第32話

────黙って車を走らせる私の横に、俯き加減に指を見つめる彼女。


 途絶えた会話のためか、それまで気にならなかったロードノイズなどが、ひっそりとする車内をかき乱さんと響いている。

 走りだして十分が過ぎようとした頃、外から差し込む光りに一度顔を上げた彼女は、すぐに下を向き、膝に乗せたバッグを引き寄せている。


────「私だって子供じゃありませんから・・・・」


 そんな強がる彼女を少しばかり懲らしめようと、近くにあるファッションホテル街へと向かったのだが、これにはさすがに彼女も驚いたのか動揺を隠そうと賢明だ。それでも意地を張ったように黙りを続けている。私は更にスピードを徐々に緩めて行くことにより、彼女の気持ちを煽った。我慢比べのような時が流れた。

 ふと、一向に口を開こうとしないことに、多寡を括っているのではないかと思い出した私は、最後の手段とばかりホテルの敷地に進入するも、ここまで来るとむしろ動揺していたのは自分の方だったかもしれない。

 先ほどまでの華やかさと対照的である殺風景な壁に近づくにつれ、明るく反射するライトがコンクリートの中に吸い込まれて行くようだった。そして、騒がしい音が数秒間、車を包んだ。光と音を断ち切れば、今度は闇の世界に迷い込んだと思わせる静寂が訪れ、自らの鼓動までもが聞こえてしまうほど、ひっそりとした時間が刻み始める。


 とにかく静かだった。


 互いに吐く息にさえ神経を遣っていただろうか。

 表情も何も伺えぬ中、彼女からの言葉を待つ私は、次第にある種追い詰められて行く焦りを感じ出していた。置かれた状態がギリギリであることを、自分でも把握していたからだ。

 ドアの開く音と共にルームランプが灯され、眩んだ目に車を降りる彼女の姿が映し出されると、もう詫びて引き留めることは不可能だと思った。何よりもそうした行為が、あの彼女の言葉を肯定することにもなり兼ねないからである。

 試されていたのは私だったのだろうかと、暗がりに反響するドアの音を残し、一人歩き出すと、一つだった足音にもう一つの足音が混じった。

弱い磁力でもあるかのように二人の間には一定の距離があった。私が足を止めると彼女も止まる。振り返って見たものの暗すぎて表情まではわからなかった。確認できたのは顔をちょっと傾けたことだけ。それが何でもないという彼女の心の表現にも取れた。


 扉の先は閉店後を思わせる灯りに包まれていた。真っ暗でもなく煌々と眩しいほどでもない。それでも異様とも思えるサイズのベッドは不思議な光を放っていた。フカフカした絨毯の上を歩いてソファーに腰を下ろす。存在が感じられない彼女に、途中で引き返したのではないかと振り向けば、それを合図のように扉のところに立っていた彼女が歩み寄る。そして、私の隣に裾を整えるようにして座った。位置関係でいえば先程までの車内と一緒だが、雰囲気はまるで別物だ。

 私の手が彼女の肩に触れると、彼女はこちらを向いて瞳を閉じた。


────「それじゃ、今日はこれで終わりにするから」

「どうも、お世話様でした」

 久々の場内も路上の後では緊張感が少な過ぎて、車庫入れ以外はどうしても手抜きになるのだった。退屈である大半の時間が回想に費やされ、映し出された記憶はいつまでも残像として揺れ続ける。瞳でも閉じてしまえば、現実すら見失いそうな世界でもあった。

