文月・帰:陽の中、かえりみち01

 彼を送り出した日のことを、思い出す。


 空には、突き抜けるような、青。

 限られた命を燃やし尽くすが如く鳴き始めた蝉の声は、鼓膜を破かんばかりに空気を震わせる。目の前の原稿用紙には、マス目に綺麗に収められた小さな文字が綴られていく。昔は寧ろ綺麗な字と言われる方であったのだが、文士という生き物になってからすっかりと癖のある字に変わってしまった。早く書く為に特化した結果、と言い訳してはみる。

 日付を見れば立秋、外の景色はまだ夏の色だというのに空気の温度はしっとりと涼しさを含み、秋がすぐ傍まで来ていることを肌に教えてくれる。

 同時に、ほんの少しばかりの悲しさを連れてくるのだ。尤も財布の中身は、いつだって秋か冬で春など到来したことなどないのだが。現に今だって文士仲間で仲のいい男の旧居で、長い身体を丸めながら書いている有様だ。

 目の前に転がっている三種類の煙草を手に取る。バッドと、スリーキャッスル、ゲルベゾルテといった銘柄を一本ずつ。それらを三本同時に吸うのが良い、と言えば「吸いにくいったらありゃしないじゃないか」と菊池寛に甲高い声で返された。このシガレットコクテルもしくはシガレットミクスチュアの美味さがわからないとは、全く話にならない。その為に作った三本立てのシガレットホルダア――五本立てもあるが、これも「わざわざこんなものを作ったのかい」とこれまた甲高い声で呆れられたわけで、全くこの友人は良さを全く解さない困った奴なのだ――は後世に残る発明品となるに違いないと自負している。足りないのは、かの友人を含む理解不足の面々に理解させるだけの知名度と普及なのだが、それは原稿用紙に綴られる小説が有名となること、すなわち自分が一流の文豪になるのが早道なのだろう。

 ああ、あいつだったら。

 まるで恋に馬鹿になったように煙草が好きだったあの男だったら、わかってくれるのだろうか。大爆笑するには違いないとは思うのだが、とまで思い至って、今もう彼がこの世界には存在しないことを思い出した。


 うだるような、夏の空気の中。白と黒の揺れる中、あの男は自らの意思で旅立った。


 報せを受けて、流石に着流しで行くのは拙いだろうと袴を借りるという選択をしたのはまだ冷静さがあったのだろう、と葬式に赴く道すがらにぼんやりと考える。眩しい太陽、路上に転がる蝉の腹。ともすれば目眩を起こすような、そんな暑さの中で見た彼は、固く瞼を閉じていた。人のことは言えたものではない痩せこけた身体が花の下に横たわる、その傍らで知った面々が泣き腫らした目で、抜け殻をじっと見つめていたのが記憶にこびり付いている。

 

 ペンを走らせ、小さく息を吐く。

 そこに含まれた生気が薄くなっていることに気づき、苦い笑みがこみ上げてきた。

――まだ、俺はそっちにいくつもりはないぞ。

 心の中でそう息まいてみてから、まだ空白のマスをじいっと見る。

 そうだ。折角思い出したのだから、と。原稿用紙に男の名前を、ここぞとばかりに綴ってやったのだった。


『実際芥川だって、あれだけ煙草が好きだつたなら、こんな発明をしておくといゝのに、きっと遺族はそれで暮らせたにちがひない』


***

 

 宗一が生乾きの服のまま飛び出したのに気が付いたのは、駅前のコンビニから出た後だった。

 あの男が行きそうな場所を、頭の中で巡らせる。材木座の方で、確か新婚生活を送っていたという話を聞いた記憶を引っ張り出せたのは奇跡だろう。ふたりきりで過ごした場所でもあるから、想いを馳せていた可能性は高い。しかし、そこにいなかったら他に何処を探すか。宗一の頭は走っている最中もずっと、記憶の棚を片っ端からひっくり返していた。

 思えば、お試し転生を果たした後、あの男はあまり外に出ることがなかったように思う。

 時折散歩にふらり、と出ることはあったが、当て所もなく彷徨い歩いているといった風で、懐古洞もその中で出来た縁だ。主人のぎっくり腰の現場に立ち会うことが無ければ、彼は恐らく薄らぼんやりと過ごしていたに違いない。この生に執着などないから、何かを増やすのも億劫だとでも言わんばかりに。

 若宮大路を海側へ向かい進んでいき、鎌倉警察署の手前で曲がる。滑川を渡り病院を過ぎた後は、住宅地へと入っていくことになる。芥川龍之介がかつて住んでいた場所は、その面影を留めていることはなかった。

「おらん、やろうなぁ」

 思い出に浸ることもままならない程に跡形もなくなっている。かろうじてアパートの壁に案内板が打ち付けてあるが、よりによって奥方の名字を間違えているときたものだ。感傷に浸るどころの話ではないだろう。

 少し歩けば元八幡――由比若宮の鳥居が見えてきた。すっかり夜闇に静まり返った一帯は住宅が軒を連ねているに関わらず、人の気配が感じられない。ここには、いないか。じゃあ、あとは何処だ。

――ああくそ、あいつ一発殴らな、気が済まんわ……!

