第34話 答え
「サロメ、新しい死因を付け足してもいいですか?」
上ずった声に、サロメはリザを凝視した。
「……は?」
「確実に死ぬくらいなら、死なないかもしれない可能性に賭けた方がマシですよね?」
いつの間にかオリヴィエも振り返っていた。肌を青白くしてリザを見ている。
ぽかんとした視線がリザに集まっていた。
リザは床に手を付いて膝を立てた。細かく震える足に力を入れて、腰を持ち上げる。ずいぶんと時間をかけて立ち上がった。めくれあがったスカートを手で整えて、リザは大股で歩き出した。
堂々とした足取りでオリヴィエの隣を通り抜ける。あまりにも堂々としていたから、オリヴィエは見ていただけで手も伸ばさなかった。
――つまるところ、リザは完全に開き直っていたのだ。
どうしてこんなことになったのだろう、という疑問にぶつけた答えは、どうでもいい、だ。
「サロメ、立って」
「え……え?」
「立って。ほら、早く」
サロメの華奢な手を握って、引っ張り上げた。もう自分の力で立っていられそうになかった彼女は、気力だけで背を伸ばした。そういうところを美しいと素直に思う。
「どうなっても私を恨まないでくださいね。だって私たち、運命を共にしているんですから」
「…………リザ?」
「死んじゃったら、その時はまあ、健闘したということで!」
リザは鉄の扉のノブを握りしめた。ぎゅっと指先まで力を入れてノブを下に押す。そして力いっぱい押し開けた。
列車の外。暗闇に広がるのは、一面雪景色だ。
びゅうっと風が吹いて誰もが目を閉じた。骨が軋みそうなほど痛くて、寒かった。
「ねえ、リザ。……リザ! あなた、何考えてるの?」
すべてを察したらしいサロメは、リザの服を掴んで縋った。
細い彼女は風に飛ばされてしまいそうだ。リザは彼女の腰に手を回して支えてやった。いつもなら勝手に触らないで、と一蹴されていただろうが、今はそれどころではないらしい。
「どうして扉なんて開けるの。列車がどれだけの速さで走ってるのか知らないの!?」
サロメの髪が吹き上げられて乱れている。暗闇にたなびく様は幻想的ですらあった。
「馬鹿みたいなこと考えていないわよね!?」
「死なないかもしれない可能性です。だってこれしかないじゃないですか」
「まさか、嘘よね。そんなわけないわよね。さすがのあなたでも、これは冗談――」
「冗談言ってる余裕はないです!」
リザは被せるように断言して、サロメを扉の前に立たせた。まるで処刑台の前に立たされるマリー・アントワネットのようだった。もっとも、これでサロメが死んでしまったら処刑台に間違いはない。処刑人はリザだ。
リザがいたって真剣であると分かった彼女は、絶望したように叫んだ。
「馬鹿なの? あなた馬鹿じゃないの!?」
「私はサロメより馬鹿ですよ」
「当たり前のことを言わないでくれる!?」
「ちょっとくらい否定してもらっていいですか!?」
リザはちらりと外を見た。流れゆく景色だが、やはり雪しか見えなかった。このあたりは家も遠くに見えるくらいで、ぶ厚く降り積もった雪が月明りに反射して輝いていた。
上手くいけば雪で衝撃が和らぐはずだ。後は埋もれて窒息しないことを祈るばかりである。
「言い残したことはありますか?」
リザが訊くと、彼女は何度も首を振った。
「信っじられない!」
本当に、信じられないものでも見るような目だ。
「ふざけないでよ。こんな馬鹿みたいに寒い国で骨になるなんて、死んでもごめんだわ!」
「どっちにしても死んでますけどね!」
リザはサロメの腰に回していた手をのけた。あとは手を繋いでいるだけだ。すらっとした指がリザの手をきゅっと握りしめていて幼い子どもみたいだった。なびく赤毛がリザの頬を撫でてくすぐったかった。
ふざけないで、と彼女は言ったが、抵抗する風ではない。唇を薄く開けたままリザを見ていた。瞳は真っ直ぐだった。
