6


 穏やかな日々が続くのだと思っていた。

 


「おかえり、朔」

 正月が明けた四日、予備校から帰ると、父親のところに行っていた母親が帰宅していた。

「ただいま。おかえり、迎え行けなくてごめん」

「いいわよ。荷物全部向こうから送っちゃったし。朔のお土産だけ持って帰って来たの」

 小さな紙袋を手に母親は笑った。父親が今住んでいるところの銘菓で、帰って来るときにはいつもこれだ。朔も好きなお菓子だった。

「ありがと。食べる? お茶淹れるよ」

「うん。あ、そうそう、お友達のも買って来たよ」

「え」

 荷物を置いてキッチンに向かおうとした朔は、母親を振り返った。

「ほら、青桐くん? 一回会ったじゃない。…あれ、名前青桐くんだっけ?」

「そうだよ」

 いつだったか、学校の帰りに青桐に誘われて街を歩いているとき、偶然仕事で外に出ていた母親と鉢合わせたのだった。そのとき朔は青桐を友達だと紹介して、ふたりは言葉を交わしていた。母親はそれ以来、青桐のことを余程気に入ったのか、度々口にするようになっていた。

「今度会うときでも渡してね」

「うん、ありがと」

 ケトルをコンロにかけ、母親の好きな銘柄の紅茶を開けた。ふわりと香る紅茶のいい匂いに、気持ちがほぐれる。外は寒く、明日は雪が降るだろうと言われていた。

 ああ、と母親が言った。

「あのね、それとね、朔…」

 珍しく何か言いにくそうにする母親に、朔は首を傾げながら顔を向けた。



「え、……俺に?」

 青桐が目を見開いた。

「うん。うちの母親から、青桐にお土産だって」

 はい、と手渡すと、瞼を開きっぱなしにしたまま、青桐は自分の手の中を見た。小さな袋に入った小さな箱を取り出し、その重さを確かめるように、両手に持ってじっとしている。

「そんな、あの、大したものじゃないよ?」

 中身は個包装されたお菓子だ。多分6個くらい入っているんじゃないだろうか。家族で食べ切るにはちょうどいい数だ。

「朔のお母さんが、俺に…」

 ぽつりと呟いた青桐は箱を胸に抱えて、ゆっくりと顔を上げた。

「ありがとう、すげえ嬉しい」

「そう? ただのお菓子だよ」

 なんだか大袈裟な言い方に朔は慌てて言った。

「中身とか関係ない。死ぬほど嬉しい」

「そ、そう…? よかったら家族の人と」

「はあ? やるわけねえだろ! 朔のお母さんが俺に買ってきたやつだぞっ全部俺のっ」

 食い気味にムキになって言う青桐に、朔は一瞬驚いて、それからふっと噴き出した。

「朔?」

「ふふ、あははっ」

 突然笑い出した朔を、きょとんとした顔で青桐は見つめていた。

 時々青桐は本当に子供みたいだ。

 こんなに綺麗な顔をしているのに、そのギャップに可笑しくなる。

 ひとしきり笑って涙が滲んだ眦を拭うと、もう行こう、と不貞腐れたように言われて手を取られた。どんどん先に進む青桐に朔は引きずられるようにしてついて行く。

 今日は冬休み最後の日。正月は親戚の相手から逃げそびれた青桐とは会えずじまいで、久しぶりに一緒に過ごす日だった。予定は何もなく、ただぶらぶらと街の中を歩くだけ。

 気が向いたら店に入り、目に付いたものを食べて、ただ話をするだけの一日。

 そんなふうに過ごす日が朔は好きだった。

「早いよ、青桐」

 つんのめりそうになって朔は言った。視線を上げた先の青桐の後ろ姿、彼の耳は真っ赤になっていた。

「──…」

 言わなければならないことがひとつ朔にはあった。帰って来た母親から言われたことを青桐にも聞いて欲しかった。

 けれど。

 また今度にしよう。

 青桐が振り返る。

 ごめん、と言って歩く速さがゆっくりになった。

 そうして朔は青桐に言うタイミングを逃してしまった。

 


 新学期が始まり、いつもの日常に戻った。一週間のほとんど毎日を青桐と一緒に帰る。木曜日は相変わらず図書委員として前村と安西と、ほぼ固定メンバーとなった3人で閉館時刻まで図書館で過ごした。それにもうひとり。

