第2話 ドゥミモンデーヌ


 ワイングラスを運ぶことは下働きとしての仕事の一つだ。


 リザは三つのグラスが乗ったトレイを片手に通路を歩いていた。ずっと下働きを続けてきたリザにとっては造作もない。


 廊下に敷き詰められた赤い絨毯に足音は吸い込まれた。壁に取り付けられたろうそく立ては黄金色に輝いていて、天井からは豪奢なシャンデリアがぶらさがっている。


 幕の合間だから通路を出歩く人が多い。観客たちは誰もが美しく着飾っていた。男性はモーニングを身にまとい、シルクのネクタイを締めている。女性はコルセットで腰をきゅっと絞り、膨らんだスカートを揺らしながらゆっくりと歩く。


 リザにとってはもはや日常だ。顔ぶれは変われど、何度も見たものだから背景に混じってしまって見分けなどつかない。ましてや記憶に残るなどあり得なかった。


「あ――」


 だと言うのに、目を奪われてしまったのはなぜだろう。


 リザはたった一人の女から視線を逸らせなかった。


 目の前から歩いてくるのがサロメ・アントワーヌであるということは直感で理解していた。何かが違ったのだ――彼女は普通ではない。


 サロメは女性でも惚れ惚れとしてしまうほどの美貌の持ち主だった。頭の上から足の先まで隙がない。長く伸ばされた赤毛はまとめられることなく、腰のあたりまでゆるくウエーブを描いている。自信に満ちた表情は誰のものより魅力的だ。強気な灰色の瞳は、視線を合わせることすら躊躇してしまうほどに美しかった。


 身にまとっているのは派手なドレスだ。エメラルドグリーンに染め上げられたドレスは胸元が大きく開いていて、豊かな胸が見せつけられているようだ。挑発的ですらあったが、彼女が身にまとっているというだけで不思議と品がある。


「あれが、サロメ・アントワーヌ……」


 一瞬だけ視線が合ったような気がしてリザは足を止めた。どうしてか動けなかったのだ。唇を薄く開いたままぼうっと彼女を眺めていると、今度こそ目が合った。サロメはわずかに笑みを浮かべてリザを見つめ返す。


 ――ドゥミモンデーヌが自分を見て微笑んだ。


 たったそれだけのことなのに心臓がうずくように痛かった。

 

 リザはしばらく立ち止まっていたが、周囲からの視線に気がついて我に返った。慌てて歩き出す。それでもワイングラスを気遣うことは忘れない。サロメとの距離はだんだんと近づいてくる。リザが一歩踏みだせば、サロメもまた一歩踏みだして――その繰り返しで、気づけばすぐ目の前に彼女がいた。


 リザの方から避けた。なのにサロメは不意に立ち止まった。戸惑うようにサロメを見れば、彼女はくすっと笑った。


「こんばんは、可愛らしいお嬢さん。ずいぶんと熱烈な視線ね」


 花がほころぶような笑みだった。


 声をかけられた! 


 リザは驚いて肩を揺らす。彼女は眉を下げておかしそうに笑った。そしてサロメから身体を寄せると、彼女は囁くような声で言ったのだ。


「……あなたも私に恋をしてしまったのかしら?」


 高く掠れた声には色気さえ漂っている。同じ女であるはずのリザですら心臓が跳ね上がってしまう。じわじわと熱がせり上がってきて、リザは言葉らしい言葉を返すことができなかった。


 サロメは灰色の瞳を細めると、ヒールをカツンと鳴らしてリザの隣を通り過ぎようとした。たった数秒の交わりで、冗談で、サロメは明日にでも忘れてしまうのだろう。下働きとドゥミモンデーヌなど関わることはないはずなのだ。


 リザは会釈をしたままで固まっていた。石像のようにそうしていたはずだった。


 ドン、と肩を突き飛ばされたことに気が付いたのは、瞬きの後だった。


「あ……っ!?」


 人波からするりと伸びた両手に、強く肩を押される。


 リザの身体はぐらりと傾いていた。


 小さな悲鳴を上げるが遅い。足が床を離れてもつれ倒れていく。


 片手に持ったトレイは? 乗せられたワイングラスが宙を舞っている。すぐ近くにはサロメがいて、彼女は驚いたように目を丸くしていた。まるで何もかもがスローモーションのようだ。


