第4話

時は一週間程前に遡る。


「ただいまー」


玄関に入ると、見覚えのあるスニーカーが鎮座しているのが目につく。その瞬間、両親の外泊で今日は家に一人、という僕のささやかな自由が消えた。


肩を落としながら居間に入ると、そこには、我が物顔でソファに腰掛けた、予想通りの背中があった。


「おかえり、幸弥」


「……何でいるんですか」


「貴之」兄さんが僕の方を振り返って言った。そんな兄に、僕ははっきりと「迷惑」を態度に出す。


しかし、兄さんは、とぼけた顔で言った。


「母さん達に言われたんだ。今日は二人共、知人の葬式で遠方に出かけるから、幸弥のことを頼むって」


「それは『何かあったら』ってことじゃないですか?何もないので帰ってください」


「そう言わないでほしい。幸弥に聞いてほしいことがあって来たんだから」


「そっちが目的なんじゃないですか」


呆れた。これじゃ僕が兄さんのことを頼まれているみたいだ。


僕が嘆息すると、兄さんがひらひらと手招きをして、ソファに座るよう促してくる。僕は渋々、兄さんの隣に腰を下ろした。


「それで……聞いてほしいことってなんですか」


「うん……その、これなんだが」


兄さんが手にしたスマートフォンの画面を僕に見せてきた。画面に表示されているのは、何も書かれていない、メッセージの作成画面。


「……これが、どうしたんですか?」


「送れないんだ」


「それはまあ、何も書いてないですから。『送信』が押せないのは当たり前じゃないですか?」


「そういうことじゃない……何と送ったらいいのか分からないんだ」


「はあ?」


首を傾げる僕に、兄さんは更に言った。


「友達を遊びに誘いたいが、どう誘ったらいいか分からない」


友達、どう誘ったらいいか、分からない。


兄さんの口から出たその質問を、検索にかけるみたいに頭の中で反芻する。


どう誘うかなんて、そんなの。


「友達なんだから普通に誘えばいいじゃないですか。誘ったことないんですか?」


「ない」


はっきりと言い切る兄さんに、そういえば兄さんが友人と遊んでいるところなんて、見たことなかったような、と今更気づく。


まあ、交友関係なんて、兄さんの──人の自由だ。


なかったからといって、どうこう言うつもりはないけど。


僕は、不思議な感覚に陥った。兄さんには何となく、誰かとの交際に精を出すイメージがないからだ。


しかし、今目の前にいるこの兄には、遊びに誘いたい友人がいる、らしい。


ちょっと面白いな。


ここはひとつ。


「……どんな人なんです?その『友達』」


僕が尋ねると、兄さんはスマートフォンの画面をじっと見つめながら答える。


「良い奴だ。これが友達なんだと思ったのは、そいつが初めてで、それで……この前『今度どこか遊びに行こう』と言った」


「なんだ、もう誘ってるんじゃないですか。それで、何て?」


「『いいよ』と言われたが……それ以降、話が進んでない」


「なるほど」


もっともらしく頷く僕の横顔に、兄さんからの縋るような視線が刺さっている、ような気がする。


その羨望ともとれる視線に、胸の内をくすぐるような仄かな優越感を感じつつ──僕は考える。


微妙な局面だ。


以前に軽く約束していたとはいえ、そのまま、お互い流してしまえば、おそらく兄とその「友達」が遊びに行く機会は永久に訪れないだろう。


それに、今兄さんが再度誘ったところで、適当に躱される可能性もなくはない。


これはおそらく、兄さん自身も感じていることなのだろうが、過去の「いいよ」には何の保証もないのだ。


だからこそ、兄さんはメッセージを送ることを躊躇っている。


初めての「友達」。


その「友達」にとって、兄さんがどんな存在なのかは分からないけど。


「……俺は余計なことをしてるんだろうか」


自問するような兄さんの呟きに、僕は反射的に返す。


「余計なことかもしれませんけど」


俯く兄さんの横顔が、らしくなく思い詰めているようで、僕は少し、苛立ちながら言った。


「……余計なことかもしれないですけど。メッセージ、送ったらいいじゃないですか」


「幸弥……?」


兄さんが顔を上げる。僕もまた、らしくなく、捲し立てるように続ける。


「一回言質取ってるんですから。それで後から『あれは建前だったのに』とか……敢えて言ってくるようなら、そっちの方が余計で、失礼です」


「みずきはそんなこと言う奴じゃない」


「じゃあ、それを信じて。兄さんは兄さんの思うようにすればいいんです」


僕の言葉に兄さんが目をぱちくりさせる。何か変なこと、言っただろうか。


突然、兄さんがふっと笑って言った。


「……それもそうだよな」


反対に、僕は眉間に皺を寄せる。


「何ですか。驚いたり、急に笑ったりして……」


「いや、やっぱり幸弥は……俺の弟だなと思って」


「意味が分かりません」


「お風呂、もらいます」と、再びスマートフォンに向かう兄さんに声をかけ、居間を出る。


階段を上がり、一度自室に戻ってから、浴室に向かうため、もう一度居間に入った時、兄さんはまだ、スマートフォンを睨んでいた。


つい気になり、兄さんの背後からこっそり画面を覗き込むと、そこには入力途中で止まったメッセージがあった。


『今度の』


兄さんは僕に覗かれていることなど、気がつかないほど集中しているようだ。集中しているとはいえ、指は全く動いていないのだが。 


本当に、仕方ない兄だ。


「の」の隣で、いつまでも明滅するカーソルに、痺れを切らした僕は、兄の肩越しに手を伸ばし、画面の「送信」ボタンを押した。


「っ!幸弥?!」


慌てて、こっちを振り返る兄さんに、僕は思わず笑ってしまう。いつも何を考えているか分からない兄の、こんな顔、すごく珍しい。


「な、何故こんなことを……」


「どうしたら取り消せるんだ」と、兄は、僕と手元のスマートフォンの間とを落ち着きなく、視線を動かしている。

そうこうしているうちに、送ったメッセージの端にちょこん、と既読表示がついてしまった。僕はまた可笑しくなってしまう。


「幸弥……」


恨めしそうに、兄さんが僕を見上げる。日頃、僕を振り回す仕返しだ。僕は自分でも、少しやり過ぎたかな、と思いつつも、敢えて言った。


「余計なことでしたか?」


「分かっててやったのか」


「まあ、少しは。でも──」


言いかけて止めた僕に、兄さんが首を傾げる。

そこでもう一つ、僕は兄さんに「仕返し」をした。


「僕は兄さんの弟なので」





「それがまさか、こんなことになるとは……」


フクロウ舎の前で、何やら楽しそうにしている二人──兄さんとみずきさんを見て、思わず呟く。


僕となこさんは、動物園の入園口を抜け、手近にあった顔出しパネルの影に隠れながら、二人の様子を窺っていた──パネルで写真を撮ろうと、裏側に回ってきた他の客に、微妙な顔をさせながら。