「どんだけ暇なのあんた、藤本が大概迷惑だよ」

 呆れた声で丸テーブルに座る青桐に安西は言った。そこはもう今では青桐の定位置となっていて、最初はおっかなびっくり遠巻きにしていた周りにいる子供たちも、最近は絵本を読んでとねだるほどそこにいる青桐に馴染んで、受け入れていた。

 うるさそうに青桐が安西を見上げた。ごく親しい者にしか見せない顔だ。

「なんだよ、おまえこそ…」

「ねーねーねー」

 青桐の袖を小さな手が引っ張った。

「にーちゃんこれ読んで! これっ」

「漢字多くって読めないー」

「はあ? なんだよおまえら」

 腕に纏わりつく準一とその友達に青桐は嫌そうな顔を向けた。でもすぐにしょうがねえなあ、とぶっきらぼうに言って差し出された本を受け取った。

「おお、でっかい子供が子供に馴染んでて見分けがつかないわ」

 せがまれるままに本を読んでやる青桐に対する安西の感想はストレート過ぎて、朔は笑うしかなかった。

 学年末に進路票の最終提出があり、朔は迷いながら志望する大学を書いた。担任からはもう少し上を狙えると言われたが、確実なところがよかった。それに担任の薦める大学は私立であり、そこに行く選択肢ははじめからなかった。両親に負担はかけたくない。そう言うと、家の事情を知る担任は、それ以上強くは推してこなかった。

「それで、お母さんから話は聞いたけど、どうするんだ藤本」

「はい、あの」

 答えははじめから決まっていた。母親も分かってはいたが、猶予は与えられていて、最終的な判断は朔に委ねられていた。

 朔は担任にこのままで、と告げた。

「このまま、卒業までこの学校にいたいと思います」

「そうか」

 分かった、と担任は頷いた。

「ひとりは何かと大変だろうけど、困ったことがあったらいつでも言ってこいよ。相談に乗るからな」

「うん、ありがとう先生」

「お母さんもおまえも大変だな。でもまあ、色々だしな」

 担任は朔に笑顔を向けた。

 とんとんと手の中の資料を机の上に落として綺麗に揃える。

「じゃあ、この方向で進路指導を引き継いでいくよ」

「はい、お願いします」

 と朔は頭を下げた。


***


 あの日父親の元から帰ってきた母親は、朔に言った。

『あのね、お父さん、やっぱりもうこっちには戻って来れないみたい。年末にね、辞令っていうか、そう言う話が出て…』

『…そっか』

 薄々朔は勘づいていた。母親のちょっとした様子の変化には人一倍敏感な方だ。父親が不在の中、長くふたりだけで生活してきたからかもしれない。今回母親が父の元に行ってくると言ったとき、何か重要な話があるのだろうと思っていた。

