水無月:雨に誓えば01

 雨の音が、続いている。


 身体の中でじくじくと何かが膿んでいくような気がして、身を震わせながら目を覚ますと、台所の方から食器の重なる音が聞こえる。時刻を見ると朝の十時になろうかという頃合いで、怠さに逆らうように起き上がると、足音が此方へと近づいてきた。

「お、お早うさん。何か食うか」

「……うん」

 同居人のひとりである『彼』は、別にこちらを腫れ物のように扱うでもなく、自然にそう尋ねてくれる。その度に、彼――直木三十五を選んで良かったと思っているなど、当人は知る由もないだろう。もう一人の気配はない、ということはもう仕事だろうか。

「花ちゃんは?」

「最近資格の勉強しに図書館、行くんやて。早ぅに支度して出とる」

「……図書館、か」

 本が敷き詰められたあの光景を思い出し、眉間に皺を寄せる。僕はあの風景が、苦手だった。

 初めてこの地に来て、散策して回った時に気紛れを起こして入って後悔したものだ。図書館に限らず、近所にあった本屋も、本来ならば古本屋だって、出来れば近づきたくはなかったのだ。

 この世界のそこかしこに、僕の残骸が数多に残っている。僕の残骸から何かをすくい出そうとして弄り倒した研究本や、考察本がある。しかも、沢山、何故かそれらは本屋の一角を確実に占めていた。あの血反吐のようなものを、彼らが何故手にするのか、長きに渡って伝えゆこうとするのか、正直わからない。僕は、その辺に転がる石のようなものなのに。

「ほれ」

 ことん、と目の前に何かが置かれた固い音と、ほんのりと漂う焙じ茶の匂いで我に帰る。湯呑から湯気を立てている、その白い向こう側で少し呆れたような彼の顔があった。呆れても、決して見捨てやしない、愚かにも優しい彼の。

「顔色悪いし、胃にものを入れたらもう少し寝とき」

「んん……でも、富美子さんのとこ、行かなきゃだから」

 富美子さん、とは。成り行きで僕が店番をすることとなった『懐古洞』の店主の奥さんの名前だ。

 成り行き、というのはたまたま骨董品屋と思って覗き込んだら、店内で倒れているご主人を発見したのだ。全治一か月のぎっくり腰、残されたのは店と富美子さんで、ひとりでなど店を開けられない状況を見兼ねて僕が店番を申し出たのだ。漸く最近ご主人も店に出られるようになったけれども、治りが遅く、重い物を持たせられない。僕も乗り掛かった舟だ、と未だに店の手伝いを続けている。大した金額じゃないけど――とそれでも給料を出してくれているし、何よりも富美子さんや御主人の人柄が良いものだから、僕も通えているのだ。

 まあ、難点をあげるとすれば、ひとつ。そこが骨董品屋ではなく、実は古本屋だったということくらいか。

「お茶漬け食ってき」

 彼は止めもせず、それだけ言うとまた台所へと戻っていった。ケトルに水を入れている音が聞こえてきたから、食事の支度をしてくれているのだろう。

 僕達が生きた時代よりもずっと後のこの世界は、随分と便利になっていて、お湯が一分程で沸かせたりする。文明は進んだものだ、と感心することしきりだ。飽きっぽいあの人が、数か月たった今もあれこれ料理をしているのも、そういった科学の進歩に触れられる手段のひとつというのもあるのかもしれない。でなきゃ、時々恐ろしいほど凝ったものを出してきたりするものか。しかも悔しいことに、はずれがないときたものだ。

 窓の外を見れば、雨が、鬱々と景色の色を濃いものにしている。庭には家主――今不在であるもう一人の同居人でもある花ちゃんの祖父に当たる。現在老人ホームという施設に入っているのだそうだ。長生きも大変だ、と内心思ったけれど。――が植えて手入れをしている紫陽花が見頃となっていた。薄紫、赤紫、青紫、それらが雨雫に濡れ、華やかさを増している。

