3

 鋭く風を斬る音に呼応して、散発的に叫び声が上がる。


 広場の疲弊は限度に達していた。人々は叫び疲れ、逃げ疲れ、怯え疲れていた。身を縮こまらせて花壇の陰や茂みの裏に坐り込み、いつ襲い来るともしれない狙撃の音に戦々恐々としながら、恐れることさえ疲れて辞めてし まっていた。広場には不気味な静寂が宿り、時々それを遠くから聞こえる叫び声が乱す。それは彼らの脳には遠い別世界の声に聞こえたが、肌に纏わりつく生温い殺意が、自らが当事者であると言うことを決して忘れさせなかった。


 やがて人々は、動かなければ撃たれないということに気付いたか、一度定めた場所から動かなくなる。叫び声は段々と減り、代わりに呼吸を刺すほどに張り詰めた緊張が空間を支配した。それは、阿鼻叫喚に揉まれながら逃げるのとはまた違った、見えない敵を恐れながら隠れ続ける恐怖だった。


 膠着が幾ら続いたか、恐らく正確に把握した人間はいない。刹那とも無限とも感じる時が過ぎて、一人が緊張に殺された。


 その男は、ほんの少し肥満気味の、それ以外に特徴を掴めない中年だった。張り詰めた緊張は鋭利な刃物のように、彼の精神を削り、理性を擦り減らした。結果、彼は茂みに潜み続けることに耐えられず、そこを飛び出した。


 走り出しは順調だった。恐怖に駆られている割には脚は素直に動き、速度は中年男性のそれだとはいえ、素早く走ることが出来た。彼は視界に入った、最も近い出口に猛進する。恐怖が絶頂に至ったが故に彼の感情は理性と共に麻痺し、鈍い頭でただ、自分が出口を通り抜けてこの地獄から遁走する姿を思い描いていた。感情に囚われず、為すべき目標に向けて一目散に駆ける彼の姿は、奇しくも理性ある者のそれと酷似していた。


 そしてその虚構の理性は、一発の銃弾の前に儚く砕け堕ちる。


 弾丸は彼の身体を穿つことはなかったが、彼の足元の先の石畳を砕き、そこが小さく灰色に噴火する。彼の意思はたたらを踏み、彼の両脚は動きを止められずに絡まり、彼は顔から石畳に突っ込んだ。鼻頭に鈍い痛みが走り、神経網の海に底に沈み込んでいた彼の思考が、現実に引き摺り出される。


 そこでようやく、彼は自らを貫いて逃さない、冷え込んだ殺意を感じた。それは何処からともなく彼に突き付けられた槍であり、その冷たい穂先が首筋に掠めるほどで触れているのだった。感情の限界を越える恐怖が彼に覆い被さり、麻痺していた感情が死の恐怖一色で塗り潰される。彼の眼が絶望に染まった。彼は一生涯で最も大きな声で甲走り、大広場の中央での絶叫は、大広場にいる人間全ての理性を破壊した。


 彼の叫びを聞いた人々は、次は自分だと言う強迫観念に囚われ、恐怖に駆られて隠れ場所から飛び出す。それはまさしく恐怖の伝播だった。大広場は再び混沌と狂気に満たされ、喧騒が世界の全てを押し流す。


 そしてその元凶の頭が赤く爆ぜ、記録不全のレコードのように、がくりと崩れ落ちて沈黙した。

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