弥生:雛祝い、花綻び01

 直木三十五――本名を植村宗一。『植』の字を『木』と『直』に分け、『直木』に、そして名前の『三十五』は三十一歳からずっと年齢に合わせてつけている。一八九一年(明治二十四年)二月十二日、大阪市にて産声を上げる。植村家の長男として生まれた宗一は、幼き頃を古着屋の手伝いや、家事、弟の子守りなどを行いながら日々を送る。父親の反対を押して早稲田大学へ進学するが、月謝未納により中退。しかし登校は続け、卒業の証拠を親へ送る為に同期の協力を得て卒業写真に写り込む荒業をやってのけた珍話が存在する。

 編集者等を経て、関東大震災以後大阪のプラトン社に入社。『苦楽』という雑誌に携わることとなるが、そこで書いた小説を皮切りに、小説家・直木はペンを走らせるようになる。

 様々な雑誌や出版社、映画界などにも足を踏み入れるが、失敗を繰り返し常に借金と縁が切れない人生であった。

 しかしながら、昭和五年に連載した『南国太平記』が代表作となり、大衆小説家として成功を収める。時代小説、歴史小説、そして大衆小説の礎の一端を担った彼は一九三四年(昭和九年)二月二十四日、結核性脳膜炎により四十三歳で永眠。死後、文藝春秋社初代社長であり親友の菊池寛により、彼のもう一人の親友芥川龍之介の名と共に文学賞の名として残されることとなった。

 芥川龍之介賞、そして直木三十五賞。

 これらの文学賞は後世、小説を書く者の憧れの星として今も輝いている。


***


 神奈川県横浜市富岡。そこが、直木三十五が眠る長昌寺がある地である。

 墓のある場所は常に静かで、居心地は悪くない。静かすぎて寂しいくらいだが、墓場が賑やかってのは少々まずい気もするし、全く訪問者がいないわけでもないから、まあこんなもんだろう。風の音、鳥の鳴き声、何処かから聞こえている水飛沫の音。遠くで微かに耳に届く車の音や人の声は、何処か遠い世界のもののように思える。

 自分の命日は南国忌と名付けられ、毎年その日だけは賑やかな空気に触れることが出来た。

 何だかんだで、満足していたのだ。それで、いい。別に待っている者もいないことだし――なんて。


『こんなところにいたのか、直木さん』


 だから、突然に声をかけられたことに、柄にもなくびくり、と大きく身体を跳ねさせてしまった。

 視える奴が来たのかと身構える。しかし、その顔は何処となく見覚えがある。丸眼鏡をかけた、その青年の顔を凝視して暫く首を捻った。


『私は斎藤茂吉だ。歌人――というよりは、芥川龍之介くんに関わりのある医者、と言った方がわかって頂けるだろうか』


 ……何て?

 覚えは、ある。その名前にも、そして出てきた名前にも。

 まあ、存在としてはまず自分のことがあるから、いるのは別に良いとして。問題は、何故自分のところにそんな人物がやってくるのかということだ。深いかかわりがあるのは自分ではないし、正直言ってしまえば、見当がつかない。

 その困惑がそのまま、顔に出ていたのだろう。斎藤はこほん、と咳払いをしてから言葉を続けた。

『直木さん、一緒に来て欲しい』

 何処にだ。思わず、身構えてしまう。


『お試し転生の相方をして頂きたいのだ。芥川龍之介くんが、君をご指名でね』


 ……うん? 何て?

 誰が、誰を指名、って?


***

 

 からん、とドアを開けると軽やかなベルが通りに響いた。尤も周囲の人のざわめきで、それも瞬く間に掻き消えてしまうのだが。

 「君さえ良ければ、来週からおいで」と気の良さそうなほっこりするような微笑で言ってくれたカフェのマスターに、心の中で感謝を繰り返しながら、花はほっと安堵の息を吐いた。

 取り敢えずこれで、繋ぎでも働き場所が見つかり、生活の基盤を漸く整えることが出来そうだ。


 小町通りから一本奥に入ったそのカフェは、美容院の帰りに発見した。ゆったりとした時間の流れが居心地が良く、気が付けば時折行くようになってカフェラテを美味しく頂くのが最近の楽しみだったのだが、二月下旬辺り、その入り口に『急募』の赤い文字が躍る張り紙が出現したのを見かけるようになった。折りしも絶賛無職ライフ中だった花は、恐る恐る、といった調子で三月に入ったと同時に張り紙の話を切り出したのだ。

 通い始めて一ヶ月近く、そこそこマスターと会話を交わすようになっていたから、話は驚くほどに早かった。

 「Wワークすることになったら、言ってくれれば調整もするからね」という優しい心遣いまでされてしまった。年齢的にも確かにまだ仕事の幅もあるのは確かで、心配されるのもわかるのだけど。

 今は、まだ余裕がある。一応、どうやら大家という立ち位置は有効らしく、同居する遠縁の男二人は今月も家賃を収めてくれたので、親からの仕送りを断っても暮らせるには暮らせる良い御身分ではあるのだ。ただ、何もしないというものは思うよりストレスが溜まるものだとこの一か月で身を以て知ることとなった。少なくとも花にとっては、だが。

 ともあれ、何とか仕事が見つかったのは喜ばしい。これは自分のお祝いに菓子でも買うべきなのでは? と普段はあまり近寄らない小町通りへと足を踏み入れることにした。

 小町通りは大体いつも、観光客でごった返している。

 客引きの人力車夫達がマップ片手に声を掛けていたり、食べ歩き用の煎餅の香ばしい醤油の香りが漂ってきたり、あちこちで旅行を楽しむ人達の声で決して広いわけでもない道がそれらで溢れかえっていた。お馴染みの風景ではある。

