第六章 Al-Shi'ra -輝く星-

第六章 Al-Shi'raアルシラ-輝く星-


 人気ひとけのない海辺でアトが歌っていた。つたなかったが一所懸命歌っている。きっと練習しているのだろう。

 そのとき木の枝が折れる音がしてアトの歌声が途切れた。

「やだ、聴いた?」

「やめることないのに」

 男性が近寄ってきて言った。

「だって、下手だし、恥ずかしいから。いつも聴こえてくるのってすごく綺麗な声なんでしょ」

「うん、前にお坊さんから極楽の話を聞いたことがあっただろ。きっと極楽で聴こえるって言うがくってあんな感じだと思う」

「ちょっと! 縁起でもないこと言わないで!」

 アトは強い口調で言ってから、

「今度……に行くんでしょ」

 と心配そうな顔で訊ねた。

「うん」

「……へ渡る海は潮の流れが速くてよく船が難破するって……。いくら、綺麗な楽の音が聴こえるからって極楽なんか行ったりしないでよ」

「心配いらないよ。必ず帰ってくるから。今はアトボシは見えてないし、もし船が沈んだらアトが歌って導いてよ。そしたらきっと帰ってこられるから」

「あ、あたしは、歌えない! 絶対歌わないから、自力で帰ってきて!」

 アトはそう言うと走っていってしまった。


 朝、教室に入ると清美が大きな欠伸をしていた。

「寝不足?」

 小夜が訊ねた。

 もう三月だからテストはないし夜更かしが必要なほど大量の課題も出てない。

 ドラマかマンガの一気見でもしたのだろうか。

「うん、夜遅くまで料理の練習してたんだけど、お母さんに片付けもちゃんとしなさいって言われちゃって……。小夜とご馳走作ったときは後片付けとか、あんなになかったのに、なんで普通の料理でいっぱいあるの?」

「片付けが必要ないように作るんだよ」

 その言葉を聞いて思い返してみると、確かに小夜は必要最低限の道具しか使ってなかった。

 効率が良くて余計な物を使ったりしないから出来上がった後に片付けるものも少ないのだ。

 清美は感心するとともに頭を切り替えた。

「いきなり楸矢さんに食べてもらうわけにはいかないからお弁当作ってきたんだ。お昼のとき味見してよ」

「いいよ」

 小夜は快諾した。


 昼休み、

「あー、やっぱり……」

 ランチボックスの蓋を開いた清美が肩を落とした。

 中身は親子丼だった。

 蓋に貼り付いてしまっている三つ葉などから見て綺麗に盛り付けてあったのだろう。

 だが鞄に入れて持ってきたため盛り付けは崩れてしまっていた。

「親子丼はお弁当向きじゃないからしょうがないよ。大事なのは味なんだし」

 小夜が慰めるように言った。

「でも、見た目が良くないとがっかりされるじゃん」

「お弁当のときはお弁当向きの料理を作ればいいだけだよ」

「それもそっか。じゃ、味見して」

 清美はいつものようにすぐに頭を切り替えてランチボックスを小夜に差し出した。

 小夜は自分のお箸を取り出して清美の親子丼を自分のランチボックスの蓋に少し取り分けると一口食べてみた。

「うん、美味しい。これなら楸矢さん、絶対喜んでくれると思う」

「ホント!? 味付けは? 好みの味とかってないの?」

「特にないと思うけど。今度うちに作りに来たら? それで作ってあげて、楸矢さんに直接聞けばいいんじゃない?」

「いいの!?」

 清美が身を乗り出した。

「前に柊矢さんが、いつでも呼んでいいって言ってくれたから大丈夫だと思うよ」

「じゃあ、改めて柊矢さんに聞いてみて」

「うん」

「文理選択で文系選んだの失敗したかなって思ってたんだけど……」

「理系の大学に行きたくなったってこと? 何かやりたいことがあるの?」

「ないよ」

 清美があっさり答えた。

「じゃあ、なんで理系にしたいなんて思ったの?」

「早稲田の理工学部ならうちから歩いて五分もかからないじゃん」

「え、それだけ? 距離だけなら学習院の方が近くない?」

「学習院は明治通り渡らないといけないじゃん」

 明治通りなんて渡るのに苦労するような道路じゃないと思うんだけど……。

「でも、文系にしておいて良かったって事は目標が出来たって事?」

「ううん、なんにも。ただうちから早稲田の戸山キャンパスへ行く途中で楸矢さんちのそば通るじゃん。楸矢さんが大学へ通う道とも交差してるから時間が合えば帰りに待ち合わせとか出来るかなって」