 予約のやり取りをしながらも、頭の片隅の映像は途切れる事なく流れた。


───「なに考えてるんですか?」


 薄暗い照明に浮かび上がる壁をじっと見つめていると、脇から内緒話のような微かな声が身体を伝わって耳に届く。心無しそれはかすれても聞こえた。

「・・・・何も」

 小声のつもりで出した声はなぜか部屋に低く響いた。

「うそ・・・・怒ってるんでしょ?」

「怒ってる!?どうして?むしろそう思ってるのは俺の方だよ」

「あ・・・・俺って」

 ポツリと言って彼女はクスッと笑った。

「あ、つい・・・・おかしかった?」

「ううん。その方が良いです。え!?どうして私が怒ってるって?」

「ま、なんて言うか・・・・こんなところに連れて来ちゃったから・・・・」

 黙って小さく彼女は首を振り、

「ちょっとびっくりはしたけど・・・・元はと言えば私が・・・・だから、怒ってるだろうって・・・・」

「いや、そんなこと思ってないよ。まさかこんなことになるとは思っても見なかったけど」

「後悔・・・・してる?」

「いや・・・・」

「・・・・嫌いになったんじゃない?」

 弱々しい声に今度は私が首を振って見せた。

「良かった・・」


 一メートルも離れていたら聞こえないような声を揺らせた後、


「じゃ・・・・また会ってくれます?」

 と、微かな声を続ける。

「そうだね・・・・ただ・・・・」

「ただ!?・・・・」

「なんて言うか。いつまでって決めといた方が良いかなって。卒業するまでとか?」

「・・・・卒業?」

「そう・・・・。その方がきっとお互いのためかなって・・・・どう思う?」

「ええ・・・・私もその方が・・・・」


 そう言って彼女は瞳を閉じ、香りさえ淡い色の口元を私に寄せる。その柔らかい感触に何もかも頭から消えて行く気がしてならなかった。

 教習所で学生に戻った感覚に陥ったとするなら、差し詰め彼女といる時は二十三のあの頃で、失われた時間を取り戻すべく私は一時の時間に酔いしれた。

 

 脳裏にそんな別の時を描いて建物を出れば、外の日差しは無性に眩しくも見え、場内の車やコースに目を走らせている。

 やがてこちらに向かって軽快に歩く小柄な男性が目に留まり、じっとその姿を眺めていた。

 植木所長である。顔が合い軽く会釈をする私に、

「ご苦労様です」

 そう言って刻んでいた足を止め、

「どうですか?教習の方は順調ですか?」

 と、はきはきした口調に笑顔を交える。

「ええ、お蔭様で・・・・」

 と、照れ笑いを浮かべれば、回想していた色が頭から薄らいで行く。

「そうですか~。まぁ、来はじめた頃は長く感じるものだけど、過ぎてみれば早かったりするからね」

「そうですね。でも二輪でお世話になった植木さんが、所長に出世しちゃってたから驚きましたよ」

「いや~、ハッハッハ・・・・出世なんてものじゃないんだよ。ほら、いい歳になったんでそろそろやらせるかってね。そんな私も来年にはようやく定年だよ」

「・・・・そうですか。・・・・時間の経つのは早いものですね」

「ハッハッハ・・まったくだね。建物も人間も古くなったよ」


 感慨深そうにコースを見る所長の目はとても優しく、それがかえって寂しく映ったりもするが、まんざらこの再会がただの偶然でも無いような話に、私はより一層の喜びを感じて仕方がなかった。

「あ、そういえば、いつぞや遅れた時は助かりました」

「え!?いつ!?」

「修検の朝です。電話で遅れるって入れたんですけど」

「・・・・あ~。あの時ね。いや、なに。それに電話をもらったのもまだ時間前だったしね。あの程度なら教習所としても都合の付く範囲だから」

「あ、まぁ・・・・」

「それに島田さんみたいに遅れるなんて連絡してもらえるのは良い方でね。中には平気で遅れて来て黙ってる連中も多いんだよ。とにかく若いのが多いからね。やってる方も大変だよ。ハッハッ・・・・」

「そうですか~」

「ま、なるべくで結構ですから遅れないようにして下さい」

「ええ。わかりました」

 短い会話を終え歩きだす私の足はどこか軽やかだった。



 週に一度のペースとは言え、教習の後に立ち寄る『ワールドブックス』が、すっかりお決まりのコースになっている気がしてならず、今や習慣に近いとさえ思った。

 決まった時間に現れては、店内を徘徊し本をむさぼり読む。きっとそれすら習慣だったに違いない。そしてある時間になると、現れた女性と共に消えて行く。人の集まる大型の複合店だからこそ出来る話とは言え、さすがに毎度手ぶらでは私も気が引けると、時には雑誌やCDを手にして出ることもあった。何よりもそんなことで不自然な印象を減らそうとしていたのかもしれない。


 しかしながら、最近ではいつ知り合いに出くわすか、気が気ではなかったのも事実で、日を追って大きくなる不安と、彼女を待つ一時の時間を揺らしながら傾ける本は、やはり上の空であると言えよう。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る