「ほれ、食って支度しぃ」

 それだけ言って、居間の方の和座卓の上に、盆をそのまま置いて、彼はまた台所へと戻っていった。湯気が、ふんわりと上がっている。僕は淹れてもらった焙じ茶の入った湯呑を持ってもぞもぞと移動し、盆が置かれた前に腰を下ろした。

 刻みのりとあられ、鮭のほぐし味といったシンプルなものだ。通常は緑茶なのだろうが、先刻淹れた茶葉そのままで焙じ茶が掛けられている。横には漬物の入った小鉢が添えられていて、塩味の調節も出来るのは有難い。

 さらさらとそれをかき込んでいると、台所ではまた何かを始めているようだった。ごとごとと何かを出しているような音がこちらまで聞こえてくる。食べ終えてから食器を片付けに、盆を持って覗き込んでみると台の上に袋に入った梅と、氷砂糖が乗っている。そこに果実酒用の瓶をどん、と乗せている彼が気付いて振り返った。

「食い終わったんか」

「……直木、何してるの?」

 花ちゃんがいないのなら、別に取り繕うこともない。僕は彼を本来の名を少々他人行儀に呼んだ。

「梅シロップ作ろ思て」

「梅シロップ? 梅酒じゃなくて?」

「俺らがあまり呑まんし、シロップなら酒飲みたくなりゃそこに焼酎なり混ぜりゃええやろ」

 まあ、うん、仰る通りで。

 口がぴっちり閉まるパウチタイプの袋に入った梅は、先日ちまちまとヘタ取りをしてから冷凍庫で一晩寝かせたものらしい。存外そういう細かい作業が好きなんだよね、彼。意外といえば、意外だけども。

 瓶の中に梅、氷砂糖、そして梅、と重ねて入れていく。凍らせてるのは何で? と聞けば、その方が梅のエキスとやらが出やすくなるから、らしい。

 最後に余った氷砂糖をぱらぱらと入れて、しっかりと蓋を閉める。これで十日ほど寝かせておくと出来上がるらしい。

「――もう六月なんだね」

 僕はその時間の長さを呟く。思えば年の半分に差し掛かろうかという頃だ。唐突に何を、と言わんばかりに首を傾げた直木に、僕は微笑した。

「幾ら刷り込みされてるからって、僕達良くバレずに来れてるよね」

「バレたら即放り出されてまうからな」

 ごとん、と流しの下の棚に瓶をしまいながら、少し呆れた声で返される。

「まあ、お前の顔の方が通っとるからな。そっち気を付けとけば、問題はないやろ」

「直木こそ、気を付けないとね。只でさえ、君は名前がそのまんまなんだし?」

 言い返せば、は、と鼻で笑われた。

「お前も見たやろ。俺の形跡など直木賞以外見当たらへんっちゅうのに。古本かて、そもそも興味がなけりゃあ手に入れやせんしな」

 俺の心配などないわ、と締められる。その、忘れられててもさも当然、みたいな態度に一瞬むっとして喉から言葉が漏れそうになったのをかろうじて、堪えた。

 言ってもどうしようもないことだし、いっそそれを思い知った方がいいんだろう。

 その君のことを手繰って、僕達のことが知られようとしているなど思っちゃいないんだ。彼女が君の本を持っているなんて、考えちゃいないんだろうから。


 もし。

 知ったら、どんな顔をするんだろう。


 それに、少し興味はあるけれども。僕の中にはその余裕は今はない。

 隙間を埋めるのは、じとりとした梅雨の湿気と、鬱々とした感情だ。

 ああ、なんで。

 なんで、僕は消えたのに。長い時を経ても『芥川龍之介』は残っているんだろうか。


 僕は。

 ひとかけらも残らずに、消えたかったというのに。


***


 雨の中、図書館までの道のりは少々つらい。ショートのレインシューズを履いてきたのは正解だったと思いながら、花は厚い雲が敷き詰められた空を見上げた。さらさらと細かい雨が途切れることなく、降り続いている。小学校横の細い道は、時折賑やかな声が聞こえてくる。無邪気なそれに彩られ、鬱々とした雨空もほんのりと明るくなった気がしてくるから、不思議なものだ。

