12. 困った男たち

 大学三年生の六月の事だった。梅雨の晴れ間を狙って山里を訪れた。


 いつものようにアトランティスに寄った翌日、湯小屋に現れた秋子に俊彦は僅かな違和感を覚えた。健康そのものといった以前の印象とはどこかが違っている、歩くと太腿に浮いた筋が無くなっていて、体全体に丸さが目立つ気がする。


「あっちゃん、最近部活はどう?」


 俊彦がそう訊くと、秋子は少し迷うような素振りを見せてから言った。


「三月で辞めたんです」


 やっぱり――。その頃から彼女は部活の話をしなくなっていた。


「何で?」


「高校の顧問の先生が“熱血”っていうんですか? 大会で勝つことだけ考えてるような人で。私、そういうの苦手なんですよ。それでつまらなくなっちゃって……。三年の大会には出ないって決めてたから、もういいかなって」


 その話を俊彦は素直に受け取れなかった。本当はいつ来るかわからない自分のために時間を空けたのではないか? 考え込む俊彦を無視するように秋子は言葉を継いだ。


「次ってきっと夏休みですよね? その時は、ここじゃなくてまたトシさんのテントに行きませんか?」


「ん? 別にいいけど……なんで?」


「夏休み中だと湯小屋は近所の子が来るかもしれないし、バイクや自転車の人たちもいるし」


 確かにあの三人組の女の子と会ったのも夏休み中のことだった。だが秋子がツーリングライダーを気にしたのは意外だった、俊彦もはじめはその一人だったのだから。


 浴槽のふちに座った秋子は、脚をぶらぶらさせてお湯をかき回しはじめた。もしかして他の男には自分の裸を見せたくないと思ってくれたのだろうか? だとしたら嬉しい。だがそれを言ったらたぶん秋子は意地を張って否定するだろう。俊彦は頬を緩めながら秋子に合わせて湯を蹴った。


 その年は梅雨が長く、七月は一度も秋子に会えなかった。盆を横浜の実家で過ごした俊彦は、そこからまっすぐ山里を目指した。


 いつも通りランチタイムのアトランティスに寄ると、駐車場に入る前から給仕をする秋子の姿が見えた。白い半袖のブラウスから伸びた瑞々しい肌は、どんな男の目も惹くだろう。


 もしかしたら学校にかっこいい男子がいて、かっこいい先生がいて……、店にかっこいい男が現れて、その誰かが秋子を見初めて……。妄想が次々に浮かんで動悸が速くなる、何を馬鹿なと振り払いながら店の戸を開けた。


 おばさんに挨拶して席に着くと、紙ナプキンに手早く字を書き込んで、顔いっぱいの笑みで注文を訊きに来た秋子に握らせた。


 ラーメンが運ばれてくると、どんぶりの下に小さく折られた紙切れが挟まれていた。開くと真ん中に大きく「OK」と書いてあって、すぐ下にわざわざピンクの蛍光マーカーで二重のハートマークが書いてあった。


 ランチタイムが終わった頃に裏のカーブで待ち合わせた。


「あっちゃんが空いててよかった、明日になるかなって思ってたんだ」俊彦がそう言うと、秋子は「お盆が明けたから、いつ来てもいいように準備してたんです。抜かりないです」そう言って親指を立てた。


 まっすぐな脚に貼り付くようなスリムなブルージーンズ、上には白いTシャツを着て、その上にデニムの長袖を羽織った姿は、秋子なりに考えた「これといって特徴の無い服装」らしかった。


 確かに特徴は無いが、それがかえって洗練された都会人のような雰囲気を感じさせる。悪目立ちしないかと心配したが「これでヘルメットをかぶれば、絶対にバレませんよ」と秋子は大げさなぐらい自信ありげに言い切った。心配性ぎみの俊彦の性格を気にしたのかもしれない。


 秋子をタンデムシートに乗せて走りはじめると、すぐに後ろから「くっさーい!」という大きな声が聞こえた。


 たぶん父親のヘルメットの事だろう、夏場だから仕方ないが、自分もいずれ誰かにこう言われる日が来るのかもしれないという気がして、秋子の父親に同情せずにはいられなかった。


 林道に入るとすぐに緑と紫の派手な柄が入ったオフロードバイクとすれ違った。すれ違いざまにピースサインを交換するのはツーリングライダーの習わしで、カーブの最中でもなければ林道でも変わらない。