 花は賑やかなのも嫌いではないが、単純に体格が小柄な部類に入るので人波に負けてしまうことも少なくはない。進みたいなることにしたら別の道を行く、というただそれだけの理由だ。

 観光客向けの菓子は、今時期春を先取りしたものが多い。春めいたものを探してきょろきょろしていると、向かいから一足早い卒業旅行だろうか、若い男女の集団がきゃっきゃとはしゃぎながら歩いてきた。咄嗟にそれを避けようとした時。

 ぐい、と腕を強く引かれる。


「花」


 名を呼ばれ、ぱっと顔を上げれば知った顔がそこにあった。同居して二ヶ月目に突入しようかという、少し無愛想で、実はちょっと優しくて、料理が美味い遠縁の、ひと。

「宗一さん? あれ? どうしてここに」

「……そこの喫茶店で打ち合わせしとったんや。出たら見た顔が通り過ぎていきおるから」

 指でくい、と示されたのは小町通りでも老舗に入る喫茶店だ。小さい頃、何度か祖父に連れて行って貰ったことを思い出す。

「打ち合わせ、って作家さんみたいですね」

「あー……そんなん違うわ。在宅やし、一ヶ月に一回仕事の進捗を聞きに営業が回るついでに来おる」

 なるほど。二人があんまりにものんびりしているので、仕事大丈夫なのかと思うことは多いが、少なくとも宗一の方は頑張っているらしい。と、そこで、普段と違うところに気が付いた。

「ああああ! 宗一さん、前髪下ろしてるんですね。しんせーんっ」

「げ、言うなや。遅刻しそうになってん、上げられへんかったんや」

 さら、と細い顔に前髪がかかる。普段はセットを欠かさず前髪を綺麗に上げているのだが、下ろすとなんというか、こう年齢が戻る、というか。下手をすると見慣れていないぶん、龍一より年下に見えるかもしれない。ただ、反面雰囲気が普段よりぐっと柔らかく見える。

「私、下ろしてる方が好きですねえ。おっかなくなくて」

「おっかない、って、別に何もしてへんやんか」

「第一印象の話ですよ。だって、宗一さん喋る方じゃないし、きちきちっとしてるから」

「比較対象が緩すぎなだけやぞ、それ」

 ぶすっと膨れて返された言葉に、まあそれは確かに、と頷いてしまう。龍一はふわふわとしていて時々めちゃめちゃ危なっかしい、と花でも感じるくらいだったからだ。先日中庭で冬眠から目覚めたてホヤホヤの蛇に遭遇して、絹を裂くような悲鳴が一帯に響き渡ったところを、光の速さで宗一がスパァン! といい音を立ててサンダルを後頭部に命中させていた記憶が、鮮やかに蘇る。

「で、何でこんなとこおるん」

「ええと、お菓子買って帰ろうと思って。観光用で春っぽいお菓子出てそうだなあと思ったから、仕事決まったし自分ご褒美にって」

「ほお」

 鶴岡八幡宮への方角へ、揃って歩き出す。どうやら付き合ってくれるらしい。

 並ぶ店のディスプレイは、そこかしこが桜色で間近な春を感じさせる。三月に入ってすぐ、まだ寒暖差は激しいものの少しずつであるが空気は温い匂いを含み始めていた。

「春ですねえ」

 花の足取りも自然、軽くなる。和菓子屋の店頭には、雛あられや金平糖も並んでいる。それを見た宗一が、はた、と何かを思い出したように足を止めた。

「――花、そういや、雛人形は」

「雛人形? え? 何で」

「いや、ひな祭りやろ」

 さも当然のように言われる。実家では毎年出してくれてはいるようではあるが。

「一人暮らしで実家にあるんで、私は持ってないですよ」

「あーそういう……ちゃんとそういうのは祝わんと」

 おじいちゃんかな? という返しは、ギリギリで呑み込んだ。

 時折宗一は祖父に近い言動をすることがあるように、思う。否、父親に近いかもしれない。自分の家の父親があんまりそういう言動をしないせいで、祖父の猫可愛がりが際立っていたから、咄嗟にそっちを思い出しただけかもしれないが、それにしたって。

「雛あられと金平糖は買うてこか」

「え」

「嫌いか」

「いや好きです大好きですけど」

 そか、と言って和菓子屋に入ると、品物を手にしてサクサクと買い物を済ませてしまう。何となく彼の血の繋がらない兄弟があんなほわほわでも生きていけるのか、納得してしまった。あと何故生活能力が妙に低いのか、も。

「あとちらし寿司か……帰りにスーパー行けばええか……」

 何というか、こう、めちゃめちゃ主婦感強いんだよなこの人。慣れてる、とは確かに聞いたけれども。

「……いい奥さんになるなあ」

「あ? 何か言うたか?」

「いいえこっちの話です。あ、私お菓子買います!」

 春限定の苺入り桜餅、というのを見つけ傍にいる店員に声をかけようとした花の声は、かき消された。

「あ、その菓子も四つ貰いますわ」

「ふぇあッ!? そういちさん!?」

「女の子の祭りなんや、大人しく甘やかされとき。ご褒美は人に貰うもんやで」

 けろり、とした調子で宗一は財布を出すと手早く会計に入る。

 喋らない時は無愛想なのに、喋りだすととんでもない。こういうの、何と言ったっけ。

 菓子の入った桜柄の紙袋を下げて戻ってくる宗一を眺めながら、思い浮かんだ言葉が自然ぽろりとこぼれ落ちた。

「……ひとたらし……」

「んあ? 何て?」

「いいえこっちの話デス」

 

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