南伊賀の窮状

「今年は色々なことがあったな」

「そうですね」


 天文四年(1535年)も暮れに近づいた。夫婦の居室となっている部屋は二十畳以上あり、広々としている。炬燵に入りながら外の雪景色を眺めていた。


 今年は本当に濃い一年だった。一月に稍と婚礼を挙げてから、伊賀守の叙任、伊賀攻略、伊勢・尾張訪問、一向一揆対細川・法華宗の決着。ざっと挙げるとこんなものだが、この一年で俺を取り巻く状況は大きく変わった。十二月には史実通り三河で松平崩壊の端緒となる森山崩れが起こっている。この後、織田信秀が松平領を攻めるなど、織田弾正忠家が三河での攻勢を強めていく。そして駿河・遠江の今川を頼る形となった松平は、織田と今川の板挟みの状況に徐々に退勢を加速させていくことになるのだ。


「冨樫家には慣れたか?」

「はい。皆良くしてくださっています。伊賀もいいところです。靖十郎様のお陰ですね」


 本心からの言葉であることは一目瞭然で、ホッとした。稍との夫婦仲はこれ以上ない程に良いが、それは俺の主観に過ぎない。実際のところ稍がどう思っているのかは本人にしか知り得ないのだ。


「不満、不自由に感じていることはないか?」

「いえ。最近は靖十郎様のお側に居られる時間が多くて不満などありません」

「そうか。それは良かった」


 稍は寄りかかってくる。瞑目してリラックスした様子だ。心を許してくれているというのは、こそばゆいがやはり嬉しい。


 二人の会話が止み沈黙するが、そこに気まずさなど一片も存在しない。荒んだ戦国の世でもこうして安寧と平穏を享受できるのは、稍の存在があるからだろう。


「殿、服部半蔵様がお見えにございます」

「分かった。通してくれ」


襖の向こうから小姓の太田又助の声が届くと、ハッとしたように反応した。


「靖十郎様、失礼致します」

「ああ」

「おっ……と。失礼致しました」


 襖が空いて半蔵と目が合うと、俺に寄りかかった稍の姿を見て焦ったように視線を逸らした。稍は少し距離を置いて微かに頬を赤らめている。左肩の温もりが徐々に消えていく。少し残念に思った。


「後ほどでも構いませぬが」

「このままでよい。わざわざ壬生野まで訪ねたのだ。火急とは言わずとも何か報せがあるのだろう?」

「はっ、申し訳ございませぬ。ではそのお心遣いに甘えさせて頂きまする」


 俺は稍に声をかけて、退室を促した。


「それで、何があった?」

「名張郡の百地清右衛門正永が庇護を求め、面会したいと」

「ここへ来ているのか?」

「はい」


 百地正永は上忍三家の一つで、服部・藤林と並ぶ伊賀の実力者だった。やはりというべきか、名張郡から民の流入が近頃増えていると報告を受けていたので、いずれこういうことになると想定はしていたが、正直頭を抱えたくなる。名張郡は北畠の間接統治下であり、冨樫の支配下に置けば面倒なことになるからだ。


「せいぜい来年の収穫前の夏頃かと思ったがな。年を越せなかったか」

「左様。困窮して名張から北に流出する民が想定以上に多かったようで」

「無理もない。毎年慎ましく生きていても餓死者や凍死者が後を絶たなかったのだ。冬は合戦もなく忍びの仕事も少ない。冬を越すために必要な食べる物がなければ生きることはできぬ。今年は伊賀全体が不作だったからな」


 今年は冷夏で日照時間も短く、稲の育ちがあまり良くなく満足な収穫を迎えられなかった。石高の低い伊賀では米以外の作物が重要になってくる。俺が治める北伊賀では不作を見越して蕎麦や稗、芋など救荒作物を作らせて、民が飢えないようにしたのだが、それもあってか、名張郡の民はこのままでは冬を越せないと判断し、冨樫家の庇護を受けようと続々と移ってきたのだ。


 隣の芝は青く見えるものだ。実際青いのは事実だが、貧しい名張の民の目にはそれが殊更強烈に映ったのだろう。ただ、ここまで早く音を上げるとは思っていなかった。


「如何なさいますか」

「追い返すわけにもいかぬ。話を聞こう」

「承知致しました」


 ため息が出た。半蔵も難しい顔をしている。どう対応すべきかな……。







「百地清右衛門正永と申しまする」


 会見の間に向かうと、濃い髭面の渋い男が平伏して固くなっていた。


「冨樫伊賀守だ。庇護を受けたいとの話だったが、何ゆえにそうなったのか聞かせてはくれぬか」


 俺が尋ねると、表情が更に引き締まる。


「夏の不作が原因で領内で小競り合いが頻発致してござる。特に元々然程仲が良くなかった滝野と布生の対立が激しく……、結局は互いが互いの土地を荒らす結果に終わり申した」

「ふむ」


 歯切れが悪いな。やけに音を上げるのが早いと思えば、土豪の内輪揉めの所為だったか。ただでさえ不作なのに、田畑が荒れて収穫が更に減った。滝野と布生は伊賀十二人衆に数えられていた有力者だ。名張郡の滝野と伊賀郡南部の布生、この二家以外の有力者は俺の統治により目に見えて良い生活を送っている。それに焦ったのかもしれないな。

 

「某が諌め申したが、このままでは多くの民が餓死するのは免れぬと考え、こうして参じた次第にございまする」

「事情は分かった。だが私は六角の客将故、北畠の影響下にある南伊賀を差配するのが難しいのは理解しているな?」

「はっ、承知致しておりまする。無礼を承知で申し上げまするが、伊賀守様は人情深い御方ゆえ、苦しんでいる者を見て無下に扱うことはないと……」


 半蔵が虚空を見つめている。半蔵の差金か……。


「北畠は頼れぬのか?」

「北畠の者は我らを賤しい素破と見下しておりまする。そんな我らが頼ったところで、結果は目に見えておりまする。されど伊賀守様は素破を粗略に扱うことはないとお聞き致しました」


 北畠も存外と頼りにならないな。間接統治とはいっても、無償で援助するつもりはないということだろう。もし援助を受ければ、それをダシにして南伊賀の民を使い潰そうとするかもしれない。もしくは完全な従属を強いられる可能性もある。一定の独立性を堅持してきた伊賀衆にとって、虐げられ使い潰されるのは屈辱だろう。


「……そこまで言われては無下に断るわけにも行かぬな。だが、しばらくは北畠との関係は表向きはそのままで様子を見るとして、とりあえず当家からは食料の援助のみ行うこととする。ただし、もし当家や六角が北畠と衝突するとなった場合は我らに協力すること。そして滝野、布生には此度の責により隠居させ、後継ぎ以外の子女を冨樫家に人質として預けることを条件とする。これでどうだ?」


 六角家の判断を仰がずに南伊賀を併合し、公然と統治を始めれば、北畠と敵対する恐れが大きい。北畠の戦力を考えれば流石にそれは浅慮が過ぎる。


「はっ、それで構いませぬ。寛大な処遇に心より感謝致しまする。これより南伊賀の民は伊賀守様に臣従いたしまする」


 今はこれが精一杯だろう。おそらく百地も俺が断れないと分かっていて、これを求めていたのだろう。さすがは伊賀三上忍というべきか、図太いというか、なかなかしたたかな男だ。


 個人的な気持ちを抜きにしても、伊賀国司としては見捨てることはできない。伊賀の民を救うと長門守に告げたし、何より帝にも誓ったからな。ここでこの申し出を突っぱねれば俺の人望にも関わる。これで良かったと思うことにした。

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