北伊勢平定と忍び寄る暗雲

「川俣兵部少輔、自刃して果てたとの由にございまする。女と子供は城から脱して落ち延びようと試みたようですが、全員捕縛しておりまする」

「左様か」


 六角定頼は伝令兵の報告を聞くと、ホッと息を吐いた。後藤但馬守に川俣攻めを任せ、定頼自身は神戸攻めの本陣に身を構えており、逐一報告を求めていたのである。川俣と神戸、このどちらかが崩れた瞬間、戦況は決すると見ていた。そしてこの戦はいかに損耗少なく勝利するかが追求されることとなる。


 定頼の読み通り、川俣が降伏したことで六角の全力に対応する必要に迫られた神戸は、六角勢の勢いに耐えかねて、川俣の降伏から数日ののち自ら城に火を放って果てた。


 こうして北伊勢全土の平定が成り、六角は後藤但馬守の兵を丸ごと北伊勢の掌握のために残し、本隊を撤退させることとなった。


 六角軍は梅戸城で一夜を明かした後、翌朝に観音寺城に向けて撤退を始める。八風街道の石榑峠を越えて近江国に入ると、軍全体は微かな安堵感に満ちた。


 八風街道沿いにある永源寺は六角家の先祖が建造した物であり、峠越えを果たした六角軍は愛知川を挟んだ寺の南で野営し、定頼を始めとする重臣は永源寺に宿泊していた。


「……何事だ?」


 寺の一室で就寝していた定頼は、風に乗って微かに流れてきた金属音を察知し瞼を開いた。


「わ、わかりませぬ」


 見張り番に声をかけるも、分かるはずもない。警鐘を鳴らす自らの心の臓を抑えつけながらも、襖を開き縁側から鋭い眼光で周囲を見渡した。しかし暗がりの先の光景を垣間見ることはできず、静かに歯を軋ませる。


「管領代様、ご無事ですか!」


 寺の住職に続くように重臣の面々が現れる。その表情は一様に困惑の色を帯びていた。


「何があったのだ」

「野営している本陣が何者かに襲撃されたと」

「夜襲、か」


 心の中で既に答えは出ていたからか、定頼の中に驚きは無かった。額に滲んだ汗を拭いつつ瞑目する。重臣の面々も定頼の判断を待っていた。


(近江に入った故に自然に心が緩んでおった。まだまだ詰めが甘いわ。こうした不測の事態も想定すべきだった)


 寺の南に流れる川が定頼と本隊を分断しており、即座の合流は不可能だった。寺の敷地は野営できるほど広くはなく、必然的に川を挟んだ向こう岸に陣を敷くことになっており、寺の守備に割く将兵はごく少数に限られていた。


(この隙を狙ったと考えると、かなりの切れ者と見受けるが……。靖十郎殿ということはまずあるまい。そうなると浅井、京極か? いや、今そのようなことを考えても後の祭りだな。まずはこの事態を打開せねばならぬ)


「住職、寺の裏に抜け道などはあるか?」

「西と北にいくつか」

「西に落ち延びるのは拙かろう。開けた場所にみすみす姿を現すわけにもいかぬからな。となれば北か」

「北の道は角井峠へと通じておりまするが、とても道と呼べる代物ではなく……」

「ここで敵に葬られるよりは余程良い。案内してくれ」

「しょ、承知いたしました! こちらにございまする」


 定頼は歯噛みしつつも、ここで徒に時間を浪費して留まるのが最も愚かだと考え即座に判断を下す。定頼の判断に異を唱える者はいなかった。


「明かりはつけるでないぞ。敵に察知されては我らの逃げ道が露見してしまう故な。可能な限り足音も殺すのだ。敵がどこに潜んでいるかわからぬからだ」


 定頼は永源寺の住職の先導に従い、険しい山道を進みながら僅かばかりの配下に釘を刺す。一行が進む道はもはや道と表現できるほど整ってはおらず、小川がすぐ側を流れているためか土壌はやや緩く、足場は非常に不安定なものだった。