 二台の四輪駆動車とすれ違い、さらに五、六台目のバイクとすれ違った時、秋子が後ろでピースサインを出したのがわかった。タンデムに慣れない秋子が、ぱっと片手を離して急いで戻すのがおかしくて、ヘルメットの中で笑った。


 自分がつかまっている腹が小刻みに揺れているのに気づいたのか、秋子は俊彦の腹の肉を掴んで容赦なくつねった。


 ツーリングをする車がこれだけいるのなら、何人かはあの湯小屋に立ち寄るかもしれない。秋子を小屋に連れて行かなくて良かった、自分もそこで出会って心を奪われたのに、今は他の誰にも秋子の肌を見せたくない――。腹の痛みに叫び声を上げながら俊彦は幸せな気分に浸っていた。


 この林道の途中にはいくつか道がある、山側に登る支線もあるがそうしたものは大抵は林業用か建設中で、ほとんどが行き止まりだ。逆に谷側に降りる道は大抵河原まで続いていて、中には広くて平らな河原に出られるものもあった。


 それが里から近い場所なら地元の子供たちの遊び場や、大人たちの宴会場所になり、少し遠い場所なら余所の町から来た家族連れやツーリングライダーの良いテント場になった。


 だが俊彦のように無頼を気取るひねくれたライダーは、そうした人気の場所から離れた静かな河原を好んだ。


 河原にひしめく様々な色のテントを横目で見ながら、二人のバイクはその先の小さな河原まで走った。去りゆく夏を楽しみに来たのだろう、大きな河原から人が溢れてきそうで、二人は先に張っておいたテントを近くの支流まで移動する事にした。


 ドーム型のテントは固定を外せば簡単に持ちあがる、そのまま新しい場所に持って行けば簡単に張りなおせる。


 小学校のサッカークラブで初めてキャンプに行った時は、テントの周りに雨を逃がす溝を掘るのが基本だと教えられた。その頃のテントは三角形で紐で引っ張らないとちゃんと立たなかった。それがたった十年で嘘のように変わるものだ、最近は雨よけの溝なんか掘ったら自然破壊だと怒られる。


 最後の荷物を取りに行って戻ると、テントの入り口からジーンズのお尻が突き出ていた。俊彦が気になる場所をぐっと掴んでみても、秋子はそのまましたいようにさせていた。


 男なら面倒なものがあるはずの場所に何も無い事が俊彦にはとても不思議に思えた。その感触を十分に味わってから秋子をテントに押し込んだ。俊彦が入ってくると顔を赤くした秋子が言った。


「なんか前より広く感じますね」


「ああ、あの時は冬だったから荷物が多かったんだよ。でもこれ登山用だからキャンプ用よりも狭いんだ、一応二人用って事になってるけど、荷物を入れたら一人寝るのがやっと」


 横になった俊彦の懐に秋子が背中を潜り込ませてきた。秋子からは都会の女が漂わせる制汗剤の甘い香りがしない、その代わり髪からはいつも同じシャンプーの香りがする。


 周りの女の子が甘い香りをさせている事に気付いたのは高校に入ってすぐの頃だった。それからしばらくの間は、女の子は年頃になると体から甘い香りがするようになるのだと俊彦は本気で思い込んでいた。後で真実を知ったときは、自分だけが取り残されたような寂しい気持ちになった。


 秋子の肩を抱くと、僅かな土の香りがした。その肩を抱きながら、あの甘い香りがしなくて良かったと心から思った。もししていたら、今頃俊彦は獣に支配されていたかもしれない。ふいに秋子が振り向いた。


「東京の中学校ってシャワーはあるんですか?」


 横浜育ちだと何度も言っているのに、秋子はなかなか憶えてくれない。彼女にとっては横浜も東京も遠くの都会の一つでしかないらしい、鳥取と島根の区別がつく東京人は少ないが、それと似た感覚なのだろうか。


「だぁから僕んちは横浜だってば、でも生徒が使えるシャワーはなかったよ」


「へー、都会の学校にはあるんだと思ってました。こっちの中学のテニスコートってただの土なんですよ、夏休みの練習とかはすごく汚れちゃうんで、終わったらみんなで湯小屋で流して帰ったり」


