第3話 あの子の声を聞いた

残りの夏休みや学校が始まった以降も、僕は自分が出来るあらゆる行動をした。例えば、あの子の通う女子高の掲示板関連を色々見て、彼女に関する情報のようなものがないかくまなく探したり、部活で学校に通っているかもしれないという理由で、あの子の学校の周りをさり気無く散歩したり、乗り降りする駅に降りて、彼女が慣れ親しんでいるはずのそこに広がる景色を眺めたり道を歩いたり。そうすれば少しだけお互いの感性を近付けることが出来るかもしれない、なんて考えたりして。家の近くの神社に、あの子と結ばれますように、なんて祈ったりもしたよ。


妄想劇場も、近くのレンタルショップで映画のDVDを借りることで頻繁に開館しては閉館を繰り返した。様々な映画の中で描かれる主人公とヒロイン。それは僕とあの子に自然と変わり、あの子は時に周りから理解されず孤立する僕を唯一理解しようとする賢い女子生徒や、犯人捜しに躍起になるも罠にハマり閉じ込められた僕を必死に探し出し助け、ついでに犯人も退治する女刑事、キャンプ場で他の仲間達が謎の殺人鬼に殺される中、甲高い悲鳴をあげつつも僕と共になんとか殺人鬼を退治しようと躍起になる女子大生、研究の為自ら実験台になったことで怪物と化してしまった僕をなんとか元に戻そうとする同僚の研究者、戦争に行った僕を海が見えるひまわり畑で一途に待ち続ける恋人、南イタリアを頭にスカーフを巻いて古いオープンカーで新婚旅行、オリーブの木実るだだっ広い果樹園でかくれんぼする妻等を演じていた。


しかし、その妄想もリアリティを意識すれば、僕とあの子のビジュアルの差が浮き彫りになる。自分に似た人間が主役の作品が有れば救われたかもしれないが、そんなものは洋画にしろ邦画にしろ漫画アニメにしろなかなか見つからない。夜、眠る前に歯を磨きながら眺める鏡は、毎夜僕を現実という名の拳で殴り続けた。結果、妄想劇場が閉館すれば僕は自身の髪、顔、筋肉、身長等を時に恨んだりするようになった。そして、追い打ちをかけるかのように応募したシナリオの結果が来るもやっぱり落選、その日の鏡にはいつも以上に脱力した情けない顔の男が映っていた。もはや三枚目芸人以下だよ。


そして秋から冬、卒業まであの子に関する印象的な出来事は残念ながらほんの少しだ。まず1つは、帰宅時の出来事。その日もいつも通り学校が終わり、帰りの電車に乗り込んだのだが、部活の大会帰りの学生も居た為か、普段よりも車内は混んでいた。いつもは座れた席も埋まっており、仕方なく入口付近の手すりに掴まって電車は発車した。


立ったままテキストを取り出して勉強する気分にもならず、僕は受験勉強で最近眺めていなかった外の風景を眺めることにした。久々故に少々新鮮味を取り戻しつつあった風景が映る窓に、斜め後ろのロングシートが微かに反射する。そこに座っているのはサラリーマン風のおじさんに子供連れのお母さん、そして、、、あの子だ!


電車の窓は、限られた時間であるものの僕に豊かな時間を与えてくれた。普段なかなか見る事の出来ない、あの子の全体をとらえた姿は何より貴重で、登校時見かける姿よりも疲れこそ見えたが、途中通るトンネルに入ったことで一瞬より鮮明となる整った顔立ちは、僕が彼女に一目ぼれした瞬間の衝撃さえ蘇らせた。


しかし、迷惑にならない程度に、ほんの少しだけ足を伸ばし携帯を操作する姿は、どこか他者を寄せ付けない、強いオーラを放っていたのもまた事実だった。そのオーラは、単に画面に集中している真面目な表情だけでなく、クールで直線的要素を多く含む顔の系統でより力強さを帯びていた。もはや、直接眺める事はなくとも不思議な罪悪感が少しずつ募る。たとえ自分が声を掛けたとしてもイメージ通りの冷たい対応を、僕という人物に対しあの子が用意するのは想像に難くない。