 アスファルトの乾いた色をここ数日見ていないように思いながら歩いていると、図書館の電話ボックス前に人が立っているのが見えた。好意的にとれば待ち合わせ、悪い意味に取れば待ち伏せ、というところだろうか。何にせよ、目を合わせてはいけないのは間違いない、と思いながらも、花の視線は傘越しに観察してしまう。

 紺色のチェックの傘の下にあったのは、丸眼鏡をかけた猫っ毛の男であった。顔は、どちらかといえば美人、という表現が似合うだろうか。整っていると言えば、同居しているあの二人もだが、またタイプが違う。さらっとした長めの髪を後ろに束ねた男は、夏物の淡い緑のジャケットを羽織っていて、それがまた似合っている。詰襟のシャツの襟に指をひっかけ時折くい、と引っ張る仕草を繰り返しているのは、やはり湿気が気になるからか。

 と、不意にくりん、と彼の目線は花の方へと向けられたた。厚ぼったい瞼の奥にある灰色の目がじいっと見つめてくる。

 正直、しまった、見過ぎた、不審者だこれ!――と思わなかったと言えば嘘になるし、あと数秒遅かったら通報してただろう。

 しかし、それをしなかったのは、行動に移す前に彼がふ、と人懐っこい笑みに表情を綻ばせてこう告げたからだった。


「初めまして、佐藤花さん。直木さんと芥川さんが、お世話になっております」


 その言葉の意味がわからないほど、何もわかっていないわけじゃなく。

 彼も、二人の事情を理解している側なのだ、と認識するには充分過ぎた。そして彼の方も、花が事情を理解しているというのを確信したようだった。

「あの」

「ああ、すみません。名乗りもせず、不躾な真似をしてしまいましたね」

 傘の下で、ぺこり、と男は頭を下げた。


「初めまして。私は斎藤茂吉と申します」


***


 図書館の中では込み入った話は出来ないだろう、と、店に入ろうと提案したのは花の方であった。鎌倉方面だと、宗一や龍一に見つかる可能性がある。だからと、長谷方面へと連れて来たのだ。この辺は観光地の中でも賑わっているだけあって、店には事欠かない。

 大通り沿いの店ではなく横道に入った奥にあるカフェを選んだのは、念には念をというやつだ。これから話す話題におあつらえ向き、というべきなのか近くにはかの鎌倉文学館がある。

 クラシカルな雰囲気でまとめられた店の、奥にある席へ案内された。窓からは中庭が眺められ、鎌倉ではこの時期良く見られる紫陽花が雨模様を赤紫や青紫に彩っている。


「申し訳ありません、図書館での所用を邪魔してしまって」


 さぞかし奇妙な取り合わせの二人組だろうが特に気にされることもなく、店員がメニューとお冷のグラスを置いていった。斎藤の方が珈琲を、と頼み、花はカフェラテを頼む。気温はそこまで低くは無かった筈だが、雨のせいで少し肌寒さを感じる。アイスにされますか? というウエイトレスにいいえホットでお願いします、と返してから花は、この珍妙な来訪者に向き直った。