 すごい恋愛脳……。

 高校ならともかく大学をそんな理由で選ぶなんて……。

 就職先にも影響するのに……。

「小夜は? 最近よく先生のところに進路相談に行ってるってことは、やりたいことがあるって事?」

「ないから困ってるんだよ」

 小夜は溜息をいて清美に進路の悩みを話した。

 聞き終わった途端、清美が爆笑した。

「そこ、笑うとこ?」

 小夜が怒ったように言った。

「なりたいものがあるならともかく、理由もないのに家を出るなんて過保護の柊矢さんが許すわけないじゃん。小夜、柊矢さんのこと分かってなさ過ぎ」

「今は後見人だからでしょ。成人したら、いつまでも居候してるわけにはいかな……」

「年なんか関係ないって」

 笑うのをやめた清美が冷めた口調で遮った。

「成人したとしたってそんな理由じゃ柊矢さんは絶対許してくれないよ。居候が申し訳ないって言うなら家賃や食費受け取ってくれるように交渉した方が早いって」

 清美はポジティブ思考といっても、それはい方向に考えるようにしていると言うだけで実際はリアリストだ。

 むしろ清美より遥かに苦労してきたはずの小夜がなんでこんなに現実が見えてないのか理解に苦しむ。

「なんなら、あたしから楸矢さんに口添えしてくれるように頼んであげるよ」

 とはいえ正直小夜が就職することが出来るのかというとかなり疑問だ。

 仕事が出来ないと思っているのではない。

 先生に手伝いを頼まれたときなどそばで見ているとかなり手際良くこなしている。

 おそらく大抵の仕事は能率的にそつなくこなすだろう。

 だが楸矢の話によると柊矢は小夜が家にいるときはべったり貼り付いてるらしい。

 だとしたら卒業した後は就職しないで家にいて欲しいと思っているのではないだろうか。

 柊矢は自営業で家にいることが多いのだから小夜が家にいれば一日中一緒にいられる。

 どうせ今でも生活費などは受け取っていないのだから、そのまま小夜が家庭に入ってしまっても経済的には変わらないだろう。


 椿矢が家に帰ると、蔵の前に段ボールの箱がいくつも積まれていた。

 その箱の中から榎矢が古文書を取りだしては蔵の中に運んでいる。

「へぇ、お前のことだから、返したとしても箱に入れたまま蔵の中に放り込んでおしまいかと思ってた。ちゃんと棚に戻すなんて偉いね」

 椿矢のからかうような口調に榎矢がむっとした表情になった。

「仕事で必要になったから一冊残らず返せって言われたんだよ」

 なるほどね。

 椿矢は納得した。

 古文書の目録がないから一冊残らず元に戻したかを確認するには置いてあった場所に戻させて隙間がないかどうかを見る以外、確かめようがないのだ。

 ただその方法だと、本が足りないと判明したとしても何が紛失したのかまでは分からない。

 執着心がないというのは要は無頓着ということだ。

 だから文献の目録を作ろうと考える者がいなかったのだろう。

 それでよく古文書が散逸さんいつしなかったものだと感心するべきなのかもしれない。

 といっても、それなりに流失してしまっているだろうが。

「お前、前科があるもんね」

 椿矢が意地の悪い笑みを浮かべて言った。

「あれは……!」

 榎矢が椿矢を睨んだ。

 榎矢は幼い頃、クレーイスを持ち出して遊んでいて無くしてしまったことがあった。〝前科〟というのはそのことだ。

 いくら無頓着とはいってもクレーイスだけは話が違う。

 クレーイス・エコーの家系と言うことに誇りを持っているだけにクレーイスは特別なのだ。

 まぁ、特別と言いつつ幼児こどもがオモチャにしてるのに取り上げなかった時点でかなりいい加減な扱いだったということだが。

 それでも、あれから両親は榎矢に大事な物は預けなくなった。

 当時三歳だったのだから榎矢じゃなくても物を無くすことはあるだろうと思うのだが、椿矢はそれを両親に指摘してやるほど優しい人間ではない。

 成人した今でもかなりの粗忽者そこつものだし……。

 椿矢は開けられている段ボールの横にしゃがみ込むと一番上に置いてある本を手に取ってパラパラとめくった。

 歴史学者の端くれとしては古文書を素手で触るのには抵抗があるのだが、どうせ既に榎矢を初めとした帰還派が散々触った後だし、いたみ具合から見てどの本も昔から粗略そりゃくな扱いを受けていたのは一目瞭然だ。

 今更椿矢と榎矢が手袋をしても遅いだろうし、どちらにしろ雨宮家うちには古文書を扱うための手袋など置いてない。

 椿矢は持っているから家を出る前はあったのだが、部屋を借りて引っ越すときに持っていってしまった。

 今うちにあるのは掃除のときに使っている軍手くらいだ。

「お前、草書そうしょも読めないの? それとも文系なのに古文がダメなの?」

 椿矢が呆れた声で言った。

「勝手に読めないって決めつけないでくれない?」

「じゃ、なんでこれまで持っていったの?」

 椿矢は自分が手にしている本を持ち上げて見せた。

「これ、日記だよ。地球人のご先祖様の」

「うちの先祖に地球人がいるわけ……」

「ここに書いてある内容、これ、奥さんが自分のために歌ってくれたムーシカの歌詞だよ。ムーシコスなら歌詞を書き留めたりするはずないでしょ」

「地球人だとしても先祖だとは……」

 椿矢は蔵の中から雨宮家の家系図が書かれている巻物を持ち出してきて広げると一箇所を指差した。

 さすがに家系図だということは分かったらしく、これまでは持っていかなかったのだ。

 名前と線しか書いてないのだから当然と言えば当然だが。

「ここに書いてあるこの名前と、この本のここに書いてある名前、これが同じだってことくらいはお前にだって分かるでしょ」

 榎矢は本に載っている名前と家系図を見比べ始めた。

 椿矢はもう一度蔵の中に入った。

「その人は間違いなく僕らの直系の先祖で、しかも地球人」

 椿矢はそう言いながら、榎矢が蔵の中に置いた古文書を何冊か流し見してから棚に戻した。

「な、長い歴史の中には地球人一人くらい、いたっておかしくないよ」

 榎矢が苦しまぎれとしか言いようのないことを言った。

 以前、椿矢が古文書に一通り目を通した限りでは地球人は一人や二人どころではなかったが、そんなことを教えてやる義理はない。

 椿矢は肩をすくめると、

「ま、せいぜい頑張って」

 と言って母屋に足を向けた。

「兄さん!」

「何?」

 椿矢が振り返った。

「言っておくけど、僕は無くしてないからね」

「あっそ」

 素っ気なく答えた椿矢の前に榎矢がてのひらを突き出した。

 そこに載っていたのはクレーイスだった。

「お前! また小夜ちゃ……」

「これは偽物」

 榎矢が椿矢の言葉を遮った。

「え?」

「あの子、沙陽さんがクレーイス狙ってるって気付いて、本物隠して偽物持ってたんだよ」

「……それ、小夜ちゃんが持ってた偽物ってこと?」

「それは偽物だって気付いたときに沙陽さんが捨てた」

 どちらにしろ小夜からったのだ。

 椿矢は弟の頭の悪さに眩暈めまいを覚えた。

 どうしてムーシコスというのは、こう揃いも揃ってバカばかりなのか!

 小夜が本物を盗られないように偽物を持っていて、帰還派がそれに気付かずに手に入れたということはだまし取ったか盗み取ったかのどちらかだ。

 そして、それを知っているということは犯行に荷担かたんしていたということだ。

 本物を隠して偽物を持ち歩くだけの頭がある小夜がそう易々やすやすと口車に乗せられて騙し取られるわけがない。

 それにクレーイスが必要だという嘘を信じたのだとしたら本物を渡すはずだ。

 つまり隙を突いて盗んだか強引に奪ったのだ。

 こっそりったなら窃盗罪ですむが、奪い盗るときに小夜にケガをさせていたら強盗罪に問われる。

 人を雇ってやらせたとしても強盗教唆きょうさ罪だ。

 強盗罪というのは被害者が軽傷でも殺人罪より重い罪に問われる。

 呪詛のように超自然的な力を使った犯行と違い、クレーイスを奪ってくるというのは誰かが実行したはずで、それなら犯罪の立証が可能だ。

 榎矢は色仕掛けを使おうとしたくらいだから強盗はしてないだろうし人を雇えるような金も持ってないから他の帰還派の仕業しわざだろう。

 しかし帰還派の誰かが実行犯なら強盗の、人を雇ったなら強盗教唆の共犯だ。

 榎矢を始めとした帰還派の連中は、小夜か小夜の後見人である柊矢が被害届を出したら強盗罪で刑務所送りになると理解しているのだろうか。

 というか窃盗罪にしろ強盗罪にしろ親告しんこく罪ではないから何らかの拍子ひょうし露見ろけんして捕まることは大いに有り得る。

 日常的に違法行為をしているチンピラを雇ったなら他の犯罪を犯して捕まったときに余罪を自白させられて犯行が発覚する可能性は十分ある。

 榎矢は初犯だから有罪になっても執行猶予で刑務所には入らなくてすむかもしれないが前科は付く。

 まぁ、前科持ちになればこれ以上バカなことはしでかさないようになるだろう。

 ムーシコスは音楽ムーシカのことしか考えてない音楽バカと言えないこともないが、学業成績の悪さに目をつぶってでも入学させたいと思ってもらえるだけの実力がある楸矢のような音楽バカならいざ知らず、普通のムーシコスにそんな才能はない。

 ムーシコスに音痴はいないし楽器もある程度けるとはいえ地球人に才能を認めてもらえるほどではないからただのバカだ。

 もっとも柊矢にしろ小夜にしろ二人共かなり賢いし、楸矢にしても成績は悪いらしいが割と思慮深いから、帰還派というのはムーシコスの中でも特に頭の悪い連中の集まりなのかもしれない。

