三、志月の豹変のこと

 百が将領まで戻ってきたときには、辺りはすっかり暗くなっていた。蘇芳の方はどうなっただろうかと、役宅のある保利町へ急ぎ足で向かっていたときだった。

 途中の四ツ辻までさしかかったとき、ざわりと背筋が凍った。

 何かが来る。

 反射的に振り返り、背に負った太刀を引き抜きざま、顔の前で構える。

 刃と爪のぶつかる音が響いた。転瞬、互いに飛び離れて睨み合う。

 確かに対峙しているのは志月だった。しかし、話を聞いていた百でさえ、これが志月だとは信じられなかった。

 乱れた白髪、まなじりが裂けんばかりに見開かれ、血走った瞳。百の知る、温厚な男の顔はそこにはなかった。

 首元へ伸ばされた腕を、刃を返して跳ね上げる。

 退しさった志月が地を蹴り、百の頭上へ飛び上がる。百もすっと後へ下がり、落ちてくる志月の右足首へ、気合声とともに手刀を打ち込んだ。

 骨の折れる感触。

 地へ降りた志月が体勢を崩す。骨が折れた上での着地である。相当な痛みがあったはずだが、それに構わず志月が腕を振り上げる。とっさに身を引いたので傷こそ負わなかったが、着ていた単衣と帯が大きく切り裂かれた。

 帯が地に落ち、着物の裂け目から素肌が覗く。

 あ、と志月が半ば呻くような声を零す。おもてに浮いていた狂気が薄れ、血走った眼には明らかな戸惑いがあらわれていた。

「志月!」

 百の一喝に、志月はぎくりと表情を凍りつかせ、それから何かを振り切るように頭を振った。一瞬の戸惑いは消え、彼の眼には再び、獣じみた狂気がぎらぎらと光っていた。

「からとり」

 子供の声。志月の向こうに、振り分け髪の童子――夜鳥が立っている。

 志月が言葉にならない声を発し、だめ、と夜鳥がそれに答える。

「からとり、それはだめ」

 志月が苦々しげに顔をしかめ、猿のように手足を使って近くの塀へ、そこから屋根へと飛び移る。

「志月!」

 百の再度の呼びかけに志月は振り返ることなく、右足を引きずりながらも、手足を使って、獣が駆けるように屋根の上を走っていく。

 流石にそれを追うことは出来ず、百はきり、と歯を噛んだ。

「はく」

 童子に呼ばれ、我に返る。じっと童子が百を見上げる。

「はく、しづきをたすけて。あのままだと、からとり、しづきをこわしちゃう」

「やれるだけは、やるよ」

 うん、と頷いた夜鳥が、軽々と飛び上がって志月の後を追っていくのと、騒ぎに気付いたらしい胡堂が息せき切って駆けてきたのはほとんど同時だった。

「どうした!」

「志月に会いました。もう、向こうに行ってしまいましたが」

 刀を納め、大きく裂かれた着物を手で押さえる。帯まで断たれてしまっては、身じまいを整えるのは難しい。

「怪我はないか?」

「ございません。……志月のことで御役宅に伺おうと思っていたのですが、着物がこれではちょっと困りますから、明日、改めて伺います」

「では長谷部様に伝えておこう。志月はやはり、憑かれているのか?」

「ええ、志月は乱心者ではありません。彼の行動は空鳥に憑かれたがゆえ、です」

 それでは、と一礼し、百はその場を辞した。

 帰り道、百は月乃から聞いた話を今一度繰り返していた。

 志月が空鳥に憑かれたのは、松江が空鳥の宿っていた鏡を壊してしまったからだという。それも松江は、その鏡が志月にとって大切なものだと、認識したうえで壊したのだ。

 ただ壊すよりもたちが悪い。理由を問い質した志月に松江は、これらは神でもなんでもない、こんなものを祀るなど普通のことではないのに、鏡を処分しろと言っても聞かないからだ、と平然と答えた。

 志月はその現場を目撃し、直後に豹変したという。みるみるうちにその相が変わったかと思うと唸りながら松江に飛びかかって手傷を負わせ、騒ぎに気付いてやってきた奉公人にも――浅手ではあるが――怪我をさせた。

 その鏡は、志月が十四年前、須久奈の村が水害に遭ったとき、逃げてきた志月がこれだけはと抱えてきたものだった。椿屋にとってその鏡は非常に大事なもので、万一のことがあってもこの鏡だけは守れと、志月は幼い頃から、両親に耳にたこができるほど聞かされていたのだという。

