逢坂玲奈の意思表示


 小早川と逢坂の住むマンションは、1Kのオーソドックスな間取りだ。

 玄関を開けると、8帖の洋室に繋がる廊下がある。

 廊下の右側にキッチン、左側にはふすまで仕切られた浴室とトイレがある。

 一人暮らしの学生には贅沢な住まいで、小早川が(金を掛けすぎではないか?)と両親に場違いな不満を抱くほどの部屋だった。


「俺にできるのはここまでだ。何かあったら壁を叩いて知らせてくれ」


 小早川は、異性の部屋に踏み込むほど非常識ではない。

 逢坂を玄関前まで送り届けて、自分の役目はおしまいと思い込んでいた。


「ありがとうございます……」


 あいもかわらず苦しげな逢坂が、簡単なお礼を口にしたその時。


 ――ティンタン♪


 逢坂のスマホが鳴った。

 発信元はニュースアプリで、新型コロナの速報ニュースを伝えてきた。


――――

相次ぐ若者の突然死。新型コロナが原因か


 先月26日、新型コロナウイルスの感染拡大が深刻なイタリアで20代の女性が路上で意識を失い死亡した。女性は司法解剖で新型コロナウイルスに感染していることが判明した。現地では新型コロナウイルス感染症が健康な若者の突然死を誘発するのではないかと憶測が広がっている。

 専門家に話を伺うと「新型コロナウイルス感染症が健康な若者の突然死を誘発する可能性は否定できない」と語った。

――――


 逢坂の表情から、さぁーと血の気が引くのが見えた。

 彼女は高熱でフラフラではなく、恐怖で肩をふるふると震わせながら呟いた。


「私、ツイッターで見たことがあります……中国の路上で健康そうな人が突然倒れて手足をビクビク痙攣させる防犯カメラの動画を……」

「てんかんの発作とか、新型コロナと別の理由がありそうだな」

「中国では毎日何百人もの若者が突然死しているそうです……動画も毎日アップされてます……」

「中国の人口は14億人だ。統計的に路上で倒れる人が毎日何百人もいて自然だと思うが?」

「でも……怖いです……」


 ヒシ――っと。


 高熱で意識が朦朧とする逢坂は、力の入らない指先で小早川の服を掴んだ。

 逢坂はそのまま倒れ込むように姿勢を崩した。


「おい!」


 小早川は、抱きしめるような格好で、倒れゆく体を支える。

 慌てて抱きかかえたので、顔と顔の距離がとても近い。

 全身で感じるのは、女の子の柔らかさと、高熱に苦しむ逢坂のぬくもり。

 汗ばむほど体温が高いのに、彼女が小刻みに震えているのが伝わる。

 吐息が届くほどの至近距離にある逢坂の瞳に涙が浮かんでいるのが見えた。


「しっかりしろ!」


 逢坂は激しく咳き込みながら、ハァハァと浅くて早い吐息で呼吸している。

 苦悶の表情を浮かべる逢坂は、とてもつらそうに言葉を発した。


「だめです……私のコロナが伝染るかもしれません……」


 他人同士とはいえ、このまま放ってはおけない。

 だが、彼氏でもない男が一人暮らし女性の部屋に入るのは抵抗がある。

 だから、知り合いの女性を呼ぼうと考えた。

 小早川には気心の知れた幼馴染の女子がいる。コロナで休校になって暇を持て余しているヤツを呼び出して逢坂の看病をさせようと考えたが、看病で新型コロナに感染する可能性が否定できない。この案はリスクが大きすぎる。


 あとは、小早川が逢坂の部屋に入って看病する手がある。

 これなら感染しても小早川の自己責任で済むが、別種のリスクが生じてしまう。

 だが、


「……私は大丈夫です……はやく離れてください……」


 未知の病気に怯えて苦しむ逢坂を見捨てることはできない。

 涙を流しながら『怖いです……』と口にした少女を見捨てることは、小早川の正義が許さなかった。

 小早川は、深く息を吸い込んでから言った。


「症状が落ち着くまで見守ってやる。信頼できるなら俺を部屋に入れてくれ」


 逢坂は咳き込んで、返事ができなかった。

 逢坂は言葉ではなく、小早川の服を掴んだ指先にギュッと力を込めた。

 小早川は、それを逢坂の意思表示とみなした。

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