そんなイメージを膨らませる中、電車はある小さな駅に止まった。降りる人は皆無で、鬱陶しい混み具合には相変わらず変化が起きない。電車のエンジン音を意識する程にちょっとした沈黙が続く中、ゆったりとしたテンポの足音と、それを追うかのようなへこんだ音がフロアに響いた。その二つの音の持ち主は、電車に入ってきた杖をついたおばあさんだった。


おそらく、そのおばあさんを見た乗客の意識は皆共通するものだったに違いない。「誰かが席を譲るべきだ」、と。元々多くの人間が慈悲深さを携えながら、それは行動として素直に表れない、それが日本人の特徴なんだと心で嘆き始めた瞬間、澄んだ声が僕の耳に届いた。




「あの、私の席に良かったらお掛けください」




そう、その声の持ち主はまさかのあの子だったのだ。しかも、おばあさんが電車に入ってほんの数秒経った段階で、その声は放たれていた。そしてにこやかな表情で立ち上がり、「ああ、ありがとうございます」というおばあさんの返事とゆっくりと席に座る様子をあの子はつり革に掴まり、おばあさんと面と向かう形で、つまりこちらには背を向ける形で眺め聞いていた。


反射する窓に彼女の顔は映らなくなったものの、その背中を眺めながら僕は様々な事を考えていた。初めて聞いたその適度に高く、適度に低い彼女の声。それに魅了されつつも、表面的なビジュアルや表情によって勝手に形成した偏見にも近付きつつある、自らの彼女に対するイメージを反省した。そして僅かばかりに知る事が出来た彼女の内面は、強くもあるが同時に曖昧でもあった僕の彼女に対する好意や愛情の輪郭をはっきりと形作ったのである。


もう一つのエピソードも混んでいる電車内で起きた事だけど、これは通学時。その日は雲の流れが早く、変わりやすい天気の日だった。家から駅まで歩く間は雨が降り、持参した傘は非常に重宝した。駅に着くと朝降っていた大雨の影響かダイヤが乱れており、少し遅れた電車に乗った時には普段座っている席は既に埋まっていた。僕は仕方なくボックス席の近くの手すりに傘をかけ、そこに掴まって電車は出発した。


乗車駅から数分程というさほど離れてない駅に着くと、たまたま近くのボックス席の乗客が何人か降りたので、僕は空いたボックス席の1つである奥の窓際の席に座ることにした。そしていつも通り膝の上のカバンを机にして、テキストが開かれる。雨は止んでいたものの、灰色の雲が空に広がっている。


間もなく、あの子の乗る駅に。座っているボックス席は全て埋まっており、電車が停車しようとする時でさえ誰も降りる気配がない。しかし、電車が完全に止まりドアの開く音が聴こえると、状況が変わる。僕の斜め前の席に座り寝ていたおばさんがその音で目を覚まし、若干急ぎ足で電車を降りて行ったのだ。そして入れ替わるように車内に入ってくる人の群れ。群れの先頭の人間がその斜め前の席に座る。柔らかな光を放つ雪色の肌の持ち主。それは、驚くべきことにあの子だった。こちらの方では雨が降って無かったみたいだ。


唐突に訪れ、実現された色々な意味での危機的状況に、僕の心臓は銃声のような音を発しながら、情熱と緊張の混色とも言うべき紅を体中の肌に走らせた。目の前ではないものの、僕は今までで一番近くあの子に近付いた。彼女、カバンを机にしてテキストを広げる。一瞬だけ、僕に影響されたのか?という疑問が湧いた。一番最初に彼女を見た時の再現と言わんばかりに、テキストの英単語は次々と僕の頭から弾き出される。しかし表情はいたって冷静で、視線はテキストに向けたままだ。ちゃんとその顔を眺めたい、堂々と何時間も眺めたい、そんな心の叫びが次第に内側で更に大きな音でこだまするのを感じながら、僕は矛盾する外面と内面のギャップに疲れさえ感じ始めていた。

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