第25話

「いってえ!」

 あたしの右フックをまともに食らって、信仁は呻いた。

「何すんだよあねさん!俺なんか悪いことしたかよ!」

「したわよ!何よあれ!あたしが失敗したらあんたマジで死んでたのよ!バカもいい加減にしなさいよ!このバカ!バカ!バカ!!」

 「奴」を仕留めた、多分、今度こそ、仕留められた。信仁も、無事みたい。安心したし、嬉しかった。

 以心伝心、信仁が言いたいことがあたしに伝わり、あたしもそれを成し遂げた。それも、すごく、嬉しかった。

 けど、それでも、あたしはそれを表に出してはいけない。それでも、「奴」を退けても、ここから去らなきゃならない事に変わりはない。そう自分で決めた事が、自分の気持ちに、心にかけた枷が、弾けそうで、痛い。苦しい、辛い。

 あんたのせいだ、こんちくしょう、このバカ!


 流石に人狼ひとおおかみの姿のままで、全力のグーで殴ったら一般人なら首から上が無くなりかねないし、とはいえ爪で傷つけたくもないから、力加減したグーで殴る、その程度の分別は残ってたけど、あたしは、やり場のない感情のはけ口を、信仁にぶつけていた。

「いて!やめ!ちょ!あ、姐さん!この!」

「あ!」

 大振りしたあたしの隙を突いて、信仁はあたしの腕をかいくぐり、両脇の下からあたしを抱きすくめた。

「や!離して!」

 あたしは、もがく。けど、脇の下で抱きつかれては、肘をねじ込もうにも、信仁はその隙間を与えてくれない。

「離して!信仁!」

 勿論、本気で、力業で引き剥がすことは出来る。けど、それをやったら、きっと大怪我をさせてしまう。

「離してってば!」

「嫌だ!」

「信……」

「今離したら!姐さんあんた!また俺から逃げるんだろう!だから、絶対、離さねぇ!」

 離すどころか、信仁の腕はさらに強く、あたしを抱きしめる。あたしは、信仁の肩に置いた手でなんとか体を離そうとするけど、爪をたてたくないから、十分な力が入れられない。

 違う。嘘だ。

 その時のあたしも、頭の隅では、わかっていた。

 爪をたてたくない、怪我をさせたくない、それにかこつけて、あたしは、逃げているんだ。

 今すぐここから離れなきゃって、決断から。

 頭ではわかってる。けど、気持ちがまだ認めてくれない。心臓のあたりが捩れるような、辛い決断。

「……なあ、姐さん、一つ、教えてくれ」

 そんな、歯軋りする程辛いあたしの耳元で、あたしを抱きしめたまま、信仁が、言った。

「姐さん、俺のこと、嫌いなのか?」


「……大っ嫌いよ……あんたなんか……」

 切れそうな心の堰を必死に抑えながら、あたしは食いしばっていた歯の間から、やっとの思いで、答えた。

「バカで……無鉄砲で……なんで……なんであんたは……ちくしょう……」

 言葉が出ない、言葉に出来ない。言葉が見つからないのと、言葉にしてはいけないのと、両方。

 それが、さらにあたしを辛くする。胸の奥が、捩じ切られるように、痛い。

「ああ、そうか。嫌いか……済まねぇ。本当に済まねぇけど、でも、俺、ホントに本気で姐さんが大好きなんだ」

 ほんの少し、信仁の腕が緩む。ほんの少し、信仁は顔を離す。あたしと、見つめ合う距離まで。

「姐さんと離れるんなら、姐さんの手にかかって死ぬ方が良いって、さっきは本気で思ったさ。脅しブラフじゃねえ、だから「奴」にも通じたんだ、本気って奴が。そう思えるんだ」

