リーシャと魔王と山々と

常盤しのぶ

もしかしてアホなのか?

 両開きの窓を開けると、暖かな風が彼の顔を包み込んだ。腰まで届きそうな真っ直ぐの白髪が僅かに揺れる。柔らかい日差しを浴びた山々を目を細めて見てみると、既に他の動物たちは既に活動を始めていた。太陽は頂上に達しようとしている。


「少し、寝すぎてしまったようだ」


 彼は自嘲気味に頭を掻くと、寝起きの足でのそのそとキッチンへ向かった。

 昨晩は雨が酷く降り続いていた。雷も時々鳴り、寝るには落ち着かなかったので麓の街で買い込んだ本の一冊を読み始めた。自殺をしようとする女性を20人のスモウレスラーがあらゆる手を使って引き止める話だ。展開が気になりすぎて寝るのを忘れ、結局昨晩のうちに一気に読み切ってしまった。


「面白いのは大いに結構なのだが、昼まで寝こけてしまうとはね。面白すぎるのも考えものだ」


 コンロの薪を適当に均し、指からピンポン玉ほどの火球を出し、火をつける。水を入れたヤカンを火の上に置くと、右脇に置いてあるコーヒー缶に手を伸ばした。彼の胃袋は起きたばかりでは固形物を受け付けないため、起き抜けは決まってブラックコーヒーだけを飲む。以前、この習慣を目にした部下から「そんな生活では身体を悪うしますぞ」と叱られたことがある。沸騰するまでの間、彼は昨日読んだ本の内容を反芻していた。


「しかし、スモウレスラーなんて人間がこの世に存在するのだろうか。地に膝をついただけで精神的な死を味わうほどの強い戦闘本能を持った大柄な人間。……まるでファンタジーの世界だ」


 コーヒーフィルターにコーヒーの粉を入れ、沸騰したての湯を注ぐ。コーヒー特有の芳しい香りが彼の頭の目覚めを手助ける。コーヒーの粉を買ったついでにその店の主から美味しいコーヒーの淹れ方を教わっていた。しかし、どうしても脳内でスモウレスラーが邪魔をして思い出せない。またコーヒーの粉を買いに行く時に聞くことにした。

 コーヒーを注いだマグカップを持って外に出る。昨晩の雨でできた水たまりの付近に小鳥が数羽集まっていた。水たまりの水を飲んだり、しきりに地面を突付いたりしている。彼はウッドチェアに腰掛け、コーヒーを一口含んだ。


「平和だ」


 ついこの前まで大雪が降り積もり、身が凍えるような季節だった。山の寒冷期はあらゆる生物を滅ぼすほどの極寒となる。しかし、ここ数日でようやっと暖かくなり、野菜を栽培できるレパートリーがこれから少しずつ増えていく。ガーデニングもそろそろ再開するか、とぼんやり考えていた。彼は暇な時、頻繁に庭いじりをする。以前、麦わら帽子を被り、汚れても良い作業服で庭いじりをしている彼を見た部下から「そのような格好でそのようなことをされては下々への威厳が保てませんぞ」と叱られたことがある。


「昔はこんなに退屈な時間はとても希少だった。悪くない」


 3000年前、悪行の限りを尽くしていた彼の前に立ちはだかった数人の人間、彼らによって魔力の殆どを奪われ、瀕死の重症を負った。命からがら逃げたはいいものの、生き延びるためにまずは魔力の回復が急務だった。かつて魔族に威厳を放っていた漆黒の身体は魔力不足により消え失せた。限られた魔力では人間の身体を維持するのに精一杯だった。当初は休息のために城から離れた山の中腹に居を構えたが、これが思いの外快適だった。かつては人間への復讐心に燃え滾っていた時期もあったが、今はそのような感情はほとんど抜け落ちている。たまに麓の街へ買い出しに出かけるが、見た目が人間の姿であるため、彼が魔族であると悟られたことは今でもない。


「しかし、その平和も」


 視界が開けた庭の端から、何かがこちらに向かって歩いてくる。身体は鈍い銀色の鎧を纏っていたが、頭は何も被っておらず、金髪が揺れているのが見て取れた。鈍器のような大剣を携え、こちらを睨みつけている。鎧の主は水たまりを踏み抜き、足元が泥で汚れた。先程までいた小鳥はいつの間にかいなくなっていた。


「やっと見つけたぞ、魔王!」

「―――長くは続かないか」


 声の主は意外にも女性だった。端正な顔立ちは育ちの良さを思わせ、その青い目は魔王をじっと見据えている。見た目は勇ましいが、魔王が思っているほど歩くスピードが速くないことに気がついた。どうやら酷く疲れているらしい。魔王の目の前まで辿り着いた時には息が絶え絶えになっていた。何かを喋りたそうにしていたが、息が上がって思うように言葉が出ないように見受けられた。おそらく相応に鍛えてはいるのだろうが、見た目が華奢な上に重厚な鎧と大剣が彼女の体力を容赦なく奪った原因に思えた。

 5分ほど経過し、鎧を着た女性の息も落ち着いてきた。魔王はマグカップをウッドテーブルに置く。


「魔王さんのお宅はここじゃないですよ」

「何!? これは失礼した。もし魔王の住処がわかれば教えていただきたいのだが」

「魔王さんはあっちの山を越えた先の川の上流に住んでいます」

「ありがとう! 恩に着る!」


 女騎士は魔王に礼をすると踵を返し、左の山の方へ向かってずんずんと歩き始めた。

 魔王は再びマグカップを手に取り、その後ろ姿を見守る。


「……もしかしてアホなのか?」


 応えるものはなく、風がそよぐだけだった。

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