さっきSNSでお知らせがあるって書き込みがあってさぁ」


 今日は八月七日、土曜日。時刻は夜の七時五十分。生放送のスペースはすでに開いており、一〇〇人近い視聴者が待っている状況だ。

 とりあえず、戻ってきてくれて良かった。お知らせっていうのが気になるけど。


「ねえ奈々未、チャットになんか変なヤツ湧いたわよ」

「へ、変なヤツ?」


 あやに促されチャットを見ると、最悪なものが視界に飛び込んできた。


『複垢で自作自演乙』

『人気出ないからって、引退匂わせて同情票稼ぐとか痛すぎ』

『登録者数伸びないのは才能がないせい』


「は? な、なにこれ荒らしじゃん!」

「どんな界隈にも居るのよねぇ。努力している人の足を引っ張って、何が楽しいんだか……って、奈々未? 聞いてる?」


 忌々しげに缶ビールを持ち上げたところで、あやの動きが止まる。彼女が何か言っているが、返事をする余裕はなかった。

 全身の毛穴が開いて、火が噴き出すのではという感覚。二十五年の人生の中で、こんなにも鮮烈な怒りを感じたことがない。


「才能がないだと……こいつ、海音さんの歌を聞いてないな! 聞いてから出直して来なさいよ!」

「ちょっ、なに反論してるのよ!? 荒らしなんか相手にしないで通報しなさいよ」


 あやの言い分はもっともだ。現に、私の反論は火に油を注ぐ行為でしかなくて。

 悪意のあるチャットが大量に溢れ、どんどん収集がつかなくなる。


『@推しに笹団子を与えたい ←アカウント名に推しっていう二文字を入れてるやつは間違いなく狂ってる』


「それは同意」

「あんたどっちの味方なのよ!」


 先にアカウント名を変えればよかったね! 


『あのさぁ』

「なによ! いいじゃん、笹団子美味しいじゃん!」

「……わたしじゃないけど」

「え?」

『僕のことをあれこれ言うならまだしも、僕を応援してくれるファンを貶すのは止めてくれないかな』


 誰の声か、すぐにはわからなかった。何千回も繰り返し聞いた声なのに。

 だって、いつもの気怠い感じがなかった。別人のように冷たく、威圧的な声だった。


「ひえ……海音さんが喋ってる……」


 多分、配信を待っていたファン全員が同じことを思っているはず。海音さんは生放送でも雑談をほとんどしない。簡単な挨拶から始めて、あらかじめ用意していた歌を歌う。

 アンチや荒らしまではいかなくとも、彼のスタンスに批判的なコメントはあった。その時は無視していたのに、なんで今日に限って反応してくれたのか。


『歌下手なくせに、仲良しのファンにちやほやされて調子に乗ってて痛い』

『きみの言動は、レストランで席に座りながらこの店マズい、食べにくる人間はどうかしてるって喚き散らしてるのと同じだよ。ああ、さっきの発言は撤回しよう。自分のことでもムカついてきた』


 海音さんがそう言った瞬間、画面が暗転する。それは一瞬で、すぐに映像は復帰した。

 そこには、海音さん本人が映っていた。初めて見たのに本人だとわかったのは、あまりにもイメージ通りだったからで。


「め、めちゃくちゃ格好いいじゃん……!」


 ひゃあああ! とあやが珍しく黄色い声を上げる。なるほど、傍から見ていたら確かに気持ち悪い。


『いい機会だ。きみのリクエストに答えてあげよう。僕の歌が下手かどうか、それで判断してもらおうか』


 カメラ位置のせいか、少し見下ろし気味のアングルの海音さん。それだけでもすごい破壊力なのだが、悶える余裕はない。

 リクエストされたのは、最近話題のロックだ。ヴォーカルは音声合成ソフトで作成されたこの曲はウィスパーから始まり、低音から高音、がなり声などの技巧が詰め込まれ、あまり人が歌うことを想定していない。

 だからこそ数多の歌い手たちがこぞってチャレンジしているものの、そのどれもがウケ狙いか、細かく修正の入った代物ばかり。生放送で歌うような曲ではない。

 それなのに、


『いいよ、喜んで』


 なんでもないことのように言った、数秒後。それは虚勢でもなければ、ヤケクソでもなかった。

 彼は歌った。気怠げな色気のあるウィスパーボイス。女性でも難しいハイトーンをカナリアのように奏でたかと思えば、スピーカー越しでも空気を震わせるがなり声。

 私でさえ知らなかった圧倒的な実力。曲が終わる頃には呼吸さえ忘れて、気がついた時には熱い雫が頬を伝っていた。


『ふう、そうかな。結構上手く歌えたと思うけど……あ、あれ。なんかチャット流れるの速いな。わわ、投げ銭も凄い』


 動揺する海音さまにハッと正気を取り戻し、画面に視線を戻す。たった一曲の歌が、状況を完全にひっくり返したのだ。

 ぐんぐん増えていく視聴者数、凄まじい金額の投げ銭、滝のように流れるチャット。もはや荒らしなど存在すら確認出来ない。


「SNSでも話題になってるみたいよ。もの凄い歌い手が現れたって。よかったわね、奈々未」

「よ、よかった……の、かな」

『あの、推しに笹団子を与えたい、さん』


 呆然としていたところに、推しの声。しかもアカウント名を呼んでもらえた。

 信じられないくらい嬉しいけど、マジで直しておくべきだったね!


「ひゃわっ、ふぁい!」

『ありがとう、たくさん応援してくれて。あなたのコメントにとても勇気づけられました』


 喋った、推しが。私のコメントを見てくれていた。笑ってくれた。

 目の前にあるお顔が、照れ臭そうにはにかむ。それだけでも画面が眩しいくらいに華やぐ。

 あれ、背後に花びらが舞ってない? 幻覚?


『あ、そうそう。お知らせがあるんだ。この度、『夢乃咲製作所』っていう同人ゲームサークルで作曲を担当することになりました。元々ゲームが好きなんだけど、特に夢乃咲製作所は昔からファンで――』

「夢乃咲製作所! あのグループのゲームって、界隈では超人気なんだよねぇ。グッズとかもすぐに売り切れちゃうし、コミカライズも……って、奈々未? 大丈夫?」

「もうだめ、尊い…一生推す」


 あまりにも眩しくて、直視出来ない。私は床に倒れ、両手で顔を覆う。

 私は死ぬまで、海音さまを推し続ける。呻きとして漏れ出た決意にため息を浴びせられたものの、気持ち悪いとは言われなかった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る