第006話 ダークエルフとおわかれ
「明日が……こない?」
意味がわからなかった。言葉の意味も、涙声の理由も。いや、理解したくなかった。その先にはきっと、僕が望む答えは絶対にないという予感がしたから。
「……世界が繋がるのは……今日で、終わりじゃ……」
「今日で、終わり……? どうして……」
「世界が繋がるのは、陽が七度落ちるまで。もう、今日で終わりなんじゃ……」
陽が七度落ちるまで……つまり7日、一週間だけ?
いやでも、
「……僕らが会ったのは、今日でまだ3日目だ」
だから理屈に合わない。だからダクタの言ったことは、きっと間違いだ。そうに違いない。そうであってほしい。
「……出会ったのは3日前でも、僕たちの世界が繋がったのは、そこから……4日前、なのか」
僕は僕の考えを自分で否定してしまった。そう考えると、理屈に合ってしまうから。それでも、さらにそれをダクタに否定して欲しかった。だけど、ダクタが闇の中で頷いた気配を感じて、僕の希望は潰えた。
「……また、繋げられないのかな? 同じように、もう一度」
僕は足掻いた。なにか方法がないのかと。でも、答えはわかっている。そんな方法があるなら、ダクタがこんなふうになるわけがないんだから。
「繋げるに必要な古代の遺物は……使い果たした。最後じゃ、最後じゃった……最後の最後に、もうどうでもよくなった最後に、おぬしの世界と繋がった」
ダクタは古代魔法で世界を繋げたと言っていた。発動にはなにかしらの触媒が必要で、それがもうない。世界は二度と繋がらない。
「なら、これで、終わり……?」
こんなにも、呆気なく終わるのか? たった3日、たった3日だ。それでこの夢のような出会いは終わり。明日からは僕もダクタも、それぞれの日常に戻る。
「そっか……」
思考が上手くできない。もはや今のこの状況が、既に夢なのではないかと思えるくらいだ。
「明日からは元通り、か……」
僕は大きく息を吐いた。それから数分間、僕は押入れの闇を眺めていた。なにを考えるでもなく、ただ眺めていた。
「……僕も、ダクタに会えてよかった」
ぽつりとこぼれた。そんな台詞が出る時点で、たぶん僕はもう完全に諦めてしまったんだと思う。
だけど、
「……ゃじゃ……」
だけど、
「……嫌、じゃ……」
だけど、
「……嫌じゃっ!」
ダクタは違った。
「……ダク――」
胸に覚えがある衝撃が走った。ダクタだ。ダクタが飛び込んで来たのだ。
「……戻りとうない……戻りとうない……」
ダクタは泣いていた。
「嫌じゃ、嫌じゃ! 帰りとうない……あの世界に帰りとうない……」
涙を流し、声を震わせ、ダクタは怯えている。
「誰かに、虐められるの?」
ダクタはダークエルフで、自分をその容姿から半端者と自嘲していた。ならそれが元の世界に帰りたくない理由かと思ったが、
「そんなやつはおらん……誰もおらん」
「なら、どうして……?」
「誰も、おらんのじゃ……」
そこで僕は悟った。突拍子もない妄想だったが、なぜかそれこそが答えだと確信した。これまでのダクタの言動、感情、行動。どこか違和感のあったそれらと今のダクタの反応を合わせると、浮かび上がってくる答え。
「キミ以外には、誰もいない……?」
ダクタは僕の胸の中で頷いた。
「余の世界には……もう、余しか残っておらんのじゃ……」
ぽつぽつとダクタは語った。今の、自分の世界について。
かつてダクタの世界――〝スノリエッダ〟には、数多くの国があったらしい。
それぞれの国は独自の発展を遂げ、独自の法の下に動いていた。しかし、国が多いということは、束ねる王も多いということだ。
ならば覇を極めんとする王が現れるのも、また必然だったのかもしれない。
戦いは戦いを呼び、戦渦は広がった。人も魔も聖も、あらゆる種族が戦った。
数え切れない涙と悲鳴。数え切れない血と憎しみの連鎖は続いた。
だからダクタは、逃げた。
混血として疎まれ、唯一の肉親であり理解者だった祖母が既に他界していたこともあり、迷いも未練もなかった。
古代魔法を使い、いつ目覚めるともわからない眠りについた。
ダクタは争いのない世界を望んだ。
そして願いは叶った。
目覚めた世界に、争いはもうなかった。争いを巻き起こす者達、全てが姿を消していた。ダクタの眠りは、300年も続いていたのだ。
超常的な能力――魔法を、際限なく他者を滅ぼすために使う戦争。その果てになにがあったのか、ダクタにはわからない。ただ、現実として300年という月日が、世界から人の気配を消し去った。
それからずっと、ダクタは〝誰か〟を探していたらしい。自分以外の誰かを。
探して探して、探し尽くして、200年探しても、誰もいなかった。
ダクタは、本当の意味で、ひとりぼっちになった。
「だからキミは、別の世界と……」
繋がりたかったのだ。
自分の世界にはもう誰もない。だけど別の世界なら、誰かいるかもしれない。
そしてダクタには、それを可能にするかもしれない魔法が使えた。
それは希望だったのか、それとも絶望の始まりだったのか、僕にはわからない。
「…………」
ふと、固い物が顎に触れた。ダクタのティアラだ。〝王さまごっこ〟をして、気に入ったからそのまま被っていると言っていた。
王さまごっご。
誰もない玉座で、彼女はなにを思ったんだろうか。
世界の繋がりが終わっても、僕たちの人生は続いていく。
僕には戻れる日常がある。
たった3日でも、ダクタと話せて嬉しかった。だからすごく悲しむと思う。泣くかもしれない。だけど、いつかは思い出になる。思い出に、なってしまう。
いつの日か、この出会いを笑い話にして、語る時も来るかもしれない。
分厚い人生という本の、1ページとして。
だけど、ダクタはどうだ?