結局、僕はなこさんについて、兄さんとみずきさんのデートを「覗き見」することになった。


あんなに、なこさんの行いを責めながら、恥ずかしいけど──この奇妙な研修が行われることになった一因は、間違いなく僕だったのだ。


みずきさんには、ちょっと申し訳ないし、ここは責任を持って最後まで見届けるべきだろう。……多少の好奇心もあるのは、まあ、否定できないけど。


「でも、たかゆきがユキのお兄さんだったなんて知らなかったわ。なかなかカッコいいわね?」


「父に似たんだと思います……中身以外。そうか、なこさんはあの時いなかったのか……」


「あの時?」


「いえ、何でも。それより、僕としては、なこさんがみずきさんをデートの誘いに乗るようにそそのかしてたことが驚きですが」


「唆してないわよ。これを『研修』にするって言っただけ」


「もっとタチが悪いですね」


ここで僕は、おおよその察しがついた。


兄さんとメッセージのやり取りをしていたみずきさんに目をつけたなこさんは、このデートを「研修」にすると言ったのだ。


ということは、おそらく、小牧さんも一枚噛んでる。


そうでもないと、さすがにみずきさんだって、いきなり「女装で友人と出かけろ」なんて無茶苦茶なミッション、引き受けない。


大方、例の「好きな人」を、小牧さんに人質にでも取られたんだろうな──可哀想に。


みずきさんの「好きな人」か。


「……みずきさんの好きな人って、やっぱり、兄さん、なのかな?」


「ええ?そうなの?ユキ」


「いや、確証はないですけど……あの様子見たら、そうなのかなって」


パネルに丸く空いた穴から、兄さん達を指差すと、なこさんがパネルから顔を出して覗く。そこでパネルは、ようやく顔出しパネルとしての役目を果たした。よかったね。


「ちょっと、ユキ!」


ふいに、なこさんが興奮気味に声を上げた。僕は、自分の肩をバシバシ叩いてくるなこさんの手を払いつつ、尋ねる。


「どうですか、二人は?」


「せっかくだから、今の私、写真に撮ってよ」


「……目的見失ってませんか」


露骨に呆れている僕を見て、なこさんが「えー」と唇を尖らせる。


「いいじゃないちょっとくらい!あの二人全然フクロウの前から動かないし。ここからだと何話してるのかよく分かんないし。私だって、こうやって動物園に来るのは初めてだし……」