「これは祖父様じいさまの」

 榎矢は偽クレーイスをポケットに仕舞しまった。

「確かに僕がながめてるときにクレーイスが無くなったけど、どこかへやっちゃったわけじゃないよ。僕の目の前で消えちゃったんだよ」

「え、じゃあ……」

 椿矢がようやくまともに榎矢の方を向いた。

「沙陽さんとおんなじ。祖父様もクレーイス・エコーから外されたの。それを隠すためにこれ作ったんだよ。それで、祖父様が死んだら僕がこれを祖父様の持ち物から取り出すように言われてたの」

 死んだのにクレーイスが残ってたら偽物だとバレるから亡くなった直後に処分する必要がある。

 それを榎矢に頼んだのは、ムーシコスはパートナーが死ぬと一緒にってしまうことが多いから祖母では偽クレーイスを取り出して処分する時間がないかもしれないと考えたからだろう。

 つまり、

「父さん達もそのことは知らなかったんだ……」

 知っていたら、うっかり者の榎矢ではなく父か母に頼んだはずだ。

 バカで口の軽い榎矢がよく十八年も秘密を守ってこられたと感心しかけたが、内緒にしていたわけではなく何度も無くしてないと訴えていたが誰も相手にしなかっただけだと思い至った。

 クレーイスが忽然こつぜんと消えたという事を上手く説明出来なくて「無くしてない」と言う言葉だけを繰り返していたからみんなから聞き流されてしまっていたのだ。

「祖父様と祖母様と僕だけの秘密だったんだよ」

 ずっと誰かに話したかったようだ。そして、今になってようやく偽クレーイスという証拠を見せればいいと気付いたのだ。

 思い付くまでに二十年近く掛かるなんて……。

 椿矢は軽蔑の眼差しを榎矢に向けた。

 榎矢はまたバカにされてると気付いたようだが、その理由が分からないらしい。

 椿矢は溜息をいた。

「つまり僕は地面の穴って訳だ」

「え?」

「王様の耳はロバの耳って話くらい知ってるでしょ」

「ああ」

 それすら知らないようだと、大して偏差値の高くない大学に裏口入学しなければならないほど成績が悪かったんじゃないかと疑いたくなるが、さすがにその程度の知識はあったようだ。

 楸矢のように音大付属や音大に実技で入れるだけの才能があるならまだしも、なんの取り柄もないバカの上に知識までとぼしかったりしたら目も当てられない。

「まぁ、いいや。地面の穴でも秘密を教えてくれたんだからお駄賃やるよ」

 その言葉に榎矢が手を出した。

「お金じゃなくて労働。頭脳労働の方ね。手伝ってやるって言ってるの」

 榎矢が気まずそうに手を下ろした。

「お前、適当に並べてるけど父さん達は仕事に必要だから返せって言ったんでしょ」

 椿矢は棚の一番端に置いてある本を指した。

「これはご先祖様がやりとりしたふみを子孫が糸でまとめて本にしたものだし、その隣のは年貢の記録でこっちは物語。こんな風に適当に並べたんじゃ目的の本が探せないでしょ。きちんと分類し直せって言われたらどうするの?」

 榎矢が思案顔になった。

 手伝いを受け入れるということは古文書が読めないということを認めることになる。

 兄に弱みを見せたくないが、やり直しを命じられても読めない榎矢一人ではどうにもならない。

 わずかに逡巡しゅんじゅんした後、榎矢は、

「どうすればいいの?」

 と訊ねた。

 椿矢はこの段は日記、その下は物語などとジャンルごとに置く場所を決めた後、古文書に目を通し始めた。

「これも年貢の記録」

 椿矢はそう言って本を手渡した。

 榎矢が棚に持っていく。

「祖父様の後のクレーイス・エコーって誰か分かったの?」

 椿矢が次の本を読みながら訊ねた。

「分からなかったみたい。雨宮家うちや沙陽さんちみたいにクレーイスやクレーイス・エコーのこと知ってるムーシコスは少ないから」

 大抵のムーシコスは、つい最近までムーシケーやクレーイス・エコーのことを知らなかったから手元にクレーイスが現れてもいつの間にか知らないペンダントが持ち物に紛れ込んでいた、くらいにしか思わなかっただろう。

「山崎さんっていたでしょ。三年前に亡くなった人」

「うん」

 椿矢は表情に気付かれないよう本に目を落としたまま相鎚あいづちを打った。

 山崎というのは呪詛のリストに書かれていた椿矢の知り合いのことだ。

「あの人じゃないかって疑ったらしいけど違ったみたい」

「そう思った根拠は?」

「僕がクレーイス無くしたって言って反応見たんだって。でも、おかしな様子はなかったって言ってた」

 確かに山崎はクレーイスのことを知っていたから手に入れていれば何らかの反応を示しただろう。

「これは日記」

 椿矢は次の本を手渡した。

 榎矢がクレーイスを〝無くした〟のは三歳くらいの頃だから十八年ほど前。

 謡祈祷うたいきとうは大正時代末期にはやめていて椿矢達の父親は普通のサラリーマンだった。

 しかし椿矢達が幼かった頃、父は知り合いに頼まれて借金の連帯保証人になったが、その人は金が返せなくなり行方をくらましてしまった。

 借金取りが家に押しかけてくるようになり困っていた父に祖父が謡祈祷の副業を勧めたのがその頃だったはずだ。

 しかし昔ならいざ知らず、現代では干ばつや冷害で雨乞あまごいや雨鎮あましずめなどはしない。

 当然依頼の大半は呪詛の類だ。

 楸矢の話を聞いた限りでは、封筒を燃やしたとき、ムーシケーのムーシカを小夜が歌ったと言うよりムーシケーが小夜の口を借りて直接歌ったという印象を受けた。

 おそらく小夜とムーシケーの間には相当強い共感力があるのだ。だからムーシケーが直接小夜に歌わせることが出来たのだろう。

 小夜が歌ったムーシカは聴こえなかったし魂にも刻まれていない。多分、肉声が届く距離にいた霧生兄弟にしか聴こえてなかっただろう。

 呪詛を抹消したいムーシケーからしたら、直接火をけられるムーシカを他のムーシコスに知られるなど論外だから誰にも聴こえなかった、いや聴かせなかったのだ。

 小夜はムーシケーの意志に背いたりしないし、そうでなくともムーシカで人を傷付けるような人間ではない。

 もっとも小夜が無意識だったとしたら覚えてないかもしれないが。

 柊矢はそもそも小夜以外は弟ですらろくに視界に入ってないくらいだから危害を加えようと思うほどの関心を他人に向けたりしないだろうし、楸矢は言葉の端々はしばしからさり気なく人を気遣っていることが窺えるから他人ひとを傷付けるようなことは嫌いだろう。

 どちらにしろ霧生兄弟はキタリステースだから歌ったところで効力は発生しない。

 雨宮家の者がここ何代か続けてクレーイス・エコーに選ばれていたのは同じことを雨宮家の蔵にある古文書に対してもしたかったのだろう。

 本来ならムーシケーの意志に従う者がなるべきクレーイス・エコーに、ムーシケーの意志に反する呪詛のムーシカを使う雨宮家の人間が選ばれていたのは呪詛が書かれた古文書を抹消したかったに違いない。

