第8話 これが絵師たちの思いぞっ


 信春の背に担がれている、束ねられた紙は量の割りに重い。

 なんといっても、なかなか市中に出回らない、大判の雲母きらら紙なのだ。本来、短冊や経典などで使われる紙であるし、高価なものなのだからなかなかお目にかかれない。

 だが、それを在庫として量を持っているあたり、やはり日本一よと言われる狩野だけのことはある。


 だが、信春にとって、狩野などいつかおのれの足元にひれ伏させる相手に過ぎない。

 絵師にとって一番必要なものは、才である。

 これがなくては始まらぬ。

 そして、これさえあれば、他はいらぬ。


 狩野の源四郎は、若くして棟梁に納まるだけあって、その才は恐るべきものがある。だが信春は、自分の才はたとえ紙一枚分でも、源四郎の上を行くと思っている。

 これから10年の間には、互いの立場は逆転していよう。

 派を守るために汲々としている源四郎の後塵を、いつまでも浴びているわけにはいかない。


 とはいえ、今は源四郎に助力することに異存はない。

 それこそ、今晩の行いは下手をすると死ぬ。それがわかっていても、だ。


 関白様はいい。

 あの人は良いお方だと思う。

 だが、相手が松永だと言うだけで小憎らしく、鼻をあかせてやりたくなる。きっと、今晩のことが上手く行けば、さぞやさばさばしたいい心持ちになれるだろう。


 それに、正直に言って、小蝶という娘は可愛い。

 信春は国に嫁をおいてきているし、特にどうこうしようという気はない。それに、正直に言って、信春好みの良い女というより小娘に過ぎぬ。

 だが、子雀が必死で飛び回っているような健気さと、厚かましいまでの生命感が同居している。

 京ではなかなかに見ない種類の女だ。

 あれは源四郎には御しきれまい。それもまた一興だ。


 だが、その健気さと生命感、松永に差し出せば共に失われてしまうのは自明のことだ。

 それを信春は惜しむ。

 仏画ばかりを描いてきた信春には、天然自然のものの美しさが逆によくわかる。それを失わせてはならぬと思うのだ。



 − − − − − − − −



 戦さ場には、子供の頃から無縁ではなかった。

 さすがに元服前の身では戦いの現場に出ることはなかったが、いくさのあとの大根のように手足が散らばり落ちている風景ならば否応なく見ることがあった。

 自分もその中で、策に酔い、戦いに酔い、血に酔って生きていくものだと思っていた。


 転機が訪れたのは、直治が八歳のときだった。

 古典、論語の師が、戯れに描いた落書きを見て顔色を変えた。

 そして、父と短い時間を話し……、上洛が決まったのだ。


 元服した今ならわかる。

 あまりに荒れた国の、城主の生命は軽い。そして、それに連座する子息の生命はさらに軽い。重要なものなのに軽いのだ。

 その軽いままに息子の生命が失われてしまわぬよう、父は計らったのだ。


 次期城主として、正妻の長男がいる。

 過酷な人生を運命付けられた弟だ。

 その弟が死んでも、妾腹の息子には生き延びて欲しい。

 これは、父の悲願と言える。


 絵師は僧籍と馴染みが良い。現に狩野の棟梁殿の祖父は、僧の位である法眼を得ている。

 これは、寺社の障壁画を描き続けた結果ではあるが、半僧半俗と見られれば、生き延びやすくなる。

 その一方で、僧と違い寺に縛られない。

 その立場に対する、一族の期待も十分にわかっている。


 だが、その自分が唐人から仕入れた荷物とともに、戦場とも言えるこのような場所に足を踏み入れることになるとはと、なんとも言えぬ思いがある。


 さらにその一方で……。

 上洛し、一定の庇護を与えてくれている狩野の家には恩義を感じている。

 それだけでなく、上洛して源四郎という当代の棟梁殿の描くものを見て、単純に負けたと思ったのだ。


 世間は広い。

 国許では、自分に並ぶ者はなく、天地一の絵師になれると信じていた。

 だが、正直に言って、狩野の棟梁殿とその妹にも、七尾から来た信春にも敵わない。