「研修なんじゃないですか?一応。小牧さんに怒られますよ」


「みずきのことは適当に見てるから大丈夫よ。それにほら、ちゃんと研修してるって証拠になるでしょ?写真撮れば」


「なりますかね、これ……」


「つべこべ言わないの。ユキもほら、一緒に撮りましょ!」


「はあ……」


やれやれ、と肩をすくめつつ、言われるがまま、なこさんのカバンからスマホを取り出す。と、ここであることに、僕は気がつく。


「あれ、このスマホ……誰かと通話中になってる?」



『み……き……そ……何か……近……な』



ぼそぼそ、と微かに声が──それも、とてもよく聞き覚えのある声が聞こえる。スピーカーに耳を寄せると、所々だが、その内容が聞き取れた。



『だって………難し……くて。上手く……入らないから……は……こういうの……上手いんだけど』


『そうか……』


「あ、貴之……あんまり……して……なっちゃうから、ちゃんと……ね』


『……難しいな』


『あ……いい感じかも……』



それは、間違いない。みずきさんと、兄さんの声だった。





「ところで……何で動物園なんだ?」


入園口を抜け、「とりあえず順番に動物を見ていこう」と歩きながら、貴之が尋ねてくる。


ここまで来ておいて今更感もあるが、俺は何と答えようか迷った。


動物園に行くよう勧めてきたのは、なこさんだからだ。


曰く「だって、楽しそうじゃない」と。


まあ、街中に出かけるよりはまだ、ここは人が少なくていいのかもしれないけど……適当すぎる。


ていうか「楽しそう」って、別になこさんが動物園に行くわけじゃないのに。


そう思いながらも、他にプランも浮かばず、貴之の方も特に行きたいところがあるわけじゃないようなので、動物園と決めてしまったんだけど。


でも、なこさんのことを貴之に言っても……。俺が動物園にしようと言った手前「なんとなく」と言うのも微妙だし。どうしよう。


「……た、貴之と行ったら楽しいかなって」


迷った挙句、そう口にしてから、俺は少し罪悪感を感じる。嘘ではないけど、心から、というわけでもない、無責任で、出来すぎた言葉。


「楽しい……そうか」


罪悪感は、貴之の、うっかりすれば見逃せたかもしれない、ほんの少し緩んだ口元を見たら尚更増した。


貴之が躊躇いがちに言う。


「……俺でも、楽しいって思うのか?みずきは」


「え?まあ……友達と出かけるのは好きだからな。って言っても俺、友達なんて、和臣か貴之しかいないけど……」


「そうか……そうなのか」


噛み締めるように繰り返す貴之の、それが、嬉しさの現れなのだと、俺は分かってしまった。

すぐ隣でそんな風に、俺のいい加減な言葉なんかで喜ばれたら、ますますばつが悪いのに。悪いのに……。


貴之が、俺なんかの言ったことで、無邪気に喜んでいることに、俺は少しだけ、嬉しくなってしまった。


本当、嫌な奴。


「みずき、フクロウがいるぞ」


貴之の声に導かれるように、視線を動かす。

気がつくと俺達は、猛禽舎やバードドームが並ぶ、鳥類エリアに足を踏み入れていたようだ。


貴之が吸い寄せられるようにフクロウの檻の前に向かうので、俺も後を追う。


手すりに腕をつき、フクロウをじっと眺める貴之が、小さな子どものようでちょっと面白い。


「フクロウ、好きなの?」


俺がそう尋ねると、貴之は俺に視線を戻して、ゆるく首を振る。


「いや……この動物園に来ると最初に見られる動物だから、つい」


「あー……なんか分かるかも。こいつ見ると、ここに来たって感じするし。もうずっといるよな」


「うん」


俺も貴之も、ずっと同じ地元で暮らしている。だから小さい頃に遊びに行っていたような場所は大体同じなのだ。


知り合ったのはごく最近なのに、同じ場所に、同じような思い入れを持っている。

それが今、こうして共有できているのは、なんだか不思議で、そわそわして、嬉しい。


「どうした?みずき」


「え……いや、何でもない」


