第19話 爵位
七日後、サロメと公爵はついに結婚した。
サロメはついに名前と公爵を手に入れたのだ。
二人が祝福の中、神の前で永遠を誓い合った。サロメに寄り添われた公爵は照れたように笑っていた。取り寄せた純白の花がサロメの髪を彩っていて、まるで絵の中の世界のようだ。リザはぼうっとその様子を眺めていた。
しかし公爵が幸福を味わったのはたった一夜のことだった。二人の恋は夢幻のようなものだったのだ。
「――だからね、あなたにはもう用がないの」
サロメはもう笑みを浮かべていない。彼女は最初から決まっていた事実を淡々と告げた。
「……は?」
「私が欲しかったのは財産と爵位。その両方が手に入った今、あなたは必要がないのよ」
朝の光が差し込む寝室でサロメは腕を組んだ。あまりにも冷淡な声に、公爵は呆けた顔のまま固まっていた。椅子に浅く腰かけている彼は瞳だけを大きく震わせていた。すべてを知っていたリザは視線を逸らした。
「離婚してほしいとまでは言わないわ。昨日の今日だもの、世間体が悪いわよね。だけど私はあなただけのものになるつもりはないのよ。私を捕えたつもりでいるのなら、それは間違いよ」
「だって、君は」
「言ったわよ、あなたが好きだって。あなたが恋しくて仕方がないって。あなたがいなくちゃ生きていけないとも。でもごめんなさい、それは昨日までの話。私は私だけで歩けるし、あなたはあなただけで生きていける。それだけのことなの」
公爵はうなだれていた。調度品のすべてがなくなってしまった部屋で、彼は愕然としていた。両ひざに乗せられた手がゆるく握られる。公爵は視線だけを上げた。前髪の隙間から、暗く淀んだ瞳が見え隠れしていた。
「……君は私を騙したのかい?」
「あなたから見れば、そうなるでしょうね」
朝の澄んだ空気は冷ややかだ。肌から温度を奪っていく。
言葉を重ねたところでたどり着く場所は変わらない。二人の会話は最初から決裂しているのだ。それは公爵もよく理解していて、彼は俯いたまま力なく笑った。
「君は、私に逆恨みされるかもしれないということを、一度でも考えたのかな」
「いつだって考えているわよ」
「今この場で、逆上した私が君を殺してしまうかもしれないよ」
「そんなことにはならないわ」
窓の外で鳥が飛び立った。サロメはおかしそうに眉を下げる。
「私がかつて愛したあなたは聡明な人だもの。恋に溺れても、狂うことはないわ」
赤い髪が朝日を反射してきらめいた。
「それに殺されたって構わないわよ。それくらいの覚悟はできているもの」
サロメは誘うように首を傾けてみせた。やれるものならやってみればいい、とでも言いたげな目に、公爵は肩をすくめた。彼は今までで一番穏やかな顔をしていた。サロメに裏切られたというのに、かえって自由になったかのようだ。
公爵はトンっと靴で床を叩いた。木の張られた床は心地よい音を立てた。
「……君は私に似ているね」
「?」
「君にも譲れないものがあるんだろう?」
公爵はサロメの目の奥を覗きこんだ。サロメは一瞬だけ目を丸くしたが、にこりと微笑んだ。
「ええ!」
彼女の笑みが本物であったことに満足したのか、公爵はくるりと身体を回転させた。扉のすぐ近くに控えていたリザに視線を移す。
「リザ・ルーセル」
「は、はい!」
「君が持っているあれは返さなくてもいいよ。役に立つことがあるかもしれないしね」
リザは背筋をピンと伸ばした。いまだポケットに入れたままの地図が、くしゃっと音を立てたような気がした。上手く隠していたつもりだったがすべて筒抜けだったようだ。リザは顔をこわばらせながら足の指を曲げた。
公爵は、再びサロメの方を見遣った。不思議そうに瞬きしているサロメに向かって、静かな声で言った。
「……この屋敷も君にあげるよ。私にはもう必要のないものだから」
彼は目を伏せる。
「さようなら、サロメ・バラノフ。君の進む先に不幸がないことを願っているよ。心から」
彼の最後の言葉は、優しい祈りだった。
サロメはゆるやかに頷いた。そして「ありがとう」と呟いた。
彼は使用人たちを引き連れて屋敷を出ていった。だだっぴろい屋敷に取り残されてしまったサロメは、安楽椅子に腰かけたまま、いつまでも窓の外を見ていた。遠ざかっていく馬車はもう爪の先よりも小さくしか見えないというのに、サロメが目を逸らすことはなかった。
その視線は後悔だったのか、悲しみだったのか、それとも同情だったのか、リザには分からなかった。それでもリザは言葉を発することなく彼女のすぐそばに立っていた。
二人きりでいるには広すぎる部屋は、物音一つしなかった。
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