2020年3月3日 国内の累計感染者が999人になったこの日、隣人の美少女が「一人暮らしは寂しい……」と泣いたので抱きしめて慰めてあげました。

逢坂玲奈は喉が痛い

 小早川こばやかわ陸斗りくとの両親は、都内の民間病院で働く医療従事者だ。

 国内のコロナ感染者がまだ数例だった頃から患者を受け入れ続けている日本有数の大病院で、小早川の両親は昼夜関係なく働いている。


 小早川の両親は、2つの意味で家庭内感染を懸念した。

 医療従事者である両親から子供に、もしくは子供から両親に感染する懸念だ。


 数秒が命取りに直結する救急医療で鍛えられた両親の決断は早かった。

 高校近くのマンションを借りて、そこに息子を自主隔離させることにしたのだ。


 それが、小早川の一人暮らしが始まるきっかけだった。


 あまり気乗りがしなかった、引っ越し当日のことは覚えている。

 最低限のマナーで挨拶ぐらいはしておこうと、隣室のチャイムを鳴らしたことを。

 ドアを開けて出てきたのが、同じ高校に通う逢坂あいさか玲奈れなだったことを。


 そこで交わした数秒の会話は、他人同士の短いものだった。

 小早川が隣室に引っ越してきたことを告げて、逢坂がそれを了承しただけだ。


 ………………

 …………

 ……

 …


「そぉ~っと、です」

「……ん、むぅ」


 いつの間にか寝ていた小早川は、なにかの気配で目覚めた。

 寝起きで不明瞭な意識とぼやけた視界が、徐々にクリアさを取り戻していく。


 昨日は……逢坂の見守りをしていたハズだ。

 どうやら自分は、すやすやと眠る逢坂の見守りを放棄して床で熟睡したらしい。


 視界が明瞭になっていく。目の前に何かがある。

 視界を覆い尽くすのは、肌色をした何かだ。

 鼻腔をくすぐるのは甘い匂い。規則的な柔らかい風を感じる。


 目覚めて気づくと、小早川の顔面をゼロ距離から覗き込む逢坂の顔があった。


「……なにしてんだ?」

「あなたが床で寒そうにしていたので、お布団をかけてあげようと」


 顔と顔の距離が近い。女の子の甘い匂いがする。

 妙な気恥ずかしさで頬を赤らめて顔をそむけた小早川に対して、逢坂のマスク越しに見える瞳はジト目だった。言葉ではなく視線で怒りを向ける逢坂の瞳は「ゴゴゴゴ……ッ」という効果音が似合いそうだ。

 ただならぬヤバい気配を察して、小早川は冷や汗混じりに聞いてみた。


「調子はどうだ?」

「おかげさまで、すっかり良くなりました」


 真顔の淡々としたお返事が怖かった。

 風のうわさで耳にした逢坂あいさか玲奈れなという同級生の性格は、寡黙で物腰が柔らかい良家りょうけの子女といった感じで、人当たりがよくて、振る舞いに品があり、他人を傷つける言葉を絶対に言わない聖女キャラらしい。そのおかげか無数の告白をごめんなさいで拒絶したにも関わらず、彼女に逆恨みで恨みを抱いたり、他の女子からの妬みもほとんど買っていないらしい。


 だがいま目の前にいる生物は、聖女ではなく放射性物質だ。


 無味無臭で不可視だが、皮膚で感じる何か。

 とにかくヤバい。何かとてつもなくヤバい気配を、小早川の本能が知らせてくる。


「もしかして、俺が寝てたから怒ってるのか?」

「あなたには怒ってません。今朝起きたら監視役が幸せそうに寝ていてイラッとしたのは否定しませんが、男の人を自室に招いて一晩を過ごした私の迂闊さにイラッとしているだけです」

「やっぱり怒ってるじゃねーか」

「本当に迂闊でした。悔やんでも悔やみきれません。私はコロナ疑いだったのに……あなたの親切に甘えて、あなたを危険な目に合わせてしまうなんて……」


 逢坂の凍りついた真顔に感情がもどり、瞳にじんわりと涙が浮かんできた。

 そのマスク越しの可憐な美しさに、場違いなドキドキを覚えてしまう。


「本当に申し訳ありませんでした……どうやってお詫びしたらいいか……」


 小早川は自分のせいで泣かせてしまった彼女を抱きしめて慰めてやりたいと思ったが、彼氏でもない男が逢坂に触れてはいけないと自制する。


「咳は止まったみたいだな。熱は大丈夫か?」

「はい。まだ喉が痛いですけど、お薬が効いたみたいで、すっかり良くなりました」

「それはなによりだ」

「まだ喉が痛くて水を飲むのも辛いですけど、昨日に比べたら全然マシです」


 はにかみながら答えた逢坂に、小早川は安堵する。

 たぶん、逢坂の風邪はコロナではなかった。

 この時期によく流行する細菌性の風邪で、コロナ以外だと判断した。

 怪しいのはマイコプラズマ肺炎だが、素人の推測は口にせず。

 床から立ち上がりつつ、壁の時計に目を向ける。

 早朝の5時。変な時間に起きたが、外は明るいから問題ない。


「ちょっと待ってろ。コンビニでアイスかゼリーでも買ってきてやる」

「あなたに、そこまでさせるわけには……!」

「俺の朝飯も欲しいからな。そのついでだ」

「でも……せめて、お金ぐらい出させて下さいっ」

「よし、交渉成立だ」


 小早川は(金を受け取って逢坂の罪悪感が薄れるならいい)と、逢坂が財布から出した千円札を3枚受け取る。


「……少し多くないか?」

「昨日のお礼も入ってます。私からすれば安いぐらいです」

「そういうことなら、まいどあり」


 千円札を指で挟んだ小早川が、ドアに向かうと、


「あのぉ……」


 逢坂が声をかけてきた。

 小早川が振り返ると、ほんのり赤面した逢坂が視線を逸しながら。

 ネグリジェ・パジャマの裾を掴みつつ、控えめの消え入りそうな声で言うのだ。


「……いってらしゃい、です」

「ぐはっ」


 妙な声を出してもだえる小早川陸斗は、16年間の人生で初めて知った。


 強烈な可愛さとは、物理的な衝撃を伴うものだと。


 羞恥に頬を染めてお見送りをする逢坂は、言葉で表現できないぐらい可愛かった。

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