ふいに貴之に顔を覗き込まれた。俺が少しぼんやりしていたからだろうか。何となく、恥ずかしくなり、逃げるようにフクロウに目をやると、フクロウが首(と言っていいのかは分からないけど)を傾げてこちらを見ていた。


その姿に、俺は思わず吹き出してしまう。


「ふっ……あはは……」


「何だ、どうしたんだ、みずき」


「ん……いや……あ、ははは……」


笑いを堪えながら見た貴之が、フクロウと同じように首を傾げていたので、俺はますます可笑しくなってしまう。


「な、どうしたんだ……みずき。何がそんなに面白いんだ」


「だ、だって……フクロウを見ながら、ちょっと貴之に似てるなーって思ってたら、本当に……貴之が同じ格好してるから……ふっ……!はは……」


「そうか?」


「ほら、それー……わざとやってるだろ」


「まあ、ちょっと」


「ずるい」


貴之の胸を小突くと、ふいに、貴之がスマホを取り出して言った。


「みずき」


「ん?」


「写真を撮りたい」


そう言いながら、貴之がスマホのレンズを俺の方に向けるので、俺は背中を丸めて伏せた。すると、貴之が眉間に皺を寄せる。


「フクロウが撮りたいんじゃない」


「え、じゃあ……何」


「みずきを撮る」


「お、俺を?」


貴之に手振りで促され、渋々、体を起こすが、ここでふと気がつく。


そうだ。今の俺の格好って──女装なんだった。


あまりにも貴之が無反応だから忘れかけていたが、こんな恥ずかしい姿、写真に残されてたまるか。


「た、貴之ちょっと待った!」


貴之の掲げるスマホのレンズを、慌てて、手のひらで覆って隠す。


「どうした、みずき」


「いや、ほら……俺なんかだけ撮ったってしょうがないだろ。やめとけって」


「でも、せっかく初めて遊びに来たんだから、みずきの写真が撮りたい」


「うーん……」


貴之のことを思うと、無下に断りづらい。


俺だって、和臣と初めて遊びに行った時、何とかして和臣の写真を撮りたいと粘った気がするし。

いや、貴之は俺に対してそれほどの熱量は持ってないだろうけど。


いつのまにか、俺まで、檻の中のフクロウと同じように首を捻ってしまう。どうしよう、何か良い方法は……そうだ。


「貴之」


俺は、貴之のシャツの袖を軽く引っ張り、貴之を自分の方に引き寄せて言った。


「じゃあ……せめて一緒に撮ろ。俺だけじゃ意味ないって」


目をぱちくりさせている貴之の手からスマホを奪うと、カメラをインカメラに変えて、俺と貴之と、ついでにフクロウが写るように、こちらに向ける。

フレームに収まるように、この3つの位置を合わせれば、俺の服装はほとんど写らないから恥ずかしさ軽減、というつもりだ。


更に、俺は貴之の背中にぴったりくっつくように、距離を詰める。貴之の背中に隠れれば、もっと自分の面積を小さくできるからだ。


目線はカメラに向けたまま、貴之が言った。


「みずき……その、何か、近いような」


「だって……自撮りって難しくて。上手く入らないから……和臣は、こういうの上手いんだけど」


「そうか……」


「あ、貴之。あんまり瞬きしてると、半目になっちゃうから、ちゃんとカメラ見ててね」


「……難しいな」


「あ、いい感じかも……」


ようやく、ちょうどいい角度を見つけ、俺は震える親指で撮影ボタンを押した。


シャッター音が鳴る、と思ったその瞬間。

鳴ったのは、ぽこん、と軽い音で。


「あ……動画だ、これ」


「……ぷっ」


慌てて録画を止める俺を、今度は貴之が笑う。


「笑うなよ」


「すまん。あまりにも……はは」


「……動画をスクショすれば、写真と一緒だし」


ムキになって、撮った動画をその場で再生し、ベストショットを探す。こうして見ると、貴之に大分、ぐいぐい寄ってるな……俺。撮る時は必死だったが、今更恥ずかしくなる。心なしか、貴之も戸惑っているように見えるし。というか。


なんか、照れてる?


