天上パスポート

柊木賢人

第1話 ランク

 限りなく音のない世界。


 ギラギラと輝き、果てしなく広がる海。


 クルーザーの上でシャンパンを飲みながら、少し丸みを帯びた水平線をただ眺めていた。それはまるで夢のような景色で、この地球を独り占めしているようだった。


 照りつける太陽の光は、海の水面を反射して肌に刻み込むように鋭く刺さってくる。


 潮の香りは、鼻腔に広がり、全ての邪念を一掃するほど爽やかで、清々しく感じる。

 

 時間という概念すら忘れるほど、この瞬間が永遠に続くように思えた。ここがこの世なのかあの世なのか分からないが、それすらどうでもよかった。


 生きているか死んでいるかなんてどうでもいい世界。こんな世界に今まで憧れていた。


 この世界に、永遠に存在したい。青空を仰ぎながら康太はそう思った。


 すると、どこからかカラスの鳴き声が聞こえた。こんなところにカラスがいるはずないと思いながら、鳴き声が聞こえた方へ振り向いた。


 その瞬間、薄暗い空間が現れた。カーテンの隙間からオレンジの光が漏れ、スポットライトを当てたかのように床に置いてあるペットボトルやお菓子の袋が照らされていた。


 やっぱりそうだよな...。自分の生きる世界にはこんなにもキラキラした生き方など存在しない。だけど、薄汚れた部屋に差し込む太陽の光だけは、夢の世界と変わらず、キラキラと輝いていた。


 時計を見ると16時40分。外からは下校している小学生たちの話し声が聞こえた。


 小学生たちの声はまるで春の風のように、陽気に俺の耳に届いてきた。しかし、康太は自分自身を、その輝かしい未来に向けた太陽のような存在ではなく、光を反射して照らし出す月のような影と感じていた。


 康太は夜な夜なゲームをして、家族が朝の支度を始める音を合図に、布団に潜り込む生活を送っていた。


 自分が落ちこぼれだということは重々承知だ。だけど、そこから抜け出したいという希望に満ち溢れた考えは全くない。


 康太は霞んだ眼をこすりながら、床に落ちているごみを踏まないように、洗面所に向かった。


 鏡に映った自分の顔を見るたびに、 起きたら別人になっていた! みたいなことが起きないかと叶いもしない世界を夢見ていた。


 虫に食われた穴だらけのTシャツに、高校時代に着用していた体操着の短パン。寝癖でぼさぼさになった頭を掻きながら、裸足で廊下をペタペタと音を出して歩くのが、どうにも心地よかった。


 康太は部屋に戻り、20インチほどの小さいテレビをつけると、ニュースが流れていた。世間でいうと身支度を整えながら見る朝のニュースみたいなもので、外にはコンビニに行くぐらいしかない自分にとって夕方のニュースは外の世界と繋がる一本の糸みたいなものだ。


 ニュースを見ると、少しふっくらとした女性アナウンサーがご当地グルメを食べて、取って付けたような食リポをしている。


 美味しい! と言われなくてもそりゃあ美味しいに決まっているし、中に何が入っているか教えてくれればそれで十分だ。故に、食リポを頼りに食べたいと思ったことは一度もない。


 視聴者もみんな食べ物の見た目で食べたいかを判断するだけで、誰も食リポなんて必要としていないだろう。アナウンサーが食べる分を視聴者プレゼントにして送ってくれた方が視聴率は上がるに違いない。


 こんなしょうもない食リポなんて見たところで何の影響もないと思ったが、考えていることとは裏腹に、グ~と低い音を響かせてお腹が主張してきた。


 康太は冷蔵庫に何か食べられるものがあるかを探しに1階に下りた。


 静まり返ったリビング。誰か来てほしいと言っているようにダイニングテーブルが寂し気に置かれていた。


 俺が来たところで嬉しくはないだろう。そっとダイニングテーブルの横を通り、冷蔵庫を開けた。


 冷蔵庫のドアはとても重かった。開けてみると、調味料がたくさん並べられ、我を取れと競争するようにガラガラ音を出して当たり合っていた。


 冷蔵庫の中には沢山の食材が入っていて、見えるのは一番手前にあるものだけ。奥に何があるかも分からないほどだ。


 だが、康太は知っている。一番上の棚の奥に何個も高そうなプリンが置いてあることを。無くならないようにしているのか、何個もストックしているから、1個食べてもバレないだろう。


 2階の自分の部屋で食べようと思い、食器棚から銀のスプーンを取っていると、玄関にある窓から赤い光が差し込んできた。母の裕子が仕事から車で帰ってきたのだ。それを察し、急いで階段を駆け上って、部屋に入った。


 部屋に入ったら、バレることはない。なぜなら康太の部屋のドアには、絶対に入らないでと書いた張り紙をずっと貼っているから。張り紙というより御札と言う方が正しいのかもしれないが。


 プリンを舌に運ぶと、滑り台のように喉の奥へ滑り落ち、手に触れた雪のように消えていった。このプリンは冷蔵庫にストックするほどの価値がある、そう考えていると、プリンの容器は空になっていた。


 量が少ないから価値が高いのか、価値が高いから量が少ないのか。こんなことを考えそうになったから、ゲームのコントローラーを手に取り、ゲームに集中することにした。


 随分とゲームをやっていたのだろう。時計を見なくても、親指の疲れで大体の時間が分かるようになってきた。他には何も生かせないこの能力は、生きていく上で必要のないものに違いない。


 答え合わせをするように時計を見ると、午前0時10分。日付が変わった。


 0時で日付が変わると誰が決めたのだろう。そんなことも知らずにほとんどの人は、翌日の仕事に向けて寝床に入る。


 康太にとっては昼の12時だ。そろそろ昼ご飯を食べよう。いつもと同じようにコンビニに向かった。


 家から歩いて5分ほどにあるコンビニ。パタパタとサンダルの音を、静かな暗闇の中で自分の居場所を知らせるかのように響かせながら、歩いていく。


 ポツンと光る街灯は優しい。光に当たらない存在に毎日欠かさず照らしてくれる。


 すると、街灯の明かりを飲み込むほど、太陽のように光るコンビニが見えた。昼間は目立たないのに夜になると数キロ先からでもコンビニがあると認識できるほど目立っている。まるで夜空に光る一番星のように。


 コンビニに入るといつもの眼鏡をかけた少しぽっちゃりした男性がレジに立っていた。


 この店員と会うのは何百回目だろう。100回を超えてから数えなくなった。


 その店員は、唯一外の世界で会話する人間だった。


 だからと言って、店員と仲良くなったりすることはなく、最小限の会話でいつも済ませている。


 店員は、引きこもりの俺と同じような雰囲気はするが、社会に貢献しているかの決定的な違いがあり、そんな店員と仲良くなれるほどの人間ではない。


 コンビニからの帰り道。見上げるといつも満天の星が光輝いていた。その光はとても眩しくて、目が痛くなる。だから真っ暗で何も見えない足元を見る方が、よっぽど楽だった。


 でもふと、「俺は何のために生きているのか」を考える。親が働いて稼いだお金でご飯を食べ、親が自分のために用意してくれた6畳の部屋で、ゲームをして、寝る。こんな体たらくな生活を続けていていいのか。


 世の中の人は、社会経験を積み重ね、人生のランクを上げている。一方で俺は、ゲームで敵を倒し、経験値を手に入れ、ゲームのランクを上げている。


 どこで俺の人生は踏み間違ってしまったのか。馬鹿なこの頭では一生答えが出ない問いを考え続けている。

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