 鎌倉と龍一を繋ぐ糸を、一本でも、どんなに細かろうと掴まなければならない。それが例え、蜘蛛の糸のような頼りない者だとしても、だ。

 くそ、と小さく声が漏れた。


 じゃり。

 自分以外の足音が、背後で聞こえた、気がした。

 

 振り返っても誰もいない。人ならざるものか、と考えてから、自分も大差ないことに気が付いて苦笑いが込み上げてきた。本来は、ここにいるべきではない存在なのだ。そんなことは、とっくにわかっていると思っていたのに。

 改めて、突きつけられると。

「堪える、もんやな……」

 呟きが、漆黒に溶けていく。

 その黒の中から。

 声が、聞こえた。


『あいつは、うみにいるよ』


 沈みかけた感情が、一気に浮上する。今の、声は。

 それは宗一が――直木三十五が、長く聞いていた『友』のもの、だった。


『なあ、直木』

『たのんだ』


 恐らく、一番芥川龍之介を喪って泣いた男。葬儀の遺影に向かって縋るような弔辞を、呼んだ男。

 空耳なのか、それとも否か。だが、空耳なら何故こんなに鼓膜に刻み込まれるのだ。何故、すぐに薄らいでいかないのか。宗一の脳裏に、二つの賞の名前が浮かぶ。街中にある小さな本屋にすらも、その名は踊っていたから。

 そういえば、あれらを作ったのも『彼』だ。そして、本来隣であいつを支えるべきなのは、自分ではなく。

「菊池」

 名を呼ぶ。しかし、応える声は、そこにはない。


「ッ、菊池のアホンダラァッ! 海なんて大雑把な教え方するんやないわボケェ!」


 ここは鎌倉。浜辺も海も幾らでもある土地なのだ。

 ガラッと何処かで窓が開く音がした。うるせぇぞ! という声が外に出る気配がする前に、宗一は勢いよく駆け出したのだった。


***

 

 彼と初めて出会った時のことを思い出す。


「あんまりにもそっくりだったから、最初驚いてしまって」

 そう言ったのは、妻の文子である。玄関先にひょっこり現れたその男は、挨拶もなく唐突に「ちょっと玄関でお目にかかりたく」と言ったという。名は、と問い返すと植村、というこれまた知らない名前であった。自分とそっくりの男、と聞いて、芥川龍之介は俄然興味をそそられた。

 世の中には三人自分とそっくりな者がいるという。ドッペルゲンガアというものらしいが、実際に目にする機会に恵まれるなど、なかなかない。出会えば死ぬ、とも言われているがそれもまた一興、とも言えるだろう。漠然と続く平穏よりはずっと刺激的であったし、魅惑的でもあった。そんなことを考えていると知られたら、文子は断固として訪問者と会うことを阻むだろうから口にはしないが。

 玄関にひょこりと顔を出すと、そこには細長い男が着流しを粋に着こなし立っていた。顔は少し長めではあるが、なかなかの男前と言えるだろう。つらつら考えていると、此方に気付いた男は、真っ直ぐに視線を向けてきた。

「植村です」

「芥川です」

 軽く頭を下げてから簡単に名乗られたので、此方も簡単に名乗っておくことにする。

 少し奇妙な沈黙の後で、おもむろに彼――植村は唐突に用件を口にした。


「早速なんですが、講演会に出てくれませんか」


 ……本当に唐突である。

「講演会?」

 首を傾げながらオウム返しに尋ねれば、そうです講演会ですと返され、また変な間が出来た。

「詳しく話を聞きたいのだけども、少し上がっていきませんか」

「いえ、先を急いでいるので」

 すっと手で制される。講演会かあ、と呟きながら、芥川は様子を伺う。

 まるで、近所のお使いに出てきたかのような気軽さで現れ、不愛想な調子で切り出してくる話題ではない。あまりにも不躾にも程がある。が、しかし、それは却って妙な親しみのようなものを感じさせる。

 不思議な男だ、と、興味は深まるばかりだ。

「行先は大阪です。里見には先刻声を掛けて行ってくれることになりました。あと、田中は僕と学校の同期、まあ同じクラスだったもので快諾してくれました。この後、菊池、久米、宇野君も誘います」

「へえ、大阪か」

 里見弴、田中純、菊池寛、久米正雄、宇野浩二――聞いた名前、知った名前がぽんぽん出てきたのもある。何よりもこの自分にそっくりでありながら自分にはないものを持っているであろう植村という男を、もっと見てみたいという欲求に抗えなかったのが最大の理由だったには違いない。