 しかしそれもまだ良い方であり、さらに進むと東近江の山々が立ちはだかる。道はいくつもの稜線を伝って細々と繋がっており、あまりの険しさに、厳しい鍛錬を日々積んでいる重臣ですら揃って顔をしかめた。


「住職、ここまでで構わぬ。我らは日頃鍛えておる故問題あるまいが、お主にはちと過酷であろう」

「六角家には代々手厚い支援を頂いておりまする。困難の時にこそその御恩に報いずして、どうして御仏の代弁者を名乗れましょうか。こうして身を賭してでも管領代様をお守りせよと、御仏は申しておられるのです」


 定頼は歪みのない真摯なその言葉に目を細める。そして瞑目して静かに二度首肯すると、再び先の読めない深淵に歩みを進めた。








 



 それは六角定頼が重臣を総動員して北伊勢に攻め入ってから数日後のことであった。留守居役を任された嫡男・六角義賢の元にある男が訪れていた。


「北近江の商人? 左様な下人が俺に何の用だ」

「何やら武器を提供したいと」

「武器? どういう意味だ」

「いえ、私からは何とも。お会いになりますか?」

「父上不在の時にわざわざこの俺と会おうと訪ねてきたのだ。見込みがあるやもしれぬ。期待はせぬが会うことくらいなら良い余興になるゆえ、その商人とやらを連れて参れ」

「はっ、承知致しました」


 義賢は勝ちがほぼ決している戦にすら従軍が許されない己の現状に歯痒さを感じていた。同時に自分を認めてくれる存在を心から欲していたのである。そして“武器”という自らの未熟さを補う可能性のある存在に心を揺るがされたのもあった。それゆえに、身分が下の者を見下す義賢にとって、平時ならまず合わないであろう商人にすら会う判断を下したのだった。


「お主が北近江の商人とやらか」

「お会いできて光栄にござる。某は岡島美作守と申しまする」

「ふん、父上に用があったのではないか? おらぬことを知ったが何の収穫もなく帰りたくはなかった、その辺りか」

「まさか。商人と名乗る身でありながら管領代様の不在を知らぬ訳もありますまい。某は四郎様に謁見するべく、参上致し申した」

「まあいい。“武器”と申しておったが、詳しく話を聞こうか」

「四郎様は六角家中におけるご自分の立場はどうお考えにございますかな?」

「……何が言いたい」

「単刀直入に申しましょう。四郎様は近頃管領代様から蔑ろにされておられる。それをご自身でも薄々感じているのではありませぬかな?」

「貴様は俺に叩き割られたいのか? 商人の分際で分かったような口をほざくな」

「当初は厳しい戦いが強いられると考えられていた北伊勢侵攻ですが、冨樫勢の奮戦により勝ち戦になり申した。にも関わらず管領代様は」

「貴様も俺を馬鹿にするのか!」


 義賢は腰刀を抜いて剣先を美作守へと向けた。美作守は微動だにしない。帯刀していないから腹を括っているのだろうと義賢は読んだが、その瞳には真意が窺い知れぬ不気味さを孕んでおり、相手は無腰なのにも関わらず義賢はそれ以上接近することができなかった。


「そうは思いませぬか? 管領代様が出陣なされた時点で、北伊勢の趨勢はもはや決しておりました」


 実際のところ、定頼も戦況が大きく変化したことで北伊勢侵攻は義賢に委任する考えを持っていた。しかしながら、体調不良という義賢の自己申告を慮って、その決断を見送ったのである。若年の義賢はそれを汲み取ることはできず、美作守の巧な話術に引き込まれていく。


