第13話 嫉妬


 デザイン案が完成に向かうにつれ、リザが工房を訪れる頻度は上がっていった。外に出たついでに覗いたり、サロメに言われて確認に行ったり、気が付けばほぼ毎日入り浸っていた。


 いつの間にかジルとも打ち解け、何気ない話でも楽しめるようになっていた。今まで友人らしい友人もいなかったリザにとって、ジルは初めての存在だったのだ。話過ぎてつい長居してしまい、サロメに「帰宅が遅い」と叱られたのは昨日で三回目だった。


 それでも彼女は「行くな」とは言わなかったし、リザはやはり時間を見つけては仕立て屋を訪れるようになっていった。


 だから、仕立て屋に入り浸っていることが二人の間で問題になったのが、たまたま今日だっただけだ。


「……なんて?」


 昼食の途中。サロメがナイフとフォークを握る手をぴたりと止めた。切りかけになったチキンは焦げ目がついていて、ふっくらと焼けている。


「ですから、午後は二時間のお休みをいただきますって言いました」

「何が……ええ、なんて?」


 サロメは珍しく言い淀んで、灰色の瞳を丸くした。サロメからすれば、使用人がいきなり休みを得ようとすることなど、考えるにも至らないのだろう。だが今回正当なのはリザの方なので、ひるむことなく続けた。


「私、ちゃんと一昨日に言いましたよ。昼から二時間出かけますって。サロメ様もいいって返事したじゃないですか!」

「そんな記憶、私の中にはないけれど……?」

「さては適当に返事してましたね!?」


 と言いつつもリザは内心冷静だった。


 サロメの疑問はもっともだ。いつものサロメなら失笑するだけだったに違いない。


 だからこそサロメが寝起きのときを狙ったのだ。状況は何にしろ、言質さえとってしまえばリザの勝ちである。


「とにかく、返事をしたのはサロメ様ですからね。私は行きますから」


 リザは空いた皿に手を伸ばしながらきっぱりと断言した。それ以上は口を閉ざしたまま、黙々と皿を重ねてまとめた。


 サロメはチキンを一口大に切ると、上品な所作で口元に運んだ。チキンに絡まるソースがぽとりと落ちる。


「主人を放って出かけようだなんて横暴だわ」


 リザはぽかんと口を開けた。心外だ。


「あ、あなたに横暴と言われる日が来るなんて……。ちゃんと二時間で戻ってきます」

「本当に行かなくちゃいけないの?」

「約束をしているので」

「それってこの私より大切なことなの?」

「普通、人との約束は守るべきだと思うんですけど」


 リザは紅茶のポットを準備しながら返した。隣に角砂糖の入った瓶も並べた。サロメは垂れてきた髪をかき上げる。柔らかな糸のようなそれを、耳にかけるとふっとため息をついた。


「私が許可を出したかどうかはともかく、どうして今日に限って強情なのかしら」


 サロメは昼食をすべて食べきってしまうと、テーブルに置かれていた水を飲んだ。


「何の約束くらいかは教えてくれてもいいと思うのよ?」


 彼女は口元をナプキンでぬぐうと、すぐそばに立っているリザを上目遣いで見上げた。長いまつげが瞬きで揺れる。灰色の瞳にはリザの戸惑う顔が映り込んでいた。彼女に見つめられると不思議と口が動いてしまうのはなぜだろう、とリザはぼんやり思った。


「……ジルのところで、ミシンを触らせてもらう約束をしていて」


 俯きがちにぼそぼそと言えば、サロメは眉をピクリと動かした。


「またあの子!?」

「い、いいじゃないですか! ジルはすごく良くしてくれているんです! 私の話もたくさん聞いてくれるし、いつでも来ればいいって言ってくれるし、いい人なんです!」


 いつの間にか声が大きくなっていることに気づいて、リザはふいっと顔をそらした。体の前で指を組んで、しかし何も言わないサロメが気になって、ちらりと視線だけで彼女の顔色をうかがった。


