第24話 ストレスを筋肉に

喰うや喰わずの暮らしですっかり痩せこけた男は、職場でのやり切れない怒りと諦念、孤独、失念で、人生の希望を見失っていた。上司から社会不適合者のレッテルを貼られた男は色んなことで目の敵にされて、皆の前で執拗に吊るし上げられ、時には大声で罵倒され、ことあるごとにバカ呼ばわりされ、神経をすり減らす毎日に、寝床に入ってもなかなか眠れなくなり、朝が来るたびに涙が溢れ、気が狂う一歩手前の段階で精神科に逃げ込み、抗うつ剤と、睡眠薬を貰い、会社には休職を願い出た。休職してからは退屈で単調な毎日にも段々と嫌気がさしてきた。医者からは運動を勧められてジムにも入会した。筋肉量の多い人間は精神的にも安定していると眉唾な情報を得てからは、プロテインを摂るようになり、ランニングも始めた。スーパーではサラダチキンや牛肉を買い、自宅でもトレーニングを始めた。ふとした瞬間に部屋の隅に置いてある鏡で自分の全身を見たところ、かなりの筋肉がついていて思わず驚きの声をあげた。自宅での筋トレは意外と苦にならず、何に時間を費やしたのか分からぬままに夜は早々と深まり、睡眠も十分にとれる体質に変化していった。男の父親は桁外れに強かった。あの不利な太平洋戦争を生き抜いた猛者である。孤高の柔道家として知られ、異常なほど肩幅は広くて腕や脚も極太。かつて戦中はアメリカ海軍の一個艦隊を独力で殲滅してしまった逸話を持つ化獣に幼少の頃から容赦無い躾を受けた。極寒の中、裸で外を走らされ、遅れると竹刀で何度も何度も叩かれた。皮膚は擦り切れて、ミミズ腫れのような跡形がいくつも背中に残った。男はこれ以上ここにいては殺されてしまうと、母に手をとられて夜逃げした。元々身体の大きな父親の遺伝で、身長は190センチあったが、仕事のストレスにより、体重は60キロしかなく、かなり痩せぎすな身体であった。男は筋トレの意欲が湧いたときは、ジムに八時間以上いることもあり、バーベルやダンベルのおもりをどんどん過重させていった。筋肉は恐ろしい勢いで膨れ上がり、血管が浮き出るほどにパンパンになった。背中の筋肉が

鬼の顔の形をしておりその鍛え上げられた広背筋、大円筋、僧帽筋(ヒッティングマッスル)が究極の打撃を生むのだと父親から聞いた男はひたすら自分を鍛え込み、バーベルやダンベルの重みもさらにどんどん加速させ、筋肉の質量を肥大化させた。朝昼晩とプロテインとグルタミン酸を飲み、睡眠時間を十分に摂るように心がけた。体重は120キロ超となり自分の身体が徐々に筋肉に冒されてゆくのを見守る日々が始まった。少しでも脂肪がついたと思えば、たちまちそれを排除した。男は己をもっと極めようと傭兵になった。己こそ最強、最大という地上最もワガママな主張を通して行き着いたのが戦場で、アフガンやモザンビーク、キプロスなどの最危険区域をたった一人で遠征した。アフリカではゴリラと力比べをして、両の腕をバキバキにへし折り、アイスランドではホッキョクグマと対峙し首をへし折り、大型のアフリカ象を一本背負いで投げ飛ばした。男は地球を殴りつけた。何十回、何百回と拳から血が湧き出て、骨がむき出しになろうとも地球を殴り続けた。ひときわ大きな音が天地をどよもし、地面にヒビが入るとそれはバキバキとたちまち割れて大きなクレーターができた。そばで見ていた女は身体をわずかにぴくりとさせ、唖然とした表情のまた男を見ていた。女は恐怖する気持ちよりも、畏敬の念が勝り、気がつくと男に身を委ねていた。男と女は結婚し、女はやがて子供を身籠った。女は生まれてきた息子の名前を刃牙と名付けた。

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