彼女の周りには、誰もない。
帰るべき家はあっても、そこには誰もないのだ。
ダクタはこの出会いを、思い出にできるだろうか。
彼女の未来は闇に染まっている。そんな暗黒の、文字通り真っ暗な押入れという小さな世界に現れた僕は、彼女にはどう映ったんだろうか。
たぶん僕だったら、こう思う。
こんなことなら、いっそ出会わなければよかった、と。
「誰もおらんと思っていた。狭くて、暗い世界。じゃけど、そこにおぬしが現れた」
ダクタは震えている。まるで、これからの未来に怯えるように。
「余は……独りでいいと思った。独りのまま消えていくのも……」
緩やかな滅びをダクタは受け入れていた。
「じゃが、おぬしと出会ってしまった……!」
悲痛な叫び声だった。
「おぬしと話した、おぬしに触れた、おぬしを知ってしまった……! 人のぬくもりを、思い出してしまった。別れの辛さを、思い出してしまったんじゃ……」
ただ絶望に塗り潰されるだけなら、諦めがついたかもしれない。
だけど、彼女は一筋の希望を見出してしまった。
希望があるが故に、絶望に染まりきれない、もがいてしまう苦しさ。
「嫌じゃ……りゅうのすけと離れたくない……独りはもう、嫌じゃ……」
嗚咽を漏らすダクタを、僕は抱きしめた。強く、強く。そうすれば、ダクタをここに留めておけるような気がして、そう思いたくて。
だけど、
「……!?」
ダクタが遠くなった。そう感じた。そしてそれはだんだんと強くなってくる。
世界が離れている、そう直感した。
もちろんダクタにもそれはわかった――いや魔法の才がある彼女には、もっと正確に伝わったはずだ。なぜなら、
「嫌じゃ!」
いっそうダクタの身体が震え、僕に強く抱きついてきたから。
「ダクタ……!」
僕には魔法なんて使えない。でも、だからこそわかった。もはや、どうすることもできないということが。
「…………」
僕は力を緩め、ダクタの頭に触れた。まだ震えている。
「…………」
頭に触れ、髪を撫で、肩を優しく掴む。
「……ダクタ」
そして右手を、ダクタの頬に重ねる。
「……りゅうの、すけ」
ダクタが顎を少しだけ上げるのがわかった。僕の方へ、顔を近づけているのがわかった。たぶんダクタも、僕がそうしているのがわかっている。
これで終わりだとしても、最後の最後に、僕たちは想いをひとつにしたかった。
だけど、
「…………」
僕たちの気持ちが解け合う前に、全てを闇が連れ去った。
「……ダクタ?」
もう、腕の中に彼女の温もりはない。
「……ダクタ?」
もう、声は返ってこない。
「…………」
その代わりとばかりに、起こる変化。じめじめとした暑さが、ふすまのわずかな隙間から光が、外を走っている車の音が、戻ってくる。
「…………」
僕は押入れから出た。立ち上がり、思い切り背筋を伸ばす。ちらりと時計を見ると、時刻は午前0時ちょうど。
「…………」
僕は振り返り、ふすまに手を掛け、一度閉めてから、開けた。
「…………」
掃除機があった。
スナック菓子があった。
暖房器具があった。
プラモデルがあった。
ゲーム機があった。
なくなったはずの物が、元に戻っていた。
何事もなかったかのように、元通りだ。
まるで、この3日間の出来事が、全て夢だったかのように。
そこにあるのは、ただの押入れだった。
僕たちの奇妙な出会いは、押入れから始まり、そして押入れで終わった。
◆◆◆
7月31日。
あれからもう、気づけば一週間経った。
ダクタと言葉を交わしたのは、たった3日間だけ。
もうその倍以上の日数が経ってしまった。
夏休みはまだ始まったばかり。
なのに、もう全てが終わってしまった気さえする。
あんなに待ち望んでいた夏休みが、ちっとも楽しくない。
夏は、まだ続く。
ひと夏の儚い幻は、掴む間もなく消えてしまった。
夏の暑さで生まれた、陽炎のような淡い出来事。
僕の部屋の押入れは、ただの押入れのままだ。
思い出すたびに、胸の奥が苦しくなる。涙だって出る。
でもきっといつかは、思い出となって、誰かに話す時がくるのだろう。
もっとも、誰も信じないだろうけど。
押入れの中にダークエルフがいた、なんて。
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