 だが皮肉なことにムーシコスの血筋を守ってきたと称する一族にムーシケーと強い共感力を持つ者は一人も現れず歌わせることが出来なかった。

 だからムーシケーはうたい祈祷きとうを勧めた祖父に、それを受け入れた父に、雨宮家の一族に、見切りを付けたのだ。

 この先も雨宮家の者はムーシカの利用をめない、だとしたら自分の意志が分からない者をクレーイス・エコーにしておく意味はない、と。

 問題は……。

 榎矢の目の前でクレーイスが消えたという事はその時までは本物だったのだ。

 祖父様がクレーイス・エコーになったのは高度成長期の最中さなか

 確か六十年代頃って言ってたはずだけど……。

 クレーイス・エコーから外されたのが十八年前だとしたら、呪詛の依頼があった頃はまだ祖父がクレーイス・エコーだったということになる。


 楸矢は清美と新宿のファーストフード店で落ち合った。清美に呼び出されたのだ。

「急にすみません」

 清美が謝った。

「気にしないで。それで、どうしたの?」

「昨日の天気予報、見ました?」

「えっと……、今日は晴れて少し暑い、当分いい天気が続きそう……ってのとは別になんかあった?」

「桜の開花予想、早ければ来週半ばには八分咲きくらいになるそうです。来週末なら旅行の一週間前ですよね」

「そっか、ここのところ温かいから開花が早まったんだ」

「それで、お花見なんですけど、あたし達四人で行くのはどうかなって。それでお弁当食べ終わったら、楸矢さんとあたしが離れるか、柊矢さんと小夜に散歩を勧めれば二人きりになりますよね。それなら、小夜はデートとか構えることなく行かれるんじゃないかと思うんですけど、どう思いますか?」

「いいね。小夜ちゃんのことだから、近所でお弁当食べるだけでも最初から二人きりだと緊張するかもしれないけど、四人で行けばそんなことないよね」

「近くの公園でお花見なら、当日の朝に天気予報見て決められますよね」

 二人は話し合って、清美が学校で小夜に花見の前振りをし、家で楸矢がパーティのお礼に清美も誘って四人で行こうと言うことにした。

「これで柊兄達がしょっちゅうデートに行ってくれるようになれば二人がイチャついてるとこ見ないですむようになるよ」


「やっと終わった」

 榎矢が蔵の壁にもたれて溜息をいた。外はすっかり暗くなっていた。

「見境なく全部持っていったりするからだよ」

 椿矢が冷たい声で言った。

 とはいえ榎矢は中身が読めないのだから全部持っていくしかなかったのだろう。

「間違えずに置けたか確認しといてやるよ」

「兄さんがそんなことしてくれるなんて意外だね」

 驚いてはいても裏があるのではないかと疑っている様子はない。

 小夜や楸矢のように素直な性格ならあっさり信じても「可愛い」ですむが、普段敵視てきししている人間を簡単に信用するのはバカとしか言いようがない。

 おろものってのは榎矢こいつのためにある言葉だな。

「じゃ、自分でやる? 読めないのにどうやって確かめるのか知らないけど」

 椿矢の冷ややかな言葉に榎矢は口ごもった。

 確かに読めない榎矢には確認のしようがないしただしく分類出来ていなかったら父に叱られるかもしれない。

 やり直しを命じられたら椿矢に再度頼むことになるし、そうなればまたバカにされるネタが増える。

「……じゃあ、お願い」

「タダでやってやるとは言ってないよ」

「お金なんか持ってないよ」

「分かってるよ。これは貸し」


 休み時間、清美は小夜に話しかけた。

「お花見?」

「うん、柊矢さんから誘われたりしてる?」

「してないけど……柊矢さん、人混み嫌いじゃないかな」

 小夜は上野公園や千鳥ヶ淵ちどりがふちなどを思い浮かべているのだろう。

 まぁ、東京の人間が考える花見といえば、上野公園みたいな場所でのどんちゃん騒ぎかラッシュ時の駅のホームみたいに混雑している千鳥ヶ淵のような〝花の名所〟を歩いて通り抜けるかのどちらかだろう。

「楸矢さんは? 友達と約束してるとか言ってた?」

 考えてみたら小夜は柊矢と毎日一緒に帰っているのだから、帰り道で花見の話をされたら楸矢の出る幕がなくなってしまう。

「さぁ?」

「なら聞いといてよ」

「いいよ」


「お花見? 別に予定ないよ」

 夕食の席で小夜に訊ねられた楸矢が答えた。

「そもそも花見なんかしたことないだろ」

 柊矢が素っ気なく言った。

 霧生家の前の細い道路を隔てた向かい側は公園で、ソメイヨシノが何本も植わっているから毎朝家から出る度に嫌でも桜が目に入る。

 柊矢は元々人付き合いをしないから誰かと花見に行ったりしたことはないし、楸矢も仲のいい友人は皆フルートの練習に打ち込んでいて花見に行こうなどと眠たいことを言う者はいなかった。

 小中学生の頃は区立の学校だったためクラスメイトは全員近所に住んでいたし、清美に言った通り、家や学校の周囲に山ほどソメイヨシノが植わっているからこの辺の住人はあまり花見に行かない。