「さすが温泉場。ん? でもそれって……男子は?」


「アハハ、それ気になりますぅ? んふ、今は男子は別の小屋に行くん事になってるんですよ。山の方に少し行くとあるじゃないですか、『橋の湯』って」


「何それ、もったいない!」


「アッハハハ、おっかしい。本気で言ってます? トシさん」


「まあ、男子目線で考えればそうじゃない? でもさ、あっちゃんだって近所の人となら平気なわけじゃない? それが部活の男子だと何でダメなの? 同じ年頃だから?」


「うーん……同じ地区の男子は子供の頃から見慣れてるから。それに他所の男子ってなんかこう、生々しいっていうか……目つきが、なんか違うんですよ」


「旅行の人は気にならないのに?」


「ジロジロ見られなければ……」


「やっぱあるんじゃん! そういうこと」


「いえいえ、他所の人とはたまにしか一緒にならなかったし。それに私が湯小屋によく行ってたのって中二ぐらいまでですよ」


「恥ずかしくなった?」


「そうじゃないんですけど……」


 そこまで言って秋子は急に俊彦の方に向き直った。整った顔立ちが目の前にある、息がかかりそうな距離だ。秋子は言った。


「うちの小屋に他所の男子が来るようになっちゃって」


「あっ、もしかしてあっちゃん目当て?」


「いえいえ、ないですよそんなの。中二の頃ですからね、後ろなんてツルツルテンに刈り上げてましたもん、撫でるとお父さんのヒゲみたいな、やな感じの」


 うなじの辺りをさすりながら秋子は笑う。だがはたしてそうだろうか、いくら髪を刈り上げていても、こんな美少女を誰も好きにならないわけがない。自分がもしその男だったとしたら……俊彦はそう考えてみたが、その年頃の時の自分が何か行動に出られたかと言えば、まず無理だったろう。


「この辺でも湯小屋に抵抗がある人っているの?」俊彦は訊いた。


「いますいます、大人でも絶対に来ない人っていますよ、他所からお嫁に来た人とか……。そう言えば、そういう人の子供もあんまり来ないかな。やっぱり、この先の子は湯小屋に来なくなっちゃうのかな……」


 秋子はそう言って少し寂しそうな目をした。かつてのおおらかな時代を知る老人たちはいずれいなくなる、古い時代の名残を留めるこの湯の里も、いつまでもこのままではいられないのかもしれない。


「じゃあ、あっちゃんって、最近は僕以外の男と風呂に入った事は無い?」


「そうですよぉ! あの日会ったのだって偶然ですもん。トシさんは例外ですよ、れーがい!」


「でも部活の後には来てたんだよね?」


「練習で特別汚れたときだけですよ、それに長居は出来なかったし」


 俊彦が困惑した顔を見せたからだろう、秋子は少し困ったような顔をして言った。


「子供が電話するんですよ」


「誰に?」


「タクゾーに」


「タクゾー?」


「そう、男子が橋の湯に行くと、小学生がタクゾーに電話するんです」


 さっぱり話がわからない。ぼけっとしている俊彦の顔を見て、秋子は少し苛ついたように唇を尖らせた。


「男子部員がそっちに来たってことは、いつもの湯小屋には女子がいるって事じゃないですか」


「あーあーあー!」話が読めた。


 秋子が言うには、村の中でも湯小屋がない地区に住むタクゾーという独身男が、橋の湯が見える家に住んでいる親戚の小学生に小遣いを渡して、小屋の見張りをさせているのだそうだ。


 橋の湯に男子テニス部員が来ると小学生はタクゾーに電話する、するとタクゾーは車を目一杯飛ばして女子がいる小屋の方にやってくる……という具合だ。どこにでも迷惑な奴はいるものだ、俊彦は吹き出してしまった。


 秋子の話では、彼女たちぐらい混浴に慣れていても、誰とでも一緒に風呂に入れるわけではないらしい。聞く限りどうも一番大事なのは目つきらしく、相手が同性のように気にしない男なら気にならないが、妙に気にしたりジロジロと見てくるようではダメだ。


 街中で知らない人から顔をジロジロと見続けられたら、大抵の人は不愉快に感じるだろう。彼女たちも風呂でただ裸でいる分には気にしなくても、何か思惑がありそうな目でしつこく体を見られるのは気味が悪いらしい。


 同じ部活の男子はだめなのに同じ地区の男子なら気にならないと言うのも、幼い頃から同じ湯小屋で互いに見慣れている男子なら、今更そういう目はしないからという事のようだ。