 やめて、もう。死ぬ方が良いなんて。あんたを傷つけたくないから、死なせたくないから、あたしは消えたいのに。こんなに辛いのに。

「だから、絶対にもう離さねぇ。何があっても」

 やめて。もう、これ以上、あたしをいじめないで。

 胸の奥が痛くて、目をあわせられなくて、俯いて、あたしは無意識に、言った。

「やめて……無理なのよ……だって……」

「種族が違うとか、掟がどうとか、そんな話なら今更聞きたくねぇ」

「でも……」

「どうせそんな話だろうとは思ったさ、最初っから。姐さんのその姿見て確信した。けどな……」

「だったら!わかってんなら!」

 信仁の言葉を遮ってあたしは叫ぶ。

「わかってるんなら、なんでわかってくれないのよ!わかってよ!わかってよ……お願い、もう、あたしをいじめないで……」

「……済まねぇ、いじめてるわけじゃねぇんだけど」

 信仁の手が、あたしを抱いたまま、あたしの後ろ頭を撫でた、そっと。

「ホント、済まねぇ。けど姐さん、俺はやっぱり、どうしてもあんたを諦められねぇんだ」

 あたしの頭を、髪を撫でながら、あたしの耳元に、信仁が呟くように、言った。

 あたしは、返事しない。出来ない。嗚咽を噛み殺すので精いっぱいだったから。

 大っ嫌い。こんなに、あたしをいじめて、苦しめて。なんであたしがこんなに苦しんでるか、それもわかってたなんて。わかってていじめてたんだ。酷い。酷い男。大っ嫌い。

 全部ぶちまけて言ってやりたいけど、そうしたらきっともう止まらなくなる。我慢できなくなる。

 ここから、離れられなくなる。

 だから、出来ない。我慢出来ない程辛いけど、我慢しなければもっと辛くなる。それが、辛い。どっち転んでも辛いから、どんどん辛さがつのる。

 その原因は、全部、こいつ。酷い。本当にこのまま喰い殺してしまいたい程、骨まで喰らい尽くしてしまいたい程、酷い男。

 あたしはもう、まともに物を考えることすら、出来なくなりつつあったんだと思う。

 そのあたしに、信仁はいきなり冷や水ぶっかけやがった。

「それに、きっと成し遂げてやる……あねさんの親父おやじさんみたいに、な」


 あたしの、父さん。その一言は、電気が走るみたいに、あたしの耳から入って脳から背筋に響いた。

「何……言ってるの……」

 背筋が、寒くなる。何か重大なことがいくつも、その一言に含まれているのは感じたけど、それが何でどれくらいあるのか、咄嗟に把握出来ない。

 ただ、一つだけはっきりわかったことがある。

 あたしが話したことのない、あたしの父さんのことを、どこまでかはわからないけど、信仁が知っている、という事を。

 思わず顔を上げたあたしに、抱きしめる腕を緩めてもう少し体を離した信仁が、あたしの目を見つめながら、言った。

「姐さんの親父さんは、人狼じんろうじゃないんだよな?だったら、俺も条件は同じって事さ」

「え……待って、なんで……?」

 なんで、その事を信仁が知っているの?あたしは、頭が真っ白になった。言った覚えはない、言うはずもない。父さんは普通の人間、なんて事は信仁は知っているはずはない。

「ぶっちゃけ、俺も何が何だか分かってるわけじゃない。ただ、姐さん達みたいな一族なら、婚姻に関する掟があっておかしくないし、多分そいつは、他の種族との関係を否定する、純血主義的な何かだって、そのくらいは想像がつく。民話としてもメジャーだし、民族学、文化人類学的にも孤立した部族にその手のタブーがあるのは珍しくねぇ」

 信仁の目は、あたしの目のその奥の何か、まだ真っ白になってるあたしの頭の中を覗くかのように、鋭い。

「タブーがあるからには、ほとんどの場合その回避方法ってのもあるのが通例だ。特に婚姻に関するものはな。違う血が入ることを祖霊に許しを乞う祭事とか。そういうのがないと、孤立した部族は近親婚の繰り返しで絶えるからな」