『うん、それで?』

 話の先を促すと、母親は手の中のカップを回しながらため息混じりに言った。

『お母さん、このままお父さんをひとりにしておけなくて…それでね、近くに今の会社の支店があって、そこに異動出来ないかちょっと聞いてみたんだけど』

『空きがあった?』

 はあー、と母親は大きなため息を吐いた。

『そうなのよねえ、タイミングっていうか、なるべくしてっていうか、たまたま今年度末で退社する人がいて、その後にどうかって言われてねー』

 はああああ、と吐き切った息のあとに、母親はカップを持ち上げた。もう温くなってしまっただろう紅茶を、こくりと飲んだ。

『いいよ、行けば』

 朔がそう言うと、ぎょっとしたように母親は背筋を伸ばした。

『朔を置いて? 今年受験生なのに?』

『だって行くつもりで会社に話通したんだろ?』

『そうだけど、そうだけどお』

 まさか本当に話がトントン拍子に進むなんて思わなかった、と母親が心底複雑そうに呟いて、朔はしかたないなあ、と笑った。

 母親は昔からこういうところがある。豪胆でさっぱりしていて行動力も決断力もあるのに、いざ事が決まると勢いをなくして尻込みしてしまうのだ。

 そしてその背中を押すのは、いつも朔の役目だった。

『俺は大丈夫だよ。どうせ卒業したら一人暮らしの予定なんだし、ちょっと早くなっただけだよ』

『それは…そうだけどお』

『父さん、このままずっとひとりだと可哀想だよ。俺とはもう充分一緒にいたじゃない』

『朔…』

 目元を赤くした母親に朔はにこりと笑いかけた。

 掴んだ機会は逃しては駄目だ。

 次があるかなんて誰にも分からないのだから。

 ぐす、と鼻を鳴らして母親は紅茶を啜った。

 朔もそうして、ふと、気になったことを聞いた。

『ここ、卒業までいてもいい?』

 朔の家は賃貸マンションだ。母親が出ていくとなれば、もしかしていられなくなるかもしれない。

 出て行かないと駄目だろうか。

 そう言うと、大丈夫、と母親は眉を下げて微笑んだ。

『更新はちょうど朔が卒業したあとだから、気にしなくていいの』

 母親もそうなった場合のことを想定していたのだろう。あと残り一年で卒業で、受験を控えた身で、朔が転校するのは最初から母親の考えにはなかったはずだ。

 そっか、と朔は頷いた。

『じゃあバイトして、ここの家賃少し入れるよ』

 予備校の合間にバイトを入れよう。大した額ではないだろうが、少しでも助けになればと思った。

 けれどとんでもないと母親に叱られた。

『朔はちゃんと予備校だけ行きなさい』

 そして、もしも気が変わったなら、一緒に行く気になったなら、いつでもいいから教えて欲しいと涙声で言われた。



「朔、どこにした?」

 青桐がそう訊いて来たとき、外は雪が舞っていた。

 二月の終わり。

 暖かな店の中で向き合ってコーヒーを飲んでいた。

「うん、自分が行ける確実なところにしたよ」

 志望する大学を朔は青桐に教えた。

 少し黙り込んだ青桐が、意を決したように、朔、と名前を呼んだ。

「俺も、そこに一緒に行っていい?」

「…え?」

 戻そうとしたカップの底が、かちゃん、とソーサーに当たった。

 店内は暖を取りに入った客で満席に近かった。

「朔と一緒にいたい。大学も、同じがいい」

「同じがいいって──」

 さわさわとした人の話し声の中、朔の鼓動がとくとく、と速くなっていく。

 その大学は青桐のレベルからすると二段階ほど下げた大学だった。彼ならもっともっと上の大学が順当だ。なのに──なぜ、大体それを周りが認めるとは朔には思えなかった。青桐は期待されていた。

 家族にも学校にも。

 彼の家族のことはよく知らないが、話の端々に朔はそれを感じ取っていた。

 だが、朔がそう言っても青桐は一歩も引かなかった。

「関係ない。俺は、朔と同じところに行きたい」

「なんで、そんな」

 大学進学となればお互い上京するのを知っていた。だったら大学が違っても近くにいる。連絡は取り合える。遠く離れているわけではない。会おうと思えばいつだって会えるのだ。

 なのに、どうしてそこまで。

 困惑する朔の目を見て青桐は言った。

「朔と離れたくない」

「──」

 息が、止まるかと思った。

 胸の奥から何かが迫り出して、今にも溢れてしまう。

「ずっと一緒にいたい。これからも」

 だからどうして?

 朔の問いには、いつも青桐は答えをくれない。

 ふたりはそのまま店を出た。

 雪の舞い散る夕闇の中を歩いた。

 何を言えばいいのか分からず黙っていた。そんな朔のすぐ後ろを、寄り添うように、青桐もまた黙ったまま歩いていた。

 唇にひやりとしたものが付いた。

 雪だ。

「朔」

 呼ばれて振り向いた。

 そして。

 一瞬だった。

「──あ、お」

 人気のない道端、いつもの風景の中で、朔は柔らかく唇を塞がれていた。

 キスだ。

 雪が溶けていった。

「な…、ん、で…」

 温かな手が頬を包む。

「雪、ついてた」

 雪が。

 あとからあとから落ちてくる。

 牡丹雪。頬に落ちたものをそっと払われた。

 卒業したら一緒に暮らそう、と青桐が微笑んだ。



 春が来て、三年に進級した。

 三年のクラス編成は大学受験の際、受ける専攻が文系か理系かによって決まる。宣言通り志望先を変えた青桐だったが、結局クラスは別れてしまった。朔が四組、青桐は五組、しかも教室の関係上、クラスのある階も上下と異なっていた。

 始業式のあと、泣きそうな顔をした青桐を朔は宥めた。自分たちは三年、受験生だ。もう今までのようにはいかないことのほうが多い。過ごす時間は減るだろうけれど、それはどうしたって避けては通れないことなのだ。

 新学期が始まり、同じような、どこか忙しない日々が過ぎて行く。朔は青桐の従妹の高瀬由生子と同じクラスだった。彼女は安西の友人だけあってどこか似たところがあり、とてもさっぱりしている。今まで何度か話しただけだったが、すぐに打ち解けて仲良くなった。