 職場などの付き合いで行くことはあるだろうが。

「そうだけどさ、この前清美ちゃん、卒業祝いしてくれたじゃん。だから、お礼に清美ちゃん誘って近所でお花見しない?」

「清美を誘ってもいいんですか?」

「うん、もちろん。今週末、天気が良かったらみんなで一緒にお花見しようよ。確定申告終わってるから柊兄も行けるでしょ」

「ああ」

 思った通り柊矢は即座に承諾した。小夜が行くのに柊矢がついてこないはずがない。

「じゃあ、小夜ちゃん、清美ちゃん誘っておいてね」

「はい」

 小夜が嬉しそうに頷いた。


 椿矢は誰もいなくなった助手室で私物のノートパソコンを開いた。

 助手室のパソコンに履歴を残したくなかったので自宅から自分のパソコンを持ってきたのだ。

 リストの人物を検索しても収穫はなかった。

 だが事件や事故に巻き込まれた人物なら検索で出てくるのは小夜の祖父で証明済みだ。

 小夜は二歳の頃、大事故に遭っている。

 車は大破したのに幼い子供だけ〝奇跡的に〟助かった事故なら検索に引っかかるだろう。

 名字や事故に遭った場所が分からなかったので多少時間はかかったが十四年前という情報を頼りに交通事故を調べてなんとか探し出した。

 ネットの記事では大したことが分からなかったので新聞記者になった昔のクラスメイトに頼んで詳しい資料をメールで送ってもらった。


 資料によると

・車は急な坂道を猛スピードで下って壁に激突した

・車はかなり加速していて原形を留めないほど大破した

・損傷が酷すぎて故障があったかどうかは調べようがなかった

 とのことだった。


 遺体の状態が書かれている報告書のファイルは開かなかった。

 読まなくても正視に耐えない状態だったことくらいは想像が付く。

 資料の中に事故直後の現場写真があった。

 鉄屑てつくずと化した車の後方にチャイルドシートがあった。

 小夜が写っていないのは他所よそに運ばれた後だからだろう。

 現場検証のためにチャイルドシートだけその場に残されたのだ。

 原形をとどめていない車の写真からは車種が分からなかったが報告書に書いてあった。

 車は小型車でチャイルドシートは少し離れた場所に落ちていた。

 リアガラスをこの大きさのチャイルドシートが通り抜けられるわけがないし、バックシートが写ってないということはバックシートごと飛び出したわけでもない。

 横のドアが開いて放り出されたなら車体の側面に落ちていたはずだ。

 写真では、はっきりとは分からないがチャイルドシートに目立った傷はない。

 おそらく衝突の直前にムーシケーがチャイルドシートごとムーサの森に飛ばして車がぶつかった後に地球に戻したのだ。

 外に置いたのは車体が潰れていてチャイルドシートが入らなかったか、あるいは万が一、車が炎上したとき巻き込まれないようにするためかのどちらかだろう。

 チャイルドシートも一緒に飛ばしたのは、小夜だけ無傷だと怪しまれると思ったか地球に戻すとき想定外の衝撃から守る為かは分からなかった。

 小夜にすら理解しづらいムーシケーの意志は、ただのムーシコスの椿矢には計りかねた。

 当時、既に椿矢の祖父はクレーイス・エコーから外されていたが小夜もまだクレーイス・エコーではなかったはずだ。

 帰還派の一件や、この前小夜から受けた相談内容からしてクレーイス・エコーにはムーシケーの意志を実行するという役目があるようだ。

 二歳の子供にそれは無理だから選ばれるわけがない。

 もし小夜ちゃんのお祖父さんがムーシコスだったならお母さんもムーシコスのはずだけど、お母さんがクレーイス・エコーだったのか?

 しかし、それだとムーシケーが守ったのが小夜だけだったことの説明がつかない。

 霧生兄弟のときも、柊矢と小夜のときも、二人同時に飛ばされたのだから一人しか助けられなかったということは考えづらい。

 だが写真を見る限りムーシケーが小夜を護ったのは間違いない。

 クレーイス・エコーが関係あるかはともかく、この事故は誰かが小夜か小夜の親か、あるいは全員を狙って起こしたのだ。


 椿矢は霧生兄弟の両親の事故も調べてみた。

 霧生兄弟の両親の事故もやはり不審な点があった。

 両親がいたバス停に車が突っ込んできたのだ。原因は運転手の居眠り運転とされた。

 ついでに楸矢が言っていた霧生兄弟の祖父が亡くなった事故も調べた。

 楸矢は嵐を起こすムーシカが聞こえていたと言っていたがトラックが突っ込んできたのは偶然ではなかった。

 トラック運転手の居眠り運転だった。

 運転手の話によると突然意識を失ったと思ったら衝突していたとのことだから嵐でなくても事故は起きていただろう。

 嵐は別件で別人が狙われていたか、誰かを狙ったのではなく呪詛とは別の目的で起こしたのかもしれない。


 椿矢がムーシケーの研究をしているのは単純な好奇心というのもあるが、何よりムーシカが好きだからだ。

 椿矢にとってムーシカで人を傷付けるなど唾棄だきすべき行為だ。

 だから謡祈祷をする両親も、自分の利益のためにムーシカを利用する沙陽も嫌悪していた。

 椿矢は儒教じゅきょう的な親を敬うべきという思想も嫌いだ。

 尊敬というのはそれに値する行動の結果受けられるものであって、ただその立場にいるというだけで得ていいものではない。

 ただでさえムーシコスの血筋だのクレーイス・エコーの家系だのと言う妄言もうげんいてる両親や祖父母に悩まされ続けてきたのだ。

 その上、見下げ果てた行為をしている人間から生まれたのだと知ったら、いくらリアリストの椿矢でも死にたくなる。

 だから親の副業――謡祈祷――からは目を背けて見ないようにしていた。

 むべき行いをしていても知らずにいれば軽蔑せずにすむ。

 しかし家を出る前は嫌でも耳に入ってきてしまったから多少の知識はある。

 現代社会で一番暗殺に利用しやすいのが車だ。

 もう少ししたら自動運転や、そこまで行かなくても衝突しかけたら自動的に止まるようなシステムが組み込まれるだろうが現状では人間が運転している自動車ほど利用しやすいものはない。

 運転手を眠らせてしまえば簡単にコントロールを失うし、対象者が車に乗ってなくても近くの車を運転している者の意識を失わせて突っ込ませればほぼ確実に殺せる。

 自動車は小型車でも一トン以上の重量があるからそれほどスピードが出てなくても衝突されたら人間など、ひとたまりもないからだ。都会の道路を走る車は大してスピードを出してないが、それでも跳ねられれば命を落とすか重傷を負う。

 しかもムーシカで眠らせたなら証拠は残らないから犯罪の立証は出来ない。

 だから暗殺にはよく使われる手なのだ。

 沙陽が小夜を狙ったとき家に火をけたのは霍田つるた家は雨宮家のようにムーシカを利用してないから暗殺には不慣れだった――沙陽は昔から悪巧みにはよくムーシカを使っていたにしても――のと、沙陽自身少々考えが甘いというか知恵が浅いところがあるからだ。

 おそらく家を燃やせば焼け死ぬと短絡的に考えたのだろう。

 それは一度小夜の暗殺に失敗したにも関わらず再度家に火をけてまた失敗したことからもうかがえる。

 普通、一度しくじったら別の方法を試すだろうに二度も同じ失敗を繰り返すなんてバカかと思ったが、人を傷付けるためのアドバイスなどする気はないし、何より彼女の顔を見るのも嫌だから放っておいた。

 沙陽と同じ大学に行ったことがあっても柊矢は興味がないことに無関心なだけで頭は切れるし、後輩(になる予定)の楸矢も成績は悪いらしいが割と賢明だから、彼女の浅はかさは純粋に個人の資質によるものなのだろう。

 それはともかく四年ほど間が空いてるとはいえ小夜と霧生兄弟の両親が呪詛で殺されたのは間違いないだろう。そして霧生兄弟の祖父も殺された。

 霧生兄弟の祖父が亡くなった当時、ムーシケーが霧生兄弟を助けたことや柊矢と付き合っていた沙陽がクレーイス・エコーだったことを考え合わせると彼らがクレーイス・エコーだったのは間違いないだろう。

 あの頃、沙陽は自分がクレーイス・エコーになったと言っていて、誰かからクレーイスを渡されたわけでもないのに、また下らない戯言ざれごとを、と呆れたのを覚えている。

 理由は不明だが、どうやら沙陽にはムーソポイオスのクレーイス・エコーが分かるようだ。

 だから小夜がクレーイスを持っているのを見る前からクレーイス・エコーだと知っていた。

 そういう能力ちからを持っているのか身内にそういう人間がいて教わったのかは知らないが。

 だがクレーイス・エコーだから霧生兄弟が狙われたのか、それとも祖父を消したかったのか、あるいは三人とも抹殺まっさつしようとしたのかは分からない。


 椿矢は溜息をいてノートパソコンを閉じた。

 結局、分かったのは霧生兄弟の祖父と両親、それに小夜の両親が殺されたらしいということだけだ。

 柊矢が貸してくれた霧生兄弟の祖父の日記や手紙などにも手懸てがかりは全くなかった。

 呪詛の依頼のことや〝歌〟が聴こえるということも一切書いてなかった。

 祖母が家を出たきっかけや離婚の理由にも触れていなかった。

 小夜の祖父が娘の養子先の記録を処分して全く連絡を取らなかったように、霧生兄弟の祖父もムーシカやムーシコスに関係することは人に知られないようにするために意図的に書きしるさなかったのだ。

