一寸先は闇

 ぬるり、と周囲の闇が濃くなった。


「長居は無用だわ!」

 タエは一級霊符五枚を扇のように素早く広げた。

「おん! はんたま しんたまに じんばら……」

 だが、術は完成しなかった。

「キャッ」

 彼女が退路を確保しようと闇に向かって振り立てた強力な霊符は、青い炎を上げて次々と燃え落ちたからだ。

「嘘……! 十六衆法三重施術のお札が!」

 そうしてる間にも、周囲の闇は更に濃度を──粘度を増して今や分厚い毛布か何かのように辺りを押し包む。息が苦しい。寒気がするのに全身の毛穴は汗を吹き出した。タエは食虫植物の袋に落ち込んだ羽虫の気持ちを理解した。

 最早、彼女の知るどんな法術も役に立たないことは明らかだった。

 だ。


 じりりりりん、


 遠くで、電話のベルが聞こえた。

 古いアナログの、昔の映画に出てくるような電話のベルだ。


 じりりりりん、じりりりりん、


 不吉な鳴り方だった。誰かの訃報を伝える報せのような。


 じりりりりん、じりりりりん、


 色々な方向から。だが、鳴る度ごとに近づいている。

 

「ありったけのお札で相補結界を張れ」

 忠孝が言った。

「等級違いのバラバラの札で相補結界⁉︎ そんなのやったことない‼︎」

「なら僕たちは死ぬだけだ。依頼人から頼まれた、この子も巻き添えに」

「…………もうっ」


 タエはポーチから霊符の束を出すと、ざあっ、とそれを地面に広げて円を作った。


 じりりりりん、じりりりりん、


「相手は祖霊。それもとんでもない凝集密度だわ。何秒も持たないと思うけど?」

「8秒だ」

「は?」

「きっかり8秒もたせたまえ。そしたら僕が状況を打開する」

 忠孝は屈み込んで、何かの術の為の精神集中に入ろうとしているようだった。 


 じりりりりん、じりりりりん、


「嘘だったら祟るからね」

「その時は三人とも祖霊の一部だぞ」

「自分を攻撃する免疫だってあるでしょ」

「違いない」

「行くわよ」

「いつでもどうぞ」


 じりりり──


「なむたら たらやや なほありや!」

「マハーバイローチャナ・タターガタ」


 二人は同時に詠唱を始めた。

 タエは次々と印を切っては真言を重ねて織る。


「ばろきてい! しばらや! ぼだいさったや! まかさったや!」

「エクドゥイ、ティンツァール、リトゥ、サマヤ、フール、ブカール……」

「まかきゃろにきゃや! たちた! おん! はさらべい! らちしんたまに! まかはとめい!」

「サティ、シュリー、アカーラ。アプカ、ナム、ギア・ハェ……」


(さっきの詠唱……これは……ヒンディー語?)

 と、一瞬意識が逸れただけで円を成す霊符の外縁がチリチリと焦げ始める。


 じりりりりん、じりりりりん、じりり……みィつけた


 はすぐ近くに聴こえた。

 タエの肌が一斉に泡立った。

 円の形に並んだ札が、円の形の火を吹いた。


「ドゥァト! グゥ・マイーン!!!」


 忠孝が宣言した。

 その術は完成した。


 ぐるんっっっ!!!


 足元を掬われてタエは転倒した。

 辺りに眩しい光が満ちる。

 それは正に太陽の、日光の照射だった。

 そう。辺り一面。白く輝く光の法が支配した。


 ジュッ……


 すぐそばまで来ていて「何か」は水に浸した花火のような小さな音を立てて消えた。湿った布のような闇と共に。


 辺りは燦々と照る日差しの中の真昼の学校。

 タエは思わずスマホの時刻表示を確認した。

 19:24

 夜の七時半だ。再び暗くなる気配はない。


「あなた……何をしたの?」

「見たら分かるだろう」


 忠孝は立ち上がりながらスーツの襟をピッと引っ張った。


「地球を、回した」

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