 そもそも夜鳥と空鳥は何かと言えば、その昔、須久奈の村を荒らしていた一体の妖であったのだそうだ。猿の頭を持ち、狸の胴から虎の手足が伸び、尾の代わりに蛇が生え、夜な夜なひょうひょうと鳴き騒ぐ、そんな妖であったらしい。それを椿屋の先祖が退治して躯を二つに分け、夜鳥、空鳥と名付けて鏡に封じ、屋敷のうちに祠を建てて祀ったのだ。

 志月の父、普月ふづきは、水害の前、夜鳥と空鳥の宿る鏡を志月に持たせ、津地村に住む弟、普苑ふえんを頼れと、彼を家から出した。そのときの水害で、普月は妻の比沙野もろとも、今に至るまで行方が知れなくなっている。水が来る前に、鏡を志月に託して逃したのは、卓見だったと言えよう。

 普苑も当然この鏡のことは知っており、これは祀るべきものであるからと鏡を神棚に祀らせたのだった。

 四年前、普苑が病を得て世を去るまでは、志月の身には格別のことは起こらなかった。しかし普苑が病没してのち、妻の松江はあからさまに志月を冷遇し始めた。

 元々松江は志月を疎んでおり、きつく当たっていたようなのだが、月乃の話では、それが更にひどくなったという。

 ろくに給金も払わずに朝から晩まで志月を働かせ、何か失敗でもすればきつく叱りつける。普苑亡きあとの西屋は松江が全てを取り仕切っており、奉公人は逆らうことなどできなかった。

 店の主人からしてこうである。そのうちに奉公人も主人にならって志月を軽侮するようになった。古参の使用人は、まだ志月に対して同情的だったが、若い使用人や、雇われてまだ日が浅い奉公人などは、あからさまに志月を馬鹿にするようになった。

 何を言われても、罵られても、志月は全て飲みこんでにこにこと笑っていた。

 どうして馬鹿にされるがままになっているのかと月乃が訊ねると、志月は決まってこう答えたという。

――伯母さんには面倒を見てもらっているんだ。これくらいのことで不平を言っちゃ恩知らずだよ。

 百もそう言う志月の姿を、まざまざと思い浮かべることができた。昔から、志月は争いごとが嫌いなのだ。自分が腹に飲み込んで引くことでその場がおさまるならそうする、志月はそういう性格だったのだ。

 だがその性格は、西屋では侮られる原因にしかならなかった。それでも志月は奉公人から日々向けられる嘲りに耐え、松江の折檻に耐え、どんな理不尽な仕打ちにも耐えていた。

 なぜ松江が志月をそこまで嫌ったのかといえば、志月の椿屋が西屋から見れば本家にあたり、そこからきた志月は、松江にとって店を乗っ取ろうとしている、気に食わない存在であったためである。

 加えてもう一つ、百が驚いたことに、空鳥が誰かに憑いたのは、月乃曰く、前にも一度あったことなのだという。そのときに憑かれたのは、奉公人の絹という女だった。

 始末屋も頼んだのだが、結局絹から空鳥を落とすことはできず、絹を殺すしかなかったらしい。

 だが志月はそのとき、助ける方法はある、と言っていた、と月乃は語った。歌の通りにすれば絹は助かる、と。しかしその訴えは誰にも取り上げられず、それからしばらく、志月は酷く落ち込んでいたようだ。

 どんな歌か、と聞いてみたが、月乃もよく覚えていない、と謝った。

――鬼がどうしたとか四ツ辻がどうしたとか、そんな文句があったとは思うんですけれど。ごめんなさい、私もはっきり思い出せなくて。思い出したらすぐにお知らせしますから。

 夜鳥の鏡は、と訊ねると、それは自分が持っている、と月乃は答えた。

――あのとき、鏡どころじゃなくなったんで、その間にこっそり持ち出したんです。もし必要なんだったらお渡しします。

 とにかく志月を頼む、と、月乃はもう一度頭を下げたのだった。

(歌、歌か……)

 どんな歌だろうか、百に心当たりはない。蘇芳なら知っているだろうか。

(その歌を、どうにか知れるといいのだけれど)

 そうでなければ、志月を斬ることになる。それだけは、どうしても避けたかった。


 翌日、百は保利町の奉行所を訪れた。話はすでに通っていたらしく、奉行、長谷部平内の前へ通される。

 志月の一件について知ったことを語り、その上で、志月は乱心したわけではなく、今の行動は憑き物の仕業であると思われる、と語ると、平内は鋭い目でじっと百を見た。

「それを裏付ける証拠はあるのか?」

「物的なもの、と言うことでしたら、ございません。ですからあくまで推測です、と申し上げました。しかし志月が真に乱心したのでしたら、行き合った方々は怪我では済まぬことと存じます」