 ムーシコスのほとんどはムーシカが聴こえることを秘密にしているが、ここまで徹底して隠していた者は初めてだ。

 おそらく呪詛を依頼されたことで身の危険を感じたのだろう。

 唯一、関連がありそうな記述は柊矢の祖父が柊矢に二歳半でヴァイオリンを習わせ始めたということだ。

 当初、柊矢の父はまだ早すぎると反対したがき伏せたと書いていた。

 なんと言って説得したかについての記述はなかった。

 つまりムーシカやムーシコスに関係があることだったのだ。

 霧生兄弟の祖父が息子に母親がいなくなった訳をどう説明したのかは不明だが、自分達に〝歌〟が聴こえるのが原因で出ていったということは知っていたのではないだろうか。

 だから柊矢が〝歌〟のことをうっかり口走ってしまったときの予防策だと説明されて納得したのだろう。

 楸矢が、子供をヴァイオリニスト――というかプロの音楽家――にしようと思っている親は二、三歳くらいから習わせ始めると言っていたが、ヴァイオリニストにしたかっただけなら秘密にする必要はないからそう書いていたはずだ。

 おそらく楽器を習っていればムーシカを口ずさんだり人には聴こえない歌が聴こえると言っても周囲の者は作曲でもしてるのだと解釈して不審に思わないと考えたのだろう。

 柊矢にヴァイオリンの才能があったのは偶然だったようだ。

 楸矢にも三歳になる前からフルートを習わせ始めた。

 ヴァイオリンではなくフルートにしたのは息子夫婦の死に疑念を抱き万全の注意を払って演奏中は歌えない楽器を選んだのかもしれない。

 二人が楽器を習っていた理由は推察できたものの、ここまで細心の注意を払って隠されたのでは呪詛の手懸てがかりを掴む役には立たない。

 他にも殺害されたムーシコスがいるのかもしれないが知り合いでもない限り地球人との区別は付かない。

 少なくとも雨宮家では呪殺じゅさつと思われる死者は出てないし霍田家でも不審死をした者がいるという話は聞いてない。

 小夜に関しては昔の事故と今回の呪詛は関係があるのだろうか。

 二歳の時の事故は小夜を狙ったのだろうか。

 だが、それなら十四年間の空白は一体どう考えればいいのだろうか。

 ……本当に十四年間狙われなかったのか?

 そういえば楸矢が、小夜は柊矢と知り合うまでムーサの森を見たことがなかったと言っていた。

 十四年間ムーサの森に飛ばされることがなかった。

 つまり事故の類には遭わなかったということだ。

 だとしてもムーシコスが十六歳になるまでムーサの森を見たことがないなんて有りるのか?

 それも抜きん出てムーシケーとの共感力が強い小夜の前に姿を現さなかった?

 二歳の頃から護ってきたのに?

 今までクレーイス・エコーでさえムーシケーは護ったことがなかった。

 少なくとも椿矢は聞いたことがない。

 夭折ようせつしたクレーイス・エコーはいくらでもいる。

 ましてや普通のムーシコスを護ったりはしない。

 実際、霧生兄弟の祖父や父親、小夜の祖父や母親は助けなかった。

 幼い頃から護られてきたなんて例外中の例外だ。

 その例外にだけ姿を見せたことがなかった?

 ……護るため、か?

 ムーサの森が姿を現せば他のムーシコスにも見えてしまう。

 ムーシカを奏でる以外でムーシコスを見分ける方法はムーサの森に気付くことだ。

 だからえて小夜の前にだけ出現しなかったのか?

 小夜の祖父が娘を守るために養子に出した先の書類を処分して痕跡を残さなかったように、ムーシケーも小夜の存在をぎりぎりまで隠していたかったのだろうか。

 小夜を守れる存在が現れるまで。

 柊矢と出会うまで。

 確か柊矢と一緒にいるときに初めて森を見たと言っていた。

 柊矢が小夜をクレーイス・エコーに選んだことで庇護者が出来たことに安心して姿を現したのか?

 柊矢が沙陽と付き合っていた頃は沙陽がクレーイス・エコーだったのだからムーシケーとしても最初から小夜をクレーイス・エコーにするつもりだったわけではないのかもしれないが結果的にそうなった。


「雨宮、まだいたのか?」

 助手室をのぞいた教授が、椿矢がいるのを見て声を掛けてきた。

「今から帰るところです」

 椿矢はノートパソコンを鞄に入れると立ち上がった。


「お花見? 行く!」

 小夜が誘うと清美は二つ返事で承諾した。

「お弁当作るんだよね? あたしも手伝いたい」

「うん、お願い」

「あ、でも、あたし、まだ簡単なものしか作れないけど」

「お弁当に手の込んだ料理は作らないよ。特に当日の天気を見てから行くか決めるなら、すぐに出来るものじゃないと」

「そっか」

 清美が安心したように頷いた。

「お花見楽しみだな~。お料理の練習もっと頑張らなきゃ」

 清美がはしゃいでいる姿を見ると小夜も楽しくなってくる。

「楸矢さんが小夜の親戚でラッキー」

「親戚?」

 小夜が思わず聞き返した。

「え、楸矢さん、親戚って言ってたけど違うの?」

「ううん。親戚だよ。遠縁の」

 小夜が慌てて言った。

「……そう」

 楸矢も遠縁だと言っていた。

 清美は小夜が霧生家に引き取られるまで柊矢達の話を聞いたことがなかった。

 小夜の祖父が生きていた頃から両親がいないということで家族に関する話は清美の方からは聞きづらかったというのもあるが、小夜もたまに祖父の話をする程度で親戚の話が出たことはなかったからいないのかと思っていた。

 遠方なら話が出なくても不思議はないが同じ新宿区内に住んでる親戚がいたと知って驚いた。

 実際のところ、どの程度遠いのか気になったが小夜にしろ霧生兄弟にしろ家庭環境に関しては迂闊にれられない。

 話が出たことがないのは、ほとんど交流がなかったからだろう。

 それでよく小夜が柊矢達と普通に話せたと思うが、男性が苦手といっても全く口がけないわけではない。

 やたら人に気を遣う性格だから嫌だと思っていても相手に不愉快な思いをさせないように話しかけられれば、ちゃんと受け答えはする。

 自分から積極的に近付きたくないというだけだ。

 小夜は可愛いから入学当初は男子がよく話しかけてきていた。

 だが傍目はためにも分かるほど顔を引きらせるため今では必要事項の伝達以外で話し掛けてくる男子はいなくなった。

 もちろん初めの頃は面白がって小夜をからかうために話しかけてくる男子もいた。

 だが、からかわれてる事にも気付かず、逃げることにも思い至れないほど緊張して顔を強張こわばらせながら必死で相手をしている小夜を見かねて清美が男子を追い払うようになった。