片膝をついたままのオリヴィエだけが視線をさ迷わせていた。
「何を、する気ですか」
彼はひどく動揺していた。
リザはにっと笑う。サロメがそうするのを真似て、大胆不敵に口角を上げる。
「サロメを、あなたに殺させるつもりはありません」
迷いなどあるはずはなかった。
「だから、こうするんです」
サロメの手を離した。
綺麗な指先が離れていくのが名残惜しい。それでも離して、リザはとんっと彼女の肩を押した。
開け放たれた扉の前に立っていた彼女は、あっけなく後ろに倒れた。爪先が浮き上がって背中から落ちていった。ドレスの裾がたなびくのが絵画のように美しかった。
そしてサロメは、走り続ける列車から投げ出されたのだった。
「――ッ!?」
オリヴィエは腰を上げたが、もうそこに彼女はいなかった。残像だけが目に焼き付いている。リザは扉を掴んだままで彼を見つめた。
オリヴィエは目を見開いていたが、すうっと息を吐くと唇に笑みを浮かべた。いつものようにそうしてみせたが、頬が強張っていたから不似合いだった。ほとんど苦笑いだ。
「……正気とは思えませんね」
彼の声は掠れていた。
「落ちて、死んだんじゃないですか?」
そうかもしれません、とゆるく頷く。
「私が正気なわけないじゃないですか! だってドゥミモンデーヌの使用人ですよ!? どうせ殺されるくらいなら賭けにだって乗ります」
「あなたがそんな大胆な人だとは、思ってもいませんでした」
「私もついさっきまで知りませんでした」
横髪がばさばさと音をたてた。乱れて解けた髪が背中に広がって風にあおられる。くすんだ金色がキラキラと瞬くように輝いた。
リザも扉の前に立っていた。もうここに残っている理由はなかったし、オリヴィエも今さら止める気にもならなかったのか棒立ちになっていた。
同じように外へ出ようとして、足をピタリと止めた。
「私も一つだけ訊いてもいいですか?」
どうして自分がそんなことを言ったのか、自分でも分からない。けれどリザは確かにそう口にしていた。
「俺に答えられることなら」
オリヴィエはほんの少しだけ首を傾げた。リザは言葉を選ぶように視線を落として、それからふっと口を開いた。
「なんで、ここまでするんですか?」
「?」
「幸せだとも思っていないのに、なんで守りたいって思うんですか?」
列車がまた揺れる。リザの声は淡々としていた。
問われたオリヴィエはすぐに口を動かそうとした。しかし戸惑ったように唇を震わせるだけだった。ちらりと瞳が揺れる。一瞬腕を上げて、だがすぐに下ろした。
「……本当に、どうしてでしょうね。俺が教えてほしいくらいです」
オリヴィエはもう疲れ果てているのだろう。弱々しく呟いた。
「でもいつかは壊れてしまうものだから、守らなければいけないんです。知っていて、見殺しにはできないんです。……俺が幸せじゃなくても、幸せになれなくても、そんなものはどうでもいい。どうでもいいんです。けれどみんなは幸せになるべきだ。一人でも多くの人を守らなければいけない。そのためならどんな犠牲も払う。だから俺はあなたたちを殺します」
彼はもう笑っていなかった。それがとても絶望的で、リザは手を握りしめた。
「これは、あの人の受け売りですけど。自分のために動けない人間は、どこまでも落ちていきますよ」
気づけば足を踏み出していた。一歩前に出して彼に歩み寄って、そして断言する。
「どうでもいいわけ、ないじゃないですか!」
ようやく言えるようになった台詞を残して、リザはくるりと背を向けた。
駆けだすように床を蹴ってリザは跳ねる。身体が宙に浮いた。軽やかに髪がたなびいてリボンが解けた。
「――っ!」
生きるか死ぬかも分からない。
しかし不思議と後悔はなかったのだ。
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