 同じ歳になるまで年月と研鑽を重ねても、円熟味は増すだろうが、才のほとばしりが増すことはもうないだろう。


 その才気の塊のような者たちと一緒にいられるのであれば、このくらいのはかりごとは、「当然のこと」として加わることができた。


 ただ、あえて言うならば……。

 絵以外はいろいろと破綻した人たちだとは思っている。

 信春は浮世離れしすぎていてわけがわからない。あれでどうして生きて行けているのか、さっぱりわからないのだ。

 絵の才があるのはわかるが、だからといって、それで安泰に生きていける保証はないではないか。なのに、懐に残っている銭を、絵を描く紙のために最後の一枚まで使い切ってしまう。ただ、それなのに、次の飯時には誰かしらが銭を出してくれるのだから、自分から見たら別世界の生き物にしか見えない。


 狩野の棟梁殿も、絵と派のことについて以外は、ほとんど眼中にない。

 能力がないわけではない。

 世の動きを読むことについて当を得た助言をいくつかしたのみで、みるみるうちに自ら考えるようになった。

 だが、日々の生活という能力については使われることがないので、欠落したままなのだ。


 おそらくは妹の細々とした日々の気遣いがなかったら、棟梁殿は途端に日々の生活にも困るのではないか。

 上位の方たちに会うために衣はまだいいとしても、食と住は妹に完全に頼りきりだ。そして、それに気がついていない。

 やはり、棟梁の家に生まれ育ち、絵に関わることのみを考えれば良いということなのだろう。


 それに……。

 棟梁の妹殿は、絵の才がある上に、狩野の家宰役まで司っている。

 直治からは、自分の二つ年上の神女に見える。密かに姉かと慕っているのに、それが物のように巻き上げられるというのは許せなかった。

 なんとしても、渡すわけにはいかないのだ。



 − − − − − − − −


 頭が優しく持ち上げられ、頬の下に布が挟み込まれた感触がある。

 兄上様が、気遣ってくださったのだ。

 さらに身体になにかを掛けられた。身体を冷やさぬようにと、重ねて気遣ってくださったのだ。


 普段は関心がないように振る舞われ、近寄れば避けられる。

 なのにときおり見せる、兄上様のこの優しさはなんなのだろう。


 自分の体の半分もあるような版木を刷り続けて、三日三晩。

 全身の肉という肉を使わねば、このような大きな版木は刷れない。

 爪の間にまで墨は入り込み、とてもお見せできるような手ではない。

 兄上様からは嫌われるかもしれない。それでも、あまりの疲労感に身体が動かない。


 信春殿も、直治殿も、この三日間、ひたすらに雄渾に筆を動かし続けられていた。

 このような絵は私の中にはない。

 なので、版木を刷る役目を買ってでたのだが、これほど厳しい仕事とは思っていなかった。


 わかっております。

 本来ならば、この身で済むことであれば行かねばならなかった。

 死して逃げても、狩野の家名に傷をつけることになる。実の父があてにならぬゆえに、狩野の父が私を拾ってくださった。

 その御恩に報いるためには、本当ならばそれしか無かった。


 なのに私がそうしなかったのは、兄上様が気まぐれにみせる優しさに、一縷の希望を抱いてしまったからだ。


 この家に来て初めてお会いしたとき、兄上様は目すら合わせようとされなかった。それでも筆と絵を通して少しずつわかり合うことができ、いつの間にか私は兄上様を他の誰にも渡したくないと思うようになった。


 関白様は、お見せした花鳥図から、そのような私の心情をも見抜かれているのだろう。

 初見でご覧になられたからこそ、お気づきになったのかもしれない。

 私の絵をご覧になり、ぐいと仰られたのは、きっと私の心情が形になり、溢れてしまっているのにお気づきになられたからなのだ。


 兄上様、今は甘えさせてくださいませ。

 今回のはかりごと、上手く行かぬようであれば小蝶は自ら松永殿のお屋敷に参ります。

 ですから、せめて今は……。

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