 それが小夜と清美が親しくなったきっかけだった。

 人見知りとはいえ相手が女子なら慣れれば普通に話せるので、そのうち清美以外の子とも喋れるようになった。

 といっても自分から積極的に話しかけたりはしないから親しくしているのは小夜と清美のお喋りに加わってきた子だけだ。

 おそらく唯一の引き取り手であった柊矢とその弟に対して苦手でも普通に接しないわけにはいかなかったのだろう。

 一緒に暮らしているうちに慣れたのかもしれない。

 あるいは突然祖父を亡くして動揺しているときだったから苦手意識どころではなかったとも考えられる。

 とりあえず清美は〝親戚〟という言葉に感じた引っかかりをスルーすることにした。


 椿矢は蔵の壁にもたれて数年前に亡くなった親戚の日記を読んでいた。

 祖父のものから読み始め、蔵に置いてあった全ての日記や手紙の類に目を通した。

 これが蔵にある一族の日記の最後の一冊だ。

 祖父の日記には榎矢が言ったとおりのことがしるされていた。

 祖父はクレーイス・エコーから外されクレーイスが消えた。

 榎矢がクレーイスを〝無くした〟ことが発覚したのは消えてから数時間ってからだった。

 まだ三歳だった榎矢の話は要領を得ず、存命中にクレーイス・エコーから外されたという前例もなかった――少なくとも雨宮家の人間は知らなかった――ため、クレーイス・エコーではなくなったからクレーイスが消えたのではないかという結論が出たのは何週間も経ってからだった。

 そのため祖父は関連付けて考えなかったようだが予想通りクレーイスは父に謡祈祷を勧めた日に無くなっていた。

 ムーシケーの意志に反してムーシカを呪詛に使い続けていた雨宮家は、ムーシケーに完全に見限られたのだ。

 ムーシカを私利私欲に利用し続ける限り雨宮家の者がクレーイス・エコーになることは二度とないだろう。

 ムーシコスであることにこだわり、クレーイス・エコーに選ばれることを誇りにしていた一族がムーシケーに見放みはなされた。

 そしてムーシケーに見切りを付けられた一族が見捨てた大伯母の子孫がクレーイス・エコーに選ばれた。

 これ以上の皮肉はないだろう。

 まぁ、柊矢が選ばれたのは恐らく現存するムーシコスの中で一番ムーシコスらしいムーシコスだからという理由だろうが、最もムーシコスらしい者がやはり今いる中で一番ムーシケーとの共感力が強い小夜を見つけたのは天の配剤はいざいなのか必然だったのか。

 それはともかく呪詛の依頼があったのは霧生兄弟の父親が物心ついた頃。

 柊矢は沙陽と同じ学年だし二人とも現役で大学に入っているからそうなると椿矢とも同じ学年だ。第一子が同い年なら霧生兄弟の父親と椿矢の父の年も近いはずだから呪詛の依頼があったのは椿矢の父親が物心つく前後数年に絞っていいと判断して、その頃を中心に祖父を初めとした親戚達の日記や手紙などを調べてみた。

 すると祖父の日記に沢口と言う知人に関する記述が見つかった。

 以前、新宿で見かけた朝子の父親だ。

 呪詛の依頼があったと思われる頃、沢口は知り合いの子供を養女にしていた。

 それが朝子である。彼女は養子だったのだ。

 沢口の知り合い――朝子の実父――は自分もムーシコスであるにも関わらずムーシコスは邪悪だなどと言っていたらしい。

 そして邪悪な存在だと言いながら歌える人間ムーソポイオスを知らないかと沢口に訊ね自分でも捜していたらしい。

 ムーソポイオスを捜していたということは朝子の父はキタリステースだったのだろう。

 沢口は呪詛などとは無縁の人だったから、朝子の父がムーシコスを邪悪だと言いながらムーソポイオスを捜すと言う矛盾した行動に困惑して椿矢の祖父に話したらしい。

 沢口は呪詛に限らず、ムーシカの中には何らかの効力を発揮はっきするものがあることを知らなかったから何故なぜムーソポイオスが必要なのか分からなかったのだ。

 祖父は迷ったが結局ムーシカの中には効果があるものが存在することは教えず、その人は心の病ではないかと答えた。

 沢口は「確かに彼はムーシカが『見える』などと言っているからその通りなのかもしれない、もう関わらないようにする」と答えた。

 しかし彼のおかしな言動に愛想を尽かした妻が出て言ってしまった後、突然彼が亡くなり妻の行方も分からなかったので沢口がのこされた娘(朝子)を引き取った。

 朝子の母は地球人だし朝子はまだ小学生だったから、ムーシコスのことを知らない母親を捜し出して託すより自分が引き取った方がいいだろうと判断したらしい。

 呪詛の依頼があったと思われる頃にムーシコスは邪悪だなどと言ってムーソポイオスを捜していた者がいたのは偶然とは思えない。

 依頼を断られた直後に亡くなったならリストに載ってた人達が無事だった事も説明がつく。

 だが小夜の母が子供の頃に遭った事故は朝子の父が亡くなってから十年は経っていたはずだし小夜が呪詛されたのはついこの前だ。

 朝子の父が誰かと組んで呪殺を企んでいたのだとしたら計画は完遂していたはずだ。

 小夜を狙ったのは別の人物なのか?

 ムーシコスを狙うような人間がそんなに大勢いるとは考えづらいが……。

 とりあえず小夜の母親のことはおいといて、以前推測したとおり小夜が両親と事故に遭った後、ムーシケーが最近まで小夜のことを隠していたのだとしたら?

 昔、小夜を狙った者が最近になって、ようやく彼女を見つけ出したのだとしたら?

 だが十四年の歳月をて、なお小夜を抹殺したい理由が分からない。

 ムーシケーとの共感力が強いといっても基本的にムーシケーはよほどのことがない限り干渉はしてこないし、それもムーシケーやムーシカに関係のあることだけなのだから小夜がいてもいなくても大して変わらないと思うのだが。