 あたしは、信仁が何を言っているのか、よく分からなかった。けど、次の一言は、すぐに理解した。

「……言いなよ。どうすれば、俺はあねさんの一族に認めてもらえるんだ?」

 まるで冷たい手のように、その一言は、あたしの心臓を握りつぶした。


 勿論、あたしは知っている。聖狼の――あたし達は、他の人妖と自分たちを区別する時、聖狼、という言葉をよく使う――女を娶りたい命知らずに与えられる試練の、その内容は。でも、それは。

 この男は、信仁しんじの性格から言ってこいつは、教えたら絶対それをやるだろう。絶対に、諦めることはないだろう。そして、多分、死ぬ。

 だから、言えない。それがわかってるから、言えなかった。

「……ま、言わなくても大体の見当はつくけどな。常識で考えれば、俺は間違いなく失敗するか、下手すりゃ殺されるような、何かしらの「試し」って奴なんだろ?」

 ぞっとした。なんで、それが分かるの?

 はらわたを締め上げる、信仁と死別する覚悟をしなければならない悲しさ、本当の意味で二度と会えなくなるだろう事の辛さ、そうであったとしてもそこに、信仁がそれに挑むだろう怖さ、挑むことをなんとしても止めなければならないけれど、止める自信がない怖さが加わった。

 あたしの顔色が変わったのに気付いたのだろう、信仁は、見慣れたいつものにやけ顔になって、言った。

「心配はいらねぇよ。俺は絶対に死なねぇ。それだけは絶対だ、約束する」


「……なんでそんな事言えるのよ……」

 あたしは、呟いた。

 こいつは、いつもそうだ。初めて会った時から。一介の高校生が、ヤクザの事務所に殴り込んで話しつけてくるなんて、正気の沙汰じゃないことをさも当たり前のように言って。

「バカじゃないの?誰と何するか分かってるの?分かるわけ無いわよね、あたし言ってないもの」

 あたしは。真っ白だったあたしの頭の中で、何かが切れた。ずっと情緒不安定だったけど、とどめ刺した。

 こいつを死なせたくなくて。こいつを傷つけたくなくて、あたしは苦しんでいるってのに、こいつと来たら!

 あたしがどんだけ苦労して、辛くて、悲しくて。好きでこんな事してるわけじゃ無いのに。あんたのために!あたしだって!

「婆ちゃんよ!あたしの婆ちゃん!里で最強の者を打ち負かして、里の誰よりも強い事を証明すればいいのよ!出来るわけないでしょ!あんた人間なのよ!聖狼たるあたし達に勝てるわけがないじゃない!」

 婆ちゃんは、純粋な人狼の身体能力という意味では最強ではない。けど、それを補って有り余る経験を持ち、何より術を使う希有な人狼。里の誰も敵わない存在。勿論、あたしだって歯が立たない。

「そんなに手強いのか?」

「当たり前でしょ!あたしの知る限り最強の人狼よ!」

 明確に、あたしはイメージ出来た。信仁の首か、開始二秒で鉄扇に両断される光景が。

「死んじゃうわよ!絶対死ぬわよ!勝てっこないわよ……」

 あたしの喉の奥に、何かが詰まった。扁桃腺の辺りが、痛い。痛くて、涙が溢れる。心臓が、停まりそうに辛い。

「死なないでよ……絶対止めてよ……」

 その声は、震えた鼻声だった。自分の声だって気付くまでに、時間がかかった。

「……そうか……そんなに強いのか……じゃあ、土下座して頼むかな。お孫さんを俺に下さいって」

「何バカなこと言ってんのよ……ふざけてんの?」

「ふざけちゃいねぇ。要は、その最強の誰かが認めりゃいいって話だろ?」

「何言って……」

「真正面からぶつかるだけが方法じゃねぇ、って事さ。そうでもなきゃ」

 いつもの見慣れた、悪巧みする時の顔で、信仁が言った。

「姐さんの親父さんが、認められた道理ってのが分からねぇんでね」

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