 タクゾーという男はその点で彼女たちから完全に失格の烙印を押されてしまったようだ。だから彼女たち女子テニス部員はタクゾーが来る前に出てしまおうと、湯小屋に長居ができなくなってしまった。


 ただタクゾーの問題はそれだけでは済まないのだと言う、タクゾーは橋の湯に観光の女性客が来たときも知らせるように小学生に頼んでいる。


 観光客の評判を気にした村の男衆がタクゾーに「早く嫁をもらえ」と何度か世話を焼いたそうだが、悪評が広まっているタクゾーの嫁になろうという女は村にはいない。最近は男衆も打つ手が無くなって半ば諦めかけているらしい。


「まったくいい迷惑ですよ!」


 秋子はまだ口を尖らせている。そして急に思い出したように言った。


「そうそう、それでですよ! あの日は家の用事で早く帰れるから、独り占めできるぅって思って久しぶりに湯小屋に行ったんです。そしたら急に誰かが入って来て『まさか、タクゾーか!』と思って首を引っ込めたら……ちょっとかっこいいお兄さんで」


「ん? ああ、あの日のこと? か、かっこいい?」


 俊彦が恐る恐る自分の鼻先を指さす、秋子は笑いながら続ける。


「だから男の子に間違えられたとき、本当はすごくショックでした。すっごく!」


 みっともなく頬を緩めている俊彦に、秋子は悪戯っぽい目つきをしてみせた。そして緩んだ頬を戻せなくなっている俊彦に、人差し指と親指で一円玉を摘まむような仕草をしながら「かっこいいって言ってもちょっとだけです、ちょっとだけ」と言った。それでも頬が戻らない俊彦が言った。


「最初に行った小屋は人が多くて落ち着けなかったんだ。それで静かな小屋を探してたら『川端の湯』が一番それらしかったから。あの日は小屋を移って四、五回目だったかな。それまでは誰にも会わなかったからあの時はすごく驚いた。何か黒い固まりが浮いてるのは分かったけど、始めは人間だと思わなくて。あれじゃあ海坊主だよ」


「ひどーい、乙女にそんな事言いますかぁ? でもトシさん悲鳴あげてたもんね、私聞いちゃったもん!」


「あ、それは忘れて、お願い」


 拝むような仕草をしながら言う俊彦を見て、秋子は嬉しそうに言う。


「じゃああの日会えたのは、偶然だったんですね」


「そう、まったくの偶然。でも男子だと思ってた子に、これがあった時はびっくりしたなぁ」


 秋子の肉まんに左手を伸ばす。


「実は最初、これを膝小僧だと思ってたんだ。触ってみればこんなに柔らかいのに」


 秋子が小声で言う。


「ここにもエッチなお兄さんが……」


「タクゾーと一緒にしないでくれる?」


 俊彦がそう言っても、秋子は黙って肩を竦めて見せるだけだった。片手から零れ落ちそうな肉まんには、一カ所だけ指先がかかるところがあって、試しに摘まんでみたら秋子の背中が小さく震えた。


「あっちゃん、あっちゃんがテントに来たいって言ってくれて、すごく嬉しかった。小屋だと他の男が来るかもしれないし」


 柔らかい肉まんを通して、やたらと速い鼓動が伝わってくる。


「私もう高校生ですよ、そんな誰にでも見せたりはしませんよ」


 中学生から高校生になると、女の子の中では何がそんなに変わるのだろうか? 新しい友達が出来て世界が少し自由になる、俊彦にはその程度の覚えしか無い。


「でも僕には、見せてくれるんだ」


「まあそれは……成り行きと言うか」


 俊彦が肉まんに置いていた手をゆっくりと下にずらすと、秋子はまた小さく呟いた。


「ほんと、エッチなお兄さん……」


 秋子のジーンズの上からその部分に手を当てた。手をジーンズの中に入れようか迷ったが、それをしたらたぶん獣を止められない。憂さ晴らしに俊彦は目の前にある秋子の首筋にキスをした。


「ひゃっ!」


 秋子がおかしな声をあげた。俊彦は何度もそこにキスを繰り返した。


「ひゃっ!」「あっ!」「ひあっ!」


 伏せられた秋子の顔を覗き込むと、潤んだ瞳が見返してきた。桜色の唇に吸い付きたい衝動を必死に堪えた。


「あっちゃん。河原を歩いてみない?」


「え? あ、うん!」

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