 それに霧生兄弟の両親や祖父のこともある。

 霧生兄弟の両親と小夜の両親に繋がりがあったとは考えづらい。

 両親の事故のとき霧生兄弟は一緒ではなかった。

 つまり狙いは両親だ。片方は巻き添えかもしれないが。

 楸矢が、柊矢は後見人になるとき小夜のことを調べたと言っていた。

 調べた結果、霧生家と霞乃家に何らかの繋がりが見つかったという話は楸矢からは聞いてない。

 柊矢が意図的に楸矢に黙っているのでないとすれば霧生家と霞乃家に接点は無かったのだ。

 いずれにしろ呪詛の依頼にも、霧生家や小夜の両親の事故にも、雨宮家の者は関わってなかったし標的にもされてなかった。

 だが完全に蚊帳かやの外だったとなると雨宮家にある資料からは辿たどりようがない。

 椿矢は溜息をくと蔵に入って日記を棚に戻した。


「これ、清美ちゃんが作ったの?」

 楸矢がタコさんウィンナに差した爪楊枝を摘まんだ。

 小夜達は近所の公園に来ていた。

「作ったなんて大袈裟ですよ~。切って焼いただけなんですから」

「でも、美味しいよ」

「ホントですか!?」

「うん! 後はどれ作ったの?」

「後はこれです」

 清美がサラダを指した。

「美味しい。清美ちゃん、料理上手いね」

「やだ~、お料理なんて言えるほどのものじゃないですよ~」

 清美が頬に手を当てて、しなを作りながら言った。

 小夜は呆れ顔で清美を見た。

 確かに洗って切っただけのものを料理とは言わない。

 ドレッシングも店で買ったものだし。

「……柊矢さん」

「ん?」

「楸矢さんも清美も、いつも私達のこと痛いって言ってますけど、あの二人もかなり痛くないですか?」

「自分の姿は見えないものだからな」

 柊矢は白けた顔で弁当を食べながら答えた。

 そのときデュエットのムーシカが聴こえてきた。

「家に戻って歌うか?」

「そうですね」

 清美は楸矢と二人で楽しそうにしているから小夜達がいなくなっても気にしないだろう。

 二人はランチボックスを片付けると家に戻った。

 楸矢と清美は完全に二人の世界に入っていて柊矢と小夜がいなくなったことに気付いていなかった。


 清美と盛り上がりながら弁当を食べていた楸矢は小夜の歌声で顔を上げた。

 柊矢達が座っていた方に目を向ける。

 つられた清美が小夜達がいたところに顔を向けて二人がいないのに気付いた。

「柊矢さんと小夜、いなくなっちゃいましたね」

「そうだね」

 キタラの音が聴こえるから音楽室にいるのだろう。

 折角デートのお膳立てしたのに結局家で歌うのか……。

 この感覚、柊兄がヴァイオリニストになりたかったわけじゃないっていうのが本心だったって分かったときと似てる……。

 デートしてなかったのは出掛けるより一緒にムーシカ奏でてる方が楽しかったってだけだったのか。

「どうします?」

「少し歩かない? せっかくお花見に来たんだしさ」

「いいですね!」

 清美が嬉しそうに賛成した。

 また新しいデュエット創ってるし……。

 花の綺麗さをたたえているから一応桜は見ていたようだ。

 小夜ちゃんの、柊兄と一緒にいられればそれでいいって言うのも本音だったんだな……。

 椿矢がムーシコスはムーシカとパートナー以外はどうでもいいと言っていた。

 特にムーシコスらしさの強い者ほどその傾向が強いとも。

 小夜ちゃんもかなりムーシコスらしさが強いって言ってたっけ……。

 もう余計なお節介やめよ。

「この辺ホントに桜がいっぱいあるんですね」

「あ、緑色の桜って見たことある?」

「そんな桜があるんですか!?」

「うん、あと、ソメイヨシノじゃない白い桜とか八重桜もあるよ。八重桜はまだだろうけど。緑の桜ももしかしたらまだ咲いてないかもしれないけど行ってみる?」

「はい!」

 楸矢と清美はランチボックスを片付けると並んで歩き出した。


 相変わらず仲いいな……。

 椿矢は助手室でドイツの学者が発表した古代ギリシアの政治に関する論文を読みながら小夜の歌声を聴いていた。

 また新しいデュエットを歌っている。

 男声パートは聴こえないから柊矢と歌っているのだろう。

 桜の美しさを讃えつつ、毎年咲く花は同じでも人は変わっていくというが自分達は変わらずにいようという内容の歌詞だった。

 りゅう廷芝きい

年年歳歳ねんねんさいさい花相似はなあいにたり歳歳年年さいさいねんねん人同ひとおなじからず

 という漢詩を下敷きにしているようだ。

 ムーシコスのカップルは基本的にムーソポイオスとキタリステースと言う組み合わせのためかデュエットのムーシカは多くない。

 キタリステースでも音痴はいないし演奏しながら歌うこともよくあるのだが、それでもカップルでムーシカを奏でていてもデュエットのムーシカは創らないのだ。

 キタリステースは基本的に演奏を好むからだろう。

 よくデュエットを創っているのは柊矢と小夜が二人で一緒に歌うのが好きだからかもしれない。

 以前、楸矢にムーシコスが愛を確かめ合う行為はムーシカを奏でることだと言ったが、キタリステースとはいえデュエットを一緒に作って二人で歌うのは究極の求愛行為だろう。

 そういえば、楸矢君、柊矢君は音楽第一だって言ってたっけ。

 楸矢は演奏のことを指して〝音楽〟と言ったのだろうが、柊矢は演奏も歌うのも全部ひっくるめて〝音楽〟として好きなのかもしれない。

 そして、おそらくムーシカも地球の音楽もどちらも好きだから小夜のためなら地球の音楽でも喜んで演奏するのだ。

 楸矢が推測していたようにこれまでもヴァイオリンを弾いていたことがあったのか、それとも小夜のために最近また弾くようになったのかは分からないが、前から弾いていたのに一緒に暮らしてる楸矢が気付かなかったのなら頻度はかなり少なかったということだから、地球の音楽も好きだがムーシカの方がより好みなのだろう。

 楸矢には悪いが柊矢がムーソポイオスではないのが残念だ。

 柊矢と小夜のデュエットを聴こうと思ったら肉声が届く所に行く必要がある。

 二人のデュエットを是非聴いてみたい。

 ムーシコスに音痴はいないが抜群の音楽の才能があって、しかも授業で声楽を習っていたのなら、かなり上手いはずだ。

 このままいけば柊矢君と小夜ちゃんが現代日本語のデュエットを相当増やしてくれそうだな……。

 確か今日は楸矢が、柊矢と小夜のデートのお膳立てをすると言っていたがキタラを弾いているということは家にいるのだろうから上手くいかなかったようだ。

 歌詞が花の美しさを褒めているものだからデートの行き先は花見だったのだろうか。

 楸矢が頭を抱えているところを想像すると思わず微笑みがこぼれた。

 二人してデュエット量産とか勘弁かんべんして、と言う楸矢のなげきが聞こえてきそうだ。

 だが、それも二人が寿命を全う出来たらの話である。

 椿矢は真顔になった。

 地球の呪詛は返されると呪者じゅしゃが命を落とすことがあるらしいが、呪詛のムーシカでそういう話は聞いたことがない。

 この前のムーシケーのムーシカはどうなのだろうか。

 もし呪者が無事だとしたらまた小夜を狙うはずだ。

 椿矢は今まで何人ものムーシコスが失ったパートナーの後を追うように亡くなったのを見てきた。

 柊矢ほどではないムーシコスですらパートナーの死に引きずられて命を落としたのだ。

 小夜に、もしものことがあれば柊矢は間違いなくいていってしまうだろう。

 劉廷芝の漢詩のこの部分は年老いた人が先にってしまった恋人を思っているものだが、柊矢と小夜は片方が亡くなればもう一方も一緒に逝ってしまうだろうから詩のような状況にはなり得ない。

 天寿を全うしたならともかく、あの若さで柊矢と小夜を同時に失ったら楸矢の心にどれだけ深い爪痕つめあとを残すことになるか……。

 楸矢にはあの二人しかいないのだ。二人がいなくなったら独りぼっちになってしまう。

 なまじ地球人に近いだけに身内を失ったときの喪失感は大きいだろう。

 いくら親戚で、最近親しくしているとはいっても椿矢では二人の代わりにはなれない。

 パートナーの死に引きずられるのは分かっているから誰かが亡くなると残った者達はいつも総出でもう片方を引き止めようとしてきた。

 ムーシコスらしさの薄いものは止められた。

 だが柊矢を引き止めるのはまず無理だ。

 止められるのは失ったパートナーと同じくらい大切に思われている人間だけだが、唯一の肉親である楸矢ですらイスかテーブルと同程度にしか考えてない柊矢に小夜に匹敵するほど大切な相手などいない。

 椿矢は論文を置くと鞄の中からパソコンを取りだした。

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