幕間 好奇心に負けた猫

 浦町高校の一角にあるPCルーム。

 その隣に『情報処理部』という札の掛かった小さな部屋がある。

 資料棚とPCが一台しかないこじんまりとした部屋だ。

 SND蔓延以降、PCルームですら感染の危険を考えて閉鎖されている中、PCで情報を集めるような部活が活動を続けていられるわけもない。

 当然『情報処理部』は廃部となっている。

 しかし、その部屋を使う生徒がたった一人だけ存在した。

 浦町高校三年生の百瀬音子(ももせねこ)。

 高校三年生ながら中学二年生くらいに見える小柄な体型に、ぶかぶかな白衣を着た音子は、背伸びをしながらホワイトボードに一心不乱に文字を書き込んでいる。

 キュッ、キュッ、キュッ……

 室内には彼女がマーカーを走らせる音だけが聞こえてきた。

「今日も精が出るね。子猫ちゃん」

 キュッ……

 不意に声を掛けられ、音子は手を止めた。

「タマちゃん?」

 半開きの扉から音子のことを見ていたのは、タマちゃんこと、この高校の生徒会長である岩崎珠恵だった。

 美人で男前な性格の珠恵と、音子とは幼馴染みの関係だ。

 廃部になっている情報処理部の部室を音子が使えているのは、珠恵のおかげだった。。

 珠恵は「失礼するよ」と言って、ズカズカと室内に入っていった。

「今日もまたSNDの研究かい?」

 ホワイトボードの文字を見ながら珠恵が尋ねると、音子は頷いた。

 人が人とコミュニケーションをとらなくなる謎の病【SND】(通称ソシャネ病)。

 音子はこの部屋で、一人その病について調べていたのだ。

「……知りたいから。この病について」

 そう言いながら音子はボードの中央に一本の線を引いた。

「SNDが爆発的に広がった日を境に世界は一変した」

「そりゃあ、SND感染者で溢れかえったわけだしねぇ」

 珠恵が肩をすくめながら言うと、音子は首を横に振った。

「それだけじゃない。いろいろな変化が起こっている」

「ふむ」

「たとえば、感染拡大後に売れなくなったものがある」

「う~ん……携帯端末の会社やSNSなどのアプリを作っていた会社が業績が悪化し、潰れるところもあったよね。感染の原因だとされているわけだし」

「それもそう。だけど感染拡大後、意外な物の需要が減っているの」

「意外な物?」

「監視カメラなどの防犯用の商品」

 音子は防犯用商品の売り上げ推移をグラフ化し、プリントアウトしたものを珠恵に差し出した。珠恵が目を通すと、たしかにSND流行後に売り上げが激減している。

「ふむ……感染拡大後に、犯罪率が低下しているという話は聞いているが」

「そう。そこが気になっている。先進国では国民の半数が感染者になった現在、犯罪の発生件数が激減している。なぜ人とコミュニケーションをとらなくなる人が増えると、犯罪発生件数が減るの?」

「犯人になるような人物も感染者になってるからとか?」

「それなら、多くても半減くらいになるはず。だけど数字的には通年の平均的な件数の一割程度にまで激減している。人とコミュニケーションがとれないということは、感染者は誰かに助けを求めることできないということ。ソレを狙う犯罪者が出てもおかしくないのにこの数字はおかしい」

「たしかに……善人ばかりの世の中ではないからね」

 珠恵も言われてみて初めて、この状況に違和感を憶えたのだった。

「各国政府が患者を守るために治安を強化しているとか?」

「それにも限界があるだろうし……それに気になるデータがある」

「ほう?」

「【犯罪検挙率がほとんど下がっていない】の。犯罪発生件数が激減してるのに」

「ん? どういうことだい?」

「単純に言えば【犯罪者はいる】。だけど多くが【犯罪を起こす前に捕まっている】」

 珠恵は目を丸くしていた。

 犯罪者を、犯罪を犯す前に捕まえている?

「この国の警察はいつからそんなに優秀になったんだい?」

「……そんなわけない、ってことわかってて言ってるよね?」

「ああ。そうでないとするなら、強固な監視社会を築いてるってこと? 常時、人々を見張っていて、罪を犯そうとした瞬間に捕まえる……みたいな?」

 珠恵は自分で言いながらまさかと思った。

 たとえば映画などでは、AIによって全人類が管理されていて、社会にとって不都合な考えを持った人物が現れれば秘密裏に処理するといった世界が描かれることもある。

 この世界は、いつの間にかそんな世界になったというのだろうか。

「……まるでディストピアだね」

「だけど、そう考えないと納得できない事象」

 音子は真面目な顔で、ボードの『SND』というワードを丸で囲った。

「他人とコミニュケーションをとらなくなる病の流行。一方で、常時監視社会でしかおこらないような事象も起こっている。他者を拒絶する病。相互監視の社会。一見すると矛盾する状況。だけど……私たちはどこかで前提を間違えているのかもしれない」

「前提?」

「SNDという病は、他者とコミニュケーションをとらなくなる病というだけではない、べつの側面を持っているのかもしれない」

 音子の言葉に珠恵は背筋がゾクッとなった。

 ただでさえ原因不明の病という不安の種なのに、それがさらに正体不明になるというのは恐怖の累積に他ならなかった。

「ふむ……おもしろい考察だね」

 しかし生徒会長であり、普段から人に信頼されるよう振る舞っている珠恵は、それを面には出すまいと軽い口調で言った。

「突き詰めれば学会で発表できるような研究になるんじゃないかな? いやまあ、SNDに学会があるかなんてしらないけどね」

「学会になんて興味ない。私は、知りたいだけだから」

 そう言って音子はホワイトボードに文字を書き込む作業に戻った。

 この幼馴染みが、その小っこい身体とどこか冷めた目とは裏腹に、一度こうと決めたら引かない熱情と頑固さを持っていることを知っている珠恵は「やれやれ」と肩をすくめながら、彼女の邪魔をしないようそっと部屋を出たのだった。

 彼女にはやりたいようにやらせてあげたい。

 こんな世界でも己を貫く音子の姿に、珠恵は憧れを持っていたのだ。


 ◇ ◇ ◇


 それがいけなかったのかもしれない。

 音子の好奇心の赴くままにさせていた結果、珠恵は見落としていたのだ。

【音子が生き残っているSNSサイトを使って、書き込みを続けていたことに】

 SND患者について知りたかった百瀬音子。

 その好奇心が行き着いたのは、自身も患者になってみるということだった。

 気付いたときには、音子はもう珠恵の声に耳を傾けることはなくなっていた。

 ホワイトボードに新たな書き込みもない。

 きっと患者となったことですべてを理解し、彼女の研究は終わったのだろう。

 しかし彼女がその内容を世界に発表することはない。

 珠恵はひどく後悔した。

 もっとちゃんと彼女を見ていれば、と。

 しかし、後悔してももう遅い。

 自分の声はもう、音子には届かなくなっていた。

 誰か……誰かいなのか。

 この際、自分の声じゃなくてもいい。

 誰でもいいから、音子に声を届けられる人は居ないのか。

 そんなとき、珠恵は彼女を見出したのだ。


 ―――誰かに声を届けたくて、だけどその手段を失い藻掻いている少女に。

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