 サロメは怒っているようには見えなかったが、かといって何を考えているのかもよく分からない表情だった。


 伏し目がちに、口紅の取れかけた唇をきゅっと結んでいる。少なくともいい気分ではなさそうだ。


「サロメ様……?」


 リザは小声で呼びかけた。機嫌を損ねすぎると後で面倒なのはリザだ。


 サロメの隣まですり寄っていくと、顔を覗き込むように軽く身をかがめた。リザはもう一度名前を呼ぶ。だがサロメから返事はなかった。


「わっ」


 サロメが腕を伸ばす。華奢な手のひらはあらわになっていたリザの手首を掴み取った。ひやりとした指の感触に、リザは思わず声を上げていた。こめられた力はそう強くはないから、腕を振れば簡単に振り払えるだろう。しかしリザは腕の動きを止めたままだった。


 リザはつばを飲み込んだ。言葉が喉の奥でつっかえたように声が細い。


「腕なんか、掴んでどうしたんですか……」


 問いかけてみても、サロメは唇を結んだままだった。その目は何かを考えているようだったが、一点を見つめたままだった。リザも最初こそ身体をこわばらせていたが、彼女が何も言わないままだから、だんだんと煩わしさが募ってくる。掴まれた腕にわずかに力を込めた。


「もうすぐ、出る時間なんですけど」


 リザにしては珍しく棘のある声だった。


 サロメはむっとした顔で腕を引いた。突然引っ張られたリザは態勢を崩した。


 引きずられるようにサロメの方へと倒れていく。リザは目を見開いた。


「あ――」


 気づけばすぐそこにサロメの顔があった。呼吸が止まって、瞬きもできなかった。


 灰色の瞳にリザの瞳の色が映りこんで、鮮やかに輝いている。


 唇が、触れた。


「…………?」


 たった一瞬のことだった。サロメの長い睫毛が震える。彼女は顔をそむけたまま呟いた。


「あなたは私のものよ。なのにどうして、他の男に靡いたりするの……」


 リザは唖然としたままその場に立ち尽くしていた。まだ熱と感触が残っていて、リザは思わず指で唇をなぞった。唇は薄く開いたまま閉じることができなかった。


 そしてようやく脳が追いついて、リザは状況のすべてを理解した。


「――!?」


 声にもならない声が喉を通り抜ける。二人の距離は急速に離れた。リザがサロメの華奢な肩を力任せに突き飛ばしたのだ。椅子の上でよろけるサロメを見ながら、リザは目を見開いた。全身の血が沸騰しそうだった。


「は、は、は……はあ!? 何、何をしてるんですか!?」


 リザの声は震えていた。


「あ、あなた、今、私に、な、何を……」

「キス」

「そんなことは聞いていません!」

「だったら何を聞いてるって言うのよ」


 サロメは唇を尖らせた。つっかえながらも、なんとか言葉をひねり出したリザに対して、彼女は拗ねたようにぼそぼそと言葉を続ける。


「だって、リザが悪いんだもの。私以外に必死なんて、そんなのおかしいじゃない……」


 サロメは視線を合わせようとしない。


 リザはよろよろと後さずった。眩暈すらしそうだ。目の前の女が何を言っているのかさっぱり分からなくて、距離を取ることくらいしかできなかったのだ。耳にまで熱が上っているリザは、真っ赤な顔のままで叫んだ。


「な――なんですか、その謎の理論は!? 今までで一番意味が分からないんですけど!?」


 リザはサロメの胸倉を掴み上げて揺さぶりたくなったが、寸前のところで堪えた。


 リザはぎゅーっと両手を握りしめると、くるりと背を向ける。速足に扉の方まで歩いて行った。ドタドタと大きな足音が立っていたはずだが、毛足の長い絨毯に吸い込まれていたって静かだ。リザは乱暴に扉を開けると、最後にもう一度だけ振り返って彼女を睨みつけた。


「二時間したら帰ってきますから!」


 律儀に念押ししたリザは、やはり扉を乱暴に閉めた。物音は三階中に響き渡っていた。


 フロアはしんと静まり返っていた。リザは閉めた扉に背中をつけると、ずるずるとしゃがみこんで顔を覆った。


「何、何、何、あの顔……」


 なんでも独占したがる子どものような目――それが自分に向けられる日が来るなんて思ってもいなくて、リザは立ち上がることができない。ドレスの裾は床を擦っていた。

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