「ふふ……」


「ん?どうした、みずき」


「ううん。何でも」


「あとでまた送って」と、貴之にスマホを返し、フクロウの檻を離れる。貴之が首を傾げながら、後を追ってきた。これはきっと、貴之の癖なんだろう。


「なんだ、楽しそうだな。みずき」


隣を歩く貴之の顔をちらりと見遣る。その顔にもう、「照れ」は見えない。いつもの、貴之だ。


もう一回。


「……言ったじゃん。貴之と行ったら楽しいって。だからだよ」


言ってから、ああ、魔が差してしまったと思う。口にした言葉はもう取り消せないのに。


「そうか」


それでも、貴之が眉尻をほんの少し下げて、はにかむのを見ると、やっぱり嬉しくなってしまった。


自分のひとことで、目の前の相手が反応を見せることが、こんなに高揚するなんて思わなかった。


すごく悪いことだと思うけど、一度知ったら、何度も手を出してしまう。


怖いな。


「みずき、次はどうする」


貴之が、いつのまにか貰っていたらしい園内マップを広げながら、話しかけてきた。二人で額を寄せ合って、地図を覗き込む。


「うーん……このまま動物園をぐるっとまわって、遊園地エリアまで歩いて行く?」


「そうだな。まあ、動物園エリアはすぐ抜けてしまいそうだが……」


「あー……そうだな」


地図上の道を貴之の指がするりとなぞっていく。水生動物、ゾウやキリン、ホワイトタイガーのいるゾーンを抜けたら、動物園エリアはそこまでで、あとは敷地のほとんどを占める遊園地エリアになる。


地元唯一の大型レジャースポットであるこの動物園は、飼育されている動物の数よりも遊園地エリアのアトラクションの数の方が多いのではないかと言われていた。知らんけど。


「折角だから、あれに乗らないか?みずき」


と、ここで、貴之の指がある一点でぴたりと止まる。そこにあるのは──。


「あれって……観覧車?」


「乗ったことないから乗ってみたい」


「えー……」


マップでも一際目立つ、極彩色の大車輪。誰がどう見たって、この遊園地エリアで一番の目玉アトラクションなんだろうけど。


「嫌なのか?」


渋る俺に貴之が尋ねる。「嫌っていうか」と、前置きしつつ、俺は言った。


「観覧車って何か怖くない?ガタガタいうし、密室だし、じわじわ上がっていくし……」


「『貴之と行けば楽しい』らしいから大丈夫じゃないか?」


言われた瞬間、やられたと思った。少し調子に乗っていた俺への仕返しなのか。


しかし、横目で見た貴之の顔は、いたっていつも通りだ。素で言ってるのか、こいつ。

なんだか、俺ばかりが勝手に意識しているみたいで、恥ずかしい。実際そうなんだろうけど……。


でも、さっき、明らかに照れてたよな?


この時、俺は少し意地になっていた。何とかして、もっと貴之の感情を揺さぶりたい。


上目遣いに貴之を見ながら、思い切って、俺は言った。


「全然大丈夫じゃない。それより……どうせならあっちにしない?」


指差す先は──湖上に浮かぶスワンボート。





「全く、みずきってば、うっかりさんね。私との電話を切り忘れてるのにまだ気づいてないのよ?だから二人の会話はこっちに筒抜けってわけ。一応、電話を切らないでおいてよかったわ。私ってば冴えてるわね!」