「……貴様の申す通りだ」

「そして管領代様はその興味をかの冨樫左近衛権中将に移しておられる。それにはお気づきですかな?」

「無論だ。父上は何かとあやつと俺を比べる。そして俺の前で奴を褒めちぎるのだ。まるで俺が眼中にないと言わんばかりにな」

「左近衛権中将が憎いですかな?」

「ああ、憎い。奴さえおらねば俺はもっと父上に見てもらえるはずなのだ」

「その左近衛権中将が六角家の当主の座を狙っているとしたら、如何思われますかな」

「……それを父上が許すはずがない」

「本当にそうでしょうか。管領代様が嫁がせたのは、猶子とはいえれっきとした六角の血族にございまする。公家である三条家の娘でもあり、先代当主の息女でもある」

「……」

「何よりも客将として六角家に迎え入れられてからの功績も並大抵のものではありませぬ。短期間で伊賀を平定し、多くの銭を稼ぎ、領地を豊かにし、単独で北畠を地に落とした。家督を継ぐには申し分ないでしょう」

「まさか父上がそのような愚かなことをするとは」


 驚愕と失望が入り混じった複雑な胸の内に虫が這ったような感覚を覚え、義賢は小刻みに咳こんだ。


「それを止めるには四郎様の御力がなければ叶いませぬ」

「何が言いたい。貴様はただの商人であろう。武器を提供するから父上に叛旗を翻せと言いたいのだろうが、分を弁えよ!」

「赤尾という名を聞いたことはありませぬかな?」

「赤尾? 浅井の家臣か。それがどうした」

「某は赤尾美作守清綱と申しまする」

「ほう、名を偽っていたことは不問と致そう。その赤尾が何の用だ?」

「単刀直入に申しまする。浅井家は四郎様に兵をお貸しする用意がございます。それを武器と表現したまでにございまする。北伊勢に出陣している今しか機会はございませぬ」

「……」

「聡明な四郎様が正当なる六角家の次期当主であることを世に知らしめるのです。この機を逃せば、六角家は冨樫に乗っ取られることになりましょう。四郎様の類い稀なる才覚を見出せぬ愚かな管領代様は盲目も同然にございまする。四郎様、その手で管領代様の目を覚まさせるのです!」

「ふ、ふはは。我が父は盲目も同然か。父上は正しい判断力を失っておられる。それを覚まさせるのも嫡男の役目というものだな。分かった。貴様の武器とやらを借りようではないか」

「ご英断にございまするぞ。浅井は全軍を以て支援致しまする故、四郎様は堂々とお構えくだされ」


 清綱は深々と頭を垂れて敬意を表した。義賢は高揚感に駆られながら、武者震いのように揺れる自らの拳を見て白い歯を出した。








「何? 父上がおらぬだと?」


 六角軍の悲鳴が至るところで響き渡るのを遠くから余裕な表情で眺めていた義賢は、寺がもぬけの空だったという報告を聞き、途端に表情に影を落とした。


「申し訳ございませぬ!」

「ええい、まだ近くに居るはずだ。死ぬ気で辺りを探せ! ……さすがは父上というべきか。身の危機を即座に察知し、どこかに身を隠したのであろう」


 父に対して叛旗を翻してしまった以上、その父の身柄を確保できないという結果は、義賢にとって敗北に近いものだった。義賢自身に父を天に送るつもりなど毛頭なく、あくまで自分の力を誇示し、認めてもらおうという魂胆である。もっとも、浅井に相当な助力を受けた以上自身の意向がすんなりと通るはずはないわけだが、経験が浅く若年の義賢がそこまで思考を及ばせるのも酷な話であった。浅井は父に対する承認欲求と、義賢自身の未熟さ、愚かさにつけ込んだのだ。


 結果的に定頼が率いていた本隊こそ壊滅に追い込んだものの、一方で一晩中捜索しても、定頼ら重臣は誰一人として見つかることはなかった。定頼一人ならばまだしも、六角家中で強い権勢を誇っていた六宿老は全員根切りにし、自らの家中での地位を上げようと目論んでいた義賢は大きく落胆した。


 そして夕刻になると、定頼や宿老たちは一人として欠けることなく北伊勢の梅戸城に入ったという報告を受けた。当然ながら義賢は激怒し、周囲の者を責め立てる。しかし義賢は気づかなかった。破滅の足音が背後から迫っていることに。


 

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