 ざわめきが辺りに広がって、けれどすぐに静けさが訪れた。誰かが口を開かなければならないと分かっているのに、誰もが嫌がって目を背けているような――。

床に座りこんでしまったリザは息を呑んだ。


 目の前にはトレイが逆さまに落ちていて、すぐそばには空のワイングラスが転がっていた。毛足の長い絨毯には赤黒いしみが浮かんでいる。それが何を意味するのかなど考えなくとも分かった。


「……お嬢さん、いつまで下を向いているの?」


 真上からサロメの声が降ってきた。視界の端に映るエメラルドグリーンの裾は、紛れもなくサロメのものだった。リザは最後の望みにかけてゆっくりと顔をあげ始めた。祈るような気持ちで視線を上げていく。


「…………ああ」


 だがそんな祈りは意味をなさなかった。彼女の美しいドレスはワイン色に染め上げられていたのだ。


 リザは床にへたり込んだまま、緩慢に首を動かして振り返った。突き飛ばされた方を確かめるように見た。リザたちを取り囲むようにして立っている群衆の中、一人、ねずみ色の地味なドレスを着た女が立っていた。


「……ナタリアさん……」


 ナタリアは青白い顔のまま両手を握りしめていた。


 淀んだ目でリザの方をじっと見ていたから、力なく彼女の名前を呟いた。彼女は怯えたように唇をはくっと動かしたが、すぐにリザを睨みつける。あんたが悪いんだから、とでも言いたげな顔にはもう笑うしかない。


「ねえ、お嬢さん。私を見てちょうだい」


 気づけばサロメの華奢な手が伸びて、リザの顎に添えられていた。リザは顎をくいっと動かされて無理やり視線を合わせられた。力なんてほとんどこもっていなかったはずなのに、逆らうことができない。


 サロメの顔に怒りはなかった。目元は穏やかだ。


「この世界にはたくさんの因果があるけれど、たまたま、今回はこういう結果で終わったわけよね。あなたは足を滑らせて私はドレスを汚された。仕方のないことだわ」


 サロメはふっくらとした赤い唇に笑みを浮かべた。


「でもね、責任というものがあると思うの。あなたには」

「……弁償させていただきます」

「あら。このドレス、一万フランするわよ?」


 リザは口を開けたまま固まった。体温が急激に下がっていくのが分かった。


 一万フランはリザの年収でもまったく足りないほどの金額だ。とてもではないが支払えない。下働きのリザに貯金はないも同然で、財産と言えるようなものすらなかったのだ。だが払えません、で済むほどこの世界は甘くはない。


 女であるリザならば、奴隷になるか娼館へ送られるか――どちらにしろ底の底まで落ちていくことに変わりはない。リザは唇を吊り上げた。サロメはゆるやかに首を傾げる。


「今から人としての尊厳を失うというのに、ずいぶんと落ち着いているのね?」

「……もう、どうでもいいです。どうにでもなれって思います」

「諦めがいいのね」

「こういう運命だったんです、最初から」


 リザは弁解することもなく笑っていた。たとえ「ナタリアに突き飛ばされたせいです」と言ってみたところで、証明してくれる人はいないだろう。現に、二人を取り巻いている観客たちは黙ったまま成り行きを見ていた。誰も真実を知らないのだ。ならば言い訳をするだけ無駄というものである。


 リザが裁きを待つ罪人のような顔でひざまずいていると、サロメは見下ろしながら艶やかな唇を動かした。


「お嬢さん、名前は?」

「リザ・ルーセル」


 こんな風に名乗ることになるとは思わなかった。リザがうつろな目をすると、彼女は口角を上げた。


「今日からあなたは私のものよ。あなたは人生を売って一万フランを支払うの」


 サロメはリザの手を握ると真上に引っ張り上げた。


「私の使用人になりなさい」


 彼女の命令にリザはぽかんとした顔のまま固まった。奴隷か娼館行きと比べたなら、ドゥミモンデーヌの使用人など、ずいぶんと生易しい選択肢に思えたのだ。


 ──だがサロメと過ごす日々は波乱に満ちていて、甘美で危険で、けれどもリザにとって何に代えることもできないほどに鮮烈なものだった。

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