「いいよ。行こうか」

 自然にほろり、とそう返事すると、彼は少し驚いたのか、少しだけ目を丸くした。もしかしたら、もう少し駆け引きなどを予想していたのかもしれない。

「……そうですか。なら、明日午後七時の急行の汽車で。東京駅で待ち合わせることになっています。そのつもりで寝室お取りしますので」

「明日か。わかりました、参りましょう」

 随分と急な話である。が、行くと言ったからには支度をせねばならない。芥川が答えると、そこで少しだけ植村の口元が微かに綻んだ――気がした。

「あの、やっぱり。お茶を一杯だけ、飲んでいきませんか」

 再度声をかけてみたが、彼はいえ、と即断る。

「また、明日。では」

 そう言って軽くお辞儀をすると、くるりと背中を向けて立ち去る。

 本当に不思議の塊のような男だ。それが、植村宗一――後の直木三十五への最初の印象だった。


***


 潮の匂いが、急にぶわっと強く風に乗って顔に吹き付けられた。


「……あ、あれ?」


 急にぐわん、と意識が浮上して、漸く自分が海まで歩いてきたことを認識する。龍一は、くらくらする頭を押さえながら、歩道から砂浜へ続く緩い坂を下りて行った。ぎゅっ、と砂の感触がスニーカーの底に伝わってくる。ざん、という波の音が近づくのを感じながら、一歩ずつ踏みしめていった。

 いつから、こちらに向かっていたのか。最後に記憶に残っているのは、懐古洞から出た直後くらいか。踏切の音が急にくわん、と遠ざかって、何もかも、どうでも良くなってしまった。時折断片的に浮かぶのは、薄暗い道と、住宅地、神社くらいか。色々と考えていたような気もするが、それが何かは思い出せない。何処をどう歩いたのか、いつの間にか海まで来てしまった。

 そういえば、昔、妻と短いふたりだけの生活を営んだのもこの地だった、と思い出す。田端に戻れば芥川の一族との暮らしが待っている。さぞかし妻も窮屈な思いをしたことだろう。自分も、戻ったことでどんどん坂を転げ落ちていくような感覚に陥ったように思う。

 挙句の果てに、全て放り投げたのだ。全く、碌でもない男だ。

「僕は、生きる資格なんかないんだろうなあ」

 ざぷん、と足元で波が飛沫を上げた。黒い波がうねり、龍一の足を包み込む。

 この一帯はかつては古戦場だった。屍も多いことだろう。黄泉からがしゃり、と鎧を打ち鳴らし、この波間から手を伸ばしてくるかもしれない。

 波が、また、跳ねた。

 おいで、おいでと誘う声に耳を傾ける。ざあ、と引いた波の、そこに。


 綺麗な、貝が落ちていた。


 それは暗く何も見えない筈の視界に、北極星のように、瞬いた。

 薄いそれを、割れないようにそっと、拾う。良く見ると、あまり見ない類の桜貝のように見える。白に絞り染めのように薄紅が散っていてまるで花吹雪のようだ。

「綺麗だな、花ちゃんに持って帰ろ」

 そこまで呟いてから、息を呑む。


 脳裏によぎったのは、おかえり、の声だ。


 何だかんだで食事を作ってくれる彼が、台所から顔を覗かせる。可愛いあの子が、笑顔で出迎えてくれる。和座卓の上には湯気の立つ温かい、食事が並んでいる。いただきます、の声。口に入れれば、広がる優しい味。

「……美味しいんだよなあ、直木の食事がさ」

 悔しいくらいに。悲しいくらいに。そして、全てがいとおしくてたまらないくらいに、もう。

 それを認めて、声にするのに暫し、時間を要した。しかし、観念するように、黒い波の中にそれを告げる。


「もう、僕は帰らなくちゃなんないんだよ。あのふたりが待っているから」


 どんなに、過去が重く圧し掛かっても。どんなに、本棚に詰められた己の残骸から目を逸らせなくても。苦しくても、それこそ逃げたしたくなったとしても。

 あの二人は、待っているのだ。どんな情けない、格好悪い自分だと、しても。

――待ってくれちゃうんだもの。本当に、参っちゃうよね。

 ざ、と湿った砂に深く足を取られそうになりながらも、波に背を向ける。瞬間、身体がぐらり、とバランスを崩した。波の音が一層大きく、鼓膜に叩きつけられる。

 その、瞬間。

 ぐん、と腕が引っ張られ、かろうじて体勢を立て直すことが出来た。誰か、なんて考えるだけ時間が勿体ない。


「阿呆か、べっしょべしょやないかい」


 そこに。

 彼がいた。

 暗いのに、顔なんか見えないのに。何故そう思ったのかわからないのだけど、泣き出してしまいそうな気がして。ちょっと笑って、ごめんね、と告げる。

 瞬間。

 暗闇の中で、ベシンッ! という勢いのいい叩きつけるような音と「いたぁい!」という情けない声が、波の音にかき消されていった。



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