「いや、なこさん、ただ切り忘れてただけじゃないですか。自分の手柄みたいに言ってますけど」


「う、そうだけど……」


「それにもう完全に二人を見失ってますしね」


「……」


気まずそうに僕から視線を外すなこさんに、僕は嘆息する。そして、片手に抱えた紙袋から、熊の形をしたカステラをひとつ口に運んだ。


「ユキだって楽しんでるじゃない!私にもひとつちょうだい!」


「自分で買ってください」


頬を膨らませて僕を睨むなこさんはさておき、僕はここまでの状況を整理する。


なこさんのスマホが通話中であること、その相手がみずきさんであることに、僕が気づいたのは、つい一時間半前のことだ。


音声が不明瞭なせいで、妙にいかがわしい会話になっていたけど……まあ、兄さんとみずきさんに限ってそんなわけない。


しかし、これは二人の、いや、みずきさんの様子を探るにはうってつけだ。僕はすぐになこさんに報告した。したのだけど。


『なこさん!この電話、繋がったままになってますよ。二人の会話が……』


『え!何それ本当?!何、何話してるのよ!』



【……じゃん……と……って……】


【……か】



『なんだ。なんにも分かんないじゃない』


『二人とも、よく話す方じゃないですしね……僕が気づいた時にはまだ、会話が聞き取れましたけど……』


『じゃあ、もう聞いててもしょうがないし、気持ち切り替えて、パーッと遊んだ方がいいわね!』


『なこさんは遊びたいだけじゃないですか』


『だって!どうせ後で、ここで遊んだ分は経費にしてもらうのよ!遊んどいた方が得じゃない!』


『経費?』


『よく分かんないけど、たくさん計上した方がいいものよ。ユキにはまだ早かったわね』


『はあ、もしかして、なこさん。始めからそれが目的なんですか?』


『まあそれもあるけど』


『……そうですか。じゃあ僕は僕で勝手にします』


『え、ちょっと!私、やっとユキを遊びに誘う口実ができるかもって思ったから、ユキを呼んだのに』


『……普通に誘えばいいじゃないですか』


『でもユキって、プライベートはプライベートできっちり分けたいタイプっぽいから、普段誘うのは悪いし……こうやって、仕事が絡まないと来ないかなって』


『……なこさん』


この後、僕達はめちゃくちゃ動物園を楽しんだ。……楽しんでしまった。(特に、鯉の餌やりは思いの外楽しく、多くの時間を費やしてしまった。)

そしてその結果、完全に二人を、当初の目的を、見失ったのだが。


そこへ、まるで見計らったかのように、小牧さんから「研修どうですか?後で構わないので報告してくださいね。あ、きちんと行われていないようなら、経費とは認めませんので、そのつもりで」とメッセージが送られてきたのだ。僕はともかく、なこさんはめちゃくちゃ焦っていた。大変なんだな、大人って。


そんなわけで、僕となこさんは今、動物園エリアと遊園地エリアのちょうど中間あたりにある湖を背景に、途方に暮れていた。


僕達の唯一の頼りは、いまだ、みずきさんと通話が繋がっている、なこさんのスマホなのだが。


「むちゃくちゃ本体熱いわね……モバイルバッテリーがあってよかったわ」


「それはまあ、ずっと通話繋ぎっぱなしですから。みずきさん、よく気づきませんね」


「スマホ触る暇もないくらい楽しいのかしら……どれどれ」


なこさんがスマートフォンのスピーカーに耳を近づける。



『……なんて……と乗った時以来だ……』


『そうなのか?俺は……乗ったことないな……姉さんが……って言ったけど……俺は……で……』


『はは……やと……同じだな』


『…き…?』


『俺の……だ。……で、今は……る。……んだ』


『へ、へえ……』



「……二人は今、何を?」


険しい顔で耳に意識を集中させているなこさんに尋ねる。なこさんは首を横に振って言った。


「全然分かんないわ。何か乗り物に乗ろうとしてるみたいだけど……」


「乗り物か……」


僕はくるりと背後の湖を振り返る。遠くにスワンボートが数台、優雅に滑っていくのが見えるけれど。あんなの二人で乗ってたら本当にカップルみたいだ。


「えー?今時、スワンボートなんてちょっとベタじゃない?スカイサイクルの方が楽しそうよ」


「どっちもどっちだと思いますけど……で、他に何か情報は?」


「えっと……」



『ちょうど、み……の尻から……』


『……?し、尻……?』


『そうだ……その……尻に……』


『へ?!尻が……?って……そんな……』



「なんか……お尻って言ってる」


「し、尻?!何ですか、それ?」


「あとは……ぼちゃんって水の音がして……あれ、切れた?」


「は……?」


思わず、スマートフォンを覗きこむ。

真っ暗な画面に「通話終了」とだけ表示され、無機質なつー、つー、という音が、いやに、はっきりと響いていた。


いや、尻って何……。

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