 やはり、彼等が『彼等』であるならば、彼もそういうことなのだろうか。

「斎藤さんって、あの、歌人の斎藤さんです?」

 おそるおそる、と言った調子で花が尋ねると、ほう、と感心したような微笑が口元を縁どった。

「話が随分早いですね。大分事情を呑み込めているとお見受けしましたが。ええ、歌人でもありますが……今は医者としての立ち位置の方が強いかもしれませんね」

 その辺りで此方に近づいてくるウエイターの気配を察したので、会話は一旦途切れる。

 湯気の向こう側で、丸眼鏡がぶわっと白くなる。ジャケットからハンカチを取り出し、きゅ、と磨きながら、斎藤は言葉を待っているようだった。

 雨は、変わらずにさらさら、振り続けている。

 花は自らの口で、自分が到達した結論を疑問として彼へと投げかけた。


「……あの、どうして芥川龍之介先生と直木三十五先生が、うちに居候するようなことになったんですか?」


 この一か月程、様々な文献を読み漁り資料を探し、そして彼等との符号する点を洗い出していた。突拍子もない話であったし誰も信じてくれるわけでもない。

 自分はたまたま、彼等へ続くものを見つけてしまった。例えるなら、多分それは魔法が解けたとでも言おうか。

「母も、周りも、二人を遠縁の親戚という認識でいます。私も一か月前までは、そうでした」

「ああ。暗示が解けてしまったんですね」

 暗示。なるほど、それならば彼等もこの日常に溶け込める。

「……また、暗示をかけるんですか?」

 花の問いかけに、いえ、と斎藤は即座に否定した。コーヒーカップに指をかけ、味わうように一口味わう。

「まず、知りたいことがあります」

 柔らかな、グレイッシュブルーが真っ直ぐに此方の顔を映し出した。

「彼等の正体を知っても、尚。何も知らないように振舞うのは、どうしてでしょう?」

 こちらが問い掛けたのに、逆に問いを返されてしまった。しかし、それを答えなければ先には進めないのだろう。

 花は、カフェラテをこくりと一口飲んでから、ゆっくりと言葉を選んで声にしていく。

 自分の感情に、自分の思いに一番近い言葉をと、考えながら。


「あのふたりは、その状況でも私を尊重し、家族として大事にしてくれたからです」


 多分、強引に住めるように言いくるめれば良かったのだろう。少なくとも出会った頃は確実に暗示にかかっていたわけで、それも容易かった筈だ。しかし、彼らは無理を強いようとはしなかった。

『花ちゃんがここの大家さん。だから、現時点で家を出るのは僕達の方だし、花ちゃんは僕らを追い出す権利がある 』

 そう、龍一はあの時、告げた。

『……あんたが怖いっちゅうなら、俺らも無理強いはせえへんから』

 そう、宗一はあの時、言った。

 この人達は、花を最優先にと考えてくれていると、感じたのだ。その勘は今でも間違っていない、と言い切れる。

 家に帰れば「おかえり」と迎え、家に「ただいま」と帰る。マグカップで湯気を立てるホットチョコにきらきら目を輝かせたり、折角のお姫様になれる祭りなのだからと雛祭りに張り切ったり、ホットプレートの餃子を皆でつついたり、マンゴープリンにはしゃいだり。気が付けば、三人の空間が当たり前になっていたのだ。


 そこにある感情は、裏の事情がどうあれ『本当』だ。少なくとも、花にとっては。


「私、正直裏付けを取るという意味でも、調べてましたけど――それ以上に、その。ふたりのことを知りたかったんです」

 図書館通いは、後ろめたさを感じていなかったと言えば、嘘になる。何も気づかない振りをして、ふたりのことを調べることは罪深いことをしているような気はしていた。それでも。

「直木さんは書籍として扱ってる数が本当に少なくて、図書館でも数は少なかったし。芥川さんは教科書で齧った程度だったから、少しでも知れたら、と。理解というには、おこがましいですが」

 花の視線は、じっと斎藤へと向けられた。彼が望もうが望むまいが、これが自分が出した結論だった。こんなに現実から剥離した話を、信じることに決めたのだ。彼等がそうである、というならば。

 暫しの沈黙の後、斎藤の唇が言葉を紡ぐ。

「いえ、あのふたりは幸せ者ですね。貴女という理解者の元に居られるのですから」

 安心しました。と、斎藤は、小さく笑う。心底、安堵した。そういう表情だった。

「私も、貴女になら話すことが出来そうです。随分と突拍子もない、お伽話のようでありますが」

 聞いていただけますか? と問われて。即座にこくり、と頷く以外の選択肢はない。

 かたん、と窓が鳴る。少しだけ風が出てきたらしい。先刻より雨音が耳に届くようになって、空模様が荒れるのを予感しながら、花は背筋をぴん、と伸ばしたのだった。



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