2−2

 そんな風にイヌイさんばかりを気にしていたせいか、己のことが疎かになっていた。翌日、僕は迂闊にも教科書を忘れてしまった。

 気づいたのは授業直前の休み時間で、取りに帰るのは不可能だった。自慢じゃないけれど、他のクラスに友達がいるほど僕の交友関係は広くない。そもそも授業で使うものを忘れたなんて恥ずかしくて誰にも言えない。〈思いやり〉より1グレード上の〈品行方正〉を選ばなかった両親を恨めしく思う気持ちが芽生えるけど、それも一瞬のことですぐに〈親孝行〉が打ち消した。

 刻々と時計の針は進んでいき、何も解決しないまま時間が来てしまった。定刻通りに担任教師が教室に入ってきて、みんなが起立した。僕は動作が1テンポ遅れた。

「ねえ」みんなが着席する音に混じって声がした。イヌイさんだった。「見せてあげようか、教科書」

 初めて声を掛けられたことに驚くあまり、言われたことを理解するのが遅れた。ようやく意味が染みこんできて、僕はハッとした。大きく首を振る。

「いや、いいよ。迷惑かけるわけにはいかない」

「けど、ないと困るでしょ」

「忘れたのは自業自得だから」

 するとイヌイさんは机をこちらへ寄せてきた。僕たちの机がぶつかる音に、教室中の視線が集まった。僕は顔が熱くなるのを感じた。

「イヌイさん、教科書忘れたのかな?」担任教師が穏やかさを装いながら言った。

 違います、と僕は言おうとしたけれど、声が出なかった。代わりに横から、

「まあ、そんなところです」と、イヌイさんの声がした。

「次からは気をつけようね」

「善処します」

 やれやれ、という風に担任教師は首を振り、授業が始まった。

 隣を見ると、イヌイさんと目が合った。初めて気づいたけど、彼女の瞳は蒼かった。

 イヌイさんは苦笑いを浮かべ、肩をすぼめた。僕も微笑もうとしたけれど、うまくできたかはわからない。


 授業には集中できなかった。もちろん、イヌイさんが傍にいたせいだ。

 彼女からは不思議な香りがした。どこか遠くの国を思わせる香りだ。女子の匂い、というより、僕とは全く別の世界から来た人の匂いなのではないかと思う。そんなことを考えているうちに授業は終わり、イヌイさんは離れていった。お礼もうまく言えないまま時間は進み、あっという間に放課後になった。

 班のみんなはそれぞれ用事があるらしく、個別で帰ることになった。元々、集団下校をしなければならないという決まりはなく、ただ何となく〈みんながしているから〉と流れに従っていたに過ぎないので、こういうこともたまにある。ただ、一人で帰ることは推奨しないと学校側が明文化しているので、僕は一緒に帰る相手を探した。ちょうど昇降口のところでクラスの男子たちを見つけた。

 追いかけようとしたら、目の前に影が現れた。屈んでいた人影が立ち上がったのだ。

 あの香りがした。

「あ」思わず声が出た。

「帰るの?」

 蒼い瞳がこちらを向いている。僕は頷くことしかできない。

「じゃあ、一緒に帰ろう」

「え」

「一人で帰るのはダメなんでしょ?」

「ダメではない、と思うけど……」

「こういう時は〈ルール〉に従わないの?」

 その言い方にはムッとした。

「そっちこそ、こういう時だけは従うの?」

 するとイヌイさんは「あははは」と声を上げて笑った。

「怒った。ちゃんと感情があるんだね」

「僕だって人間だよ」

「ごめんごめん」と、イヌイさんはいなすように言った。「でも、そっちの方がいいと思う」

「そっち?」どっち?

「怒ったりする方が。教室では機械みたいだったから。君だけじゃなくて、あのクラスみんな」

 バケツに入った氷水を浴びせられたような気分だった。

 さっきとは違う原因で言葉を失った僕は、手首を掴まれた。冷たく白い指が、僕を捉えていた。

「行こう」

 イヌイさんに引っ張られ、僕は靴の踵を踏んだまま昇降口を出た。

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