「藤本くん、ノート見せて、ちょっと書きそびれちゃった」

「いいよ、はい」

「ありがと。ここいいかな」

「うん」

 青桐と同じように前の席に座って朔の机の上でノートを書き写し始める。

「字読みやすいね」

「そう? ありがとう」

 高瀬は顔を上げてにこりと笑った。距離が近いような気がするのは、青桐との血の繋がりだろうか。

 ふわふわと癖のある長い髪を首の後ろできゅっ、とひとつにまとめてある。ほっそりとした体はただ座っているだけで絵になって、人の目を引いた。彼女もまた、青桐と同じスクールカーストの上位の人だ。

 だがそれを感じさせない気安さはよく似ていた。

「はー書けた! ありがと藤本くん」

 ぱたん、とノートをとじて、高瀬は軽く伸びをした。

 それからねえねえ、と身を乗り出してくる。

「今日木曜日だよね。図書館?」

「うん」

「また図書委員だね。花ちゃんと同じ」

「安西さんが委員長だよ」

 ふふ、と高瀬が笑った。

「由也が邪魔だってぼやいてた」

「ああ…」

「藤本くん、あいつがうっとおしかったらはっきり言ってあげてね」

 言われなきゃ分からない子供だもん、と高瀬が続けて、朔は苦笑した。従姉弟同士仲が良いのか、高瀬は度々朔に青桐のことを言ってくる。

「そんな、全然大丈夫だよ」

「そーおお?」

 頬杖をついた高瀬が不思議そうな目で朔を見た。

 どうしてそんな顔をするんだろう。

「うん。青桐といるの、楽しいよ」

 微笑むと、高瀬は一瞬きょとんとして、それから思い出したように笑った。

「ふうん…」

 そうなんだ、と呟いた高瀬の声に鳴り出したチャイムが重なった。



 眠っているのだろうか。

 そう思っていると、つつ、と横から脇腹を突かれた。

「藤本お、あれどうなの?」

 うーん、と朔は首を捻る。

「ねむ…ってる、かな」

「たくもう」

 呆れかえった声を零して、安西はカウンターに積まれていた本を抱え上げた。十七時を過ぎて、閉館時間となっていた。子供たちが帰ったあとの静かな図書館には、安西と朔、そして大きな丸テーブルに突っ伏している青桐だけだ。前村は三年の今期は図書委員ではない。進路指導の補助委員というこの学校ならではの委員になっていた。主に二年生の進路相談役といったところか。図書委員よりも前村には合っている気がする。

 三年になっても委員会の人手不足は相変わらずで、他の委員は図書館開放には来たがらない。安西と朔は去年一年間の経験者と言うこともあってか、顧問から名指しで木曜日を任されていた。

「居眠りすんなよなあ」

 安西がぼやいてカウンターを出た。

 朔も立ち上がって、カウンターから出た。書架に本を戻しに行こうとした安西が朔を振り返って、放っとけば、と言った。

「青桐」

 安西の足音が遠ざかっていく。

 近づくと、青桐はテーブルの上に組んだ腕に顔を乗せて目を閉じていた。長い睫毛が頬に影を落としている。安らかな寝息に、朔は苦笑した。

「…青桐」

 青桐の肩に手を置いて、そっと揺らした。

「青桐、起きて」

「ん…、」

 青桐が身じろいだ。

「もうみんな帰っちゃったよ」

 今日はずっと子供たちに折り紙をねだられていた。

 腕の下には折りかけの折り紙が敷き込まれていた。金色の折り紙。たくさんの折り皺。何を折ろうとしていたのだろう。

「一緒に帰ろう?」

 明日は予備校があるから帰れない。

 新学期から、朔は週三日予備校に通っていた。青桐には散々ごねられたが、最後には渋々納得してくれた。だから今日はとても貴重なのだ。

 いつも朔が終わるのを待っていてくれる。

 耳元でそっと囁くと、青桐が薄く目を開け、その瞳が朔を捉えた。

「…ん、終わった…?」

「うん」

 嬉しそうに青桐が笑う。朔も嬉しかった。

 こんな日々がずっと続くと思っていた。

 終わってしまうなんて、ほんの少しも思わなかった。

 綺麗な青桐の目には朔だけが映っていて──

 そして。



 その日、予備校の授業を終えた朔は帰ろうとエレベーターを待っていた。上の階から順に降りてくる表示が5階で止まる。

「またなー藤本」

「うん、また」

 開いた扉の中に入ろうとして、ぎくりと足が止まった。

 細川が立っていた。

 どうしてここに…

 驚きを隠せない朔とは反対に、彼女はじっと朔を見ていた。

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