 志月は幾度か目撃されているが、怪我はしても死んだ者はいない。怪我にしても、命に関わるような大きな怪我はしていないのだ。

「長谷部様。どうか三日の猶予をいただきたく存じます。三日のうちに、きっと始末をつけてみせます」

 平内が眼を細める。その眼の中には、鋭い光があった。白洲で判決を下すときの厳格な奉行としての平内を前に、百は一歩も引かなかった。

「良かろう。お主に任せよう」

「ありがとうございます」

 百が西澤淵の家に帰ってきたのと、西澤淵に来た蘇芳が帰ろうとしていたのはほとんど同時だった。

 入れ違いにならなかったことにほっとしつつ、蘇芳を家に招じ入れる。

 月乃から聞いた話を蘇芳に伝えると、蘇芳はたちまち顔の色を変えた。

「志月が……ああでも奥様なら確かに……」

「そんなに当たりがきつかった?」

「うん。私がいたときは、そんなにあからさまじゃなかったけど、奥様、志月には冷たかった」

「そうか。歌については、何か知らない?」

 半ば駄目元で聞いたのだが、蘇芳はあっさりとそれに答えた。

「この歌でしょう?

 鬼さん鬼さんどこへ行く

 鬼さんこちら 声聞く方へ


 の子ならば の子を隠せ

 の子ならば の子を隠せ


 あの子が獲られた なんとしょう

 あの子はどこじゃ 四ツ辻じゃ


 葺草餅草 昼に茹で

 弓弦張って 夜を待ち


 弓弦鳴らして 鬼を追い

 祓い湯 鬼に飲まそうぞ


 鬼さん鬼さん帰りゃんせ

 あちらの社に帰りゃんせ」

「どこでそれを!?」

「どこでって……ああ、そっか。姉さん、覚えてないんだっけ。須久奈の村で、鬼遊びのときには皆で歌ってたのよ。そのときは、意味が分かって歌ってたわけじゃないけど。志月が言ってたのもこれだと思う。これは鬼を祓う歌だって、いつだったか言ってたもの」

「鬼を祓う歌、か。確かに葺草は菖蒲、餅草は蓬。どっちも魔除けになるものだし、弓の弦を鳴らす――鳴弦も昔からある祓いの方法だ。よし、もう一度父さんに話をしてみる。どうしたって、今回は人手がいるもの」

 百の瞳に強い光が宿る。

 そのとき、表の戸が叩かれた。

「百、いるか?」

「父さん? いるけど、どうかした?」

「今、いいか」

 ゆっくりと入ってきた春臣からは、昨日の荒れた様子は伺えなかった。

 蘇芳と春臣を互いに紹介し、春臣の言葉を待つ。

「お前、昨日津地村にも行ったんだろう。志月の前に空鳥に憑かれたのが誰か聞いたか?」

「うん、奉公していた絹って人だって聞いたけど」

「なら、そのときの始末を誰がつけたか聞いたか?」

「それは聞いてない。ただ、殺す以外になかった、とは聞いたけど」

「そうか……絹の始末をつけたのは、俺だよ」

 春臣は口元こそ笑っていたが、眼は悲しげに半ば伏せられていた。百が見たことのない表情だった。

「父さんが?」

「そうだ。お前を引き取って……二月か、三月か、それくらいの頃だった。覚えていないか?」

 百は記憶になかったが、春臣は数日津地村に行っていたことがあったらしい。

「また空鳥に憑かれた者が出た、って話は、実のところ、俺のところにも届いていたんだ。家から依頼はされなかったから、動こうにも動けなかったんだがな」

「殺すしかないから、手を引け、と言ったわけ?」

「そうだ。何なら俺が西屋に行くつもりだった」

「父さん、そのことだけど、志月を殺さないですむかも知れない」

 怪訝な顔をした春臣に、月乃から聞いた話と、歌のことを伝える。

「……なるほどな。確かに筋は通ってる。菖蒲と蓬に、弓か……あてはある。だが志月がどこに現れるのかわからないと、準備が無駄になるぞ」

「そのことですけど」

 おずおずと蘇芳が口を挟んだ。懐から、印のついた地図を取り出す。志月が見かけられた日付と場所を示した地図らしい。

 地図を見て、真っ先にそれに気付いたのは春臣だった。

「ここに近付いてないか?」

 確かに、日に日に志月が見かけられた場所は西澤淵に近付いている。

「困っていることがあるならここに来て、って言ったからかも」

「とにかく、菖蒲と蓬、弓は用意する。早けりゃ明日にでもここに届けるよ」

「私は……長谷部様に話してみる。人手がいるでしょう?」

「うん、ありがとう」

「ただな、百」

 春臣の声に、厳しいものが宿る。

「万一これがうまくいかなかったら、志月を斬る覚悟はしておけよ」

「ええ。――とうに、覚悟はしています」

 答える百の声もまた、落ち着いた静かなものだった。

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