+グリーンローズ 12




 夢のような日々だった。両親は相変わらず勤勉で、大きな喧嘩もなく協力して仕事や家事をこなしていた。アマンダも彼女なりに父母の手助けをした。至らない部分はミスター・エバンスが補ってくれた。ラーソン家は四人で一つだった。


 アマンダは学校では冴えないほうだったし、クラスメートのなかにはエバンスとの仲をからかう者もあった。しかしそんなことは一切かまわない。エバンスの存在を揶揄する輩の誰一人として、彼ほど頼りになる者はいなかった。


 とはいえ、さすがにティーンエイジャーにさしかかるころになると、アマンダも多少の気恥ずかしさを覚えずにはいられなかった。十二歳にもなって子守連れもないものだ。むろん当人たちとしては親友同士のつもりなのだが、はたから見れば「いくつになっても独り立ちができない」ように思われるのも事実である。これではボーイフレンドもできやしない。


 よってアマンダは決意した。「いずれ来る時のため、私も自立の準備をするのだ」と。


 詳しく何をするのかは未定だったものの、ともあれ彼女がそう決めたのは確かだ。彼女自身の人生のためにも、また愛する家族を安心させるためにも。


 事実不幸はその矢先に訪れた。


 命ある限り避けては通れぬ別れ。いつか来ることを心のどこかで予期しながらも、しかし決して向き合おうとはしてこなかった未来の瞬間。


 その決定的な一瞬と、アマンダは思いもよらぬ形で対峙することになった。


    ×


 その日、アマンダは浮かない気持ちで夜の麦畑を歩いていた。


 夜間に外を出歩かないよう言い聞かされてはいたが、経験上、農場の敷地内ならそれほど危険な目には合わないと分かっていた。物心ついてからのこの十年あまり、畑のそばで不審者を見かけたり厄介な野生動物に出くわしたりしたことは一度もない。むしろアマンダは小学校に上がってすぐの幼いころから、こうして日没後の畑を散歩するのが好きだった。


 月の明るい夜などは空から降りそそぐ光が一面の麦畑を優しく照らし、目の前に白銀の湖沼を浮かび上がらせる。よく冷えた夜の外気とも相まって、その光景はこの世の物とは思えぬ不気味な艶やかさを感じさせた。


 いい具合に想像力を掻き立てられるのと少々の怖いもの見たさもあって、アマンダはこの景色をいたく気に入っていた。


 それに夜とはいっても夜中ではない。この時、時刻は二二時にもなっていなかった。十代の健全な青少年からすればまだ日が暮れたばかりといったところだ。そのうえで〝お目付け役〟まで引き連れているとくれば、いったい何を恐れることがあるだろうか。


 そういうわけで、アマンダはミスター・エバンスを背後に控えさせた格好で、畑道に残ったわだちをなぞるようにスニーカーの足跡を増やしていった。


 楽しくないと言えば嘘になる。だが手放しで楽しめるかといえばそうでもない。あえて言うなら、否定しがたい居心地の良さがあるからこそかえって彼女の胸は痛んだ。


 どうすればこの喜びを手放すことができるのか。ふたりでともに歩むという、この無上の喜びを――。


 どれほど思考を巡らせても、あるいは努めて考えないようにしても、いずれにせよ煩悶が消えることはなかった。今や彼女の日常は、昼夜なくこの難題と隣り合わせになっていた。


 そういう精神状態だったからか、このとき彼女とエバンスに迫りつつあった異変の兆候に、彼女はなかなか気づくことができなかった。エバンスに上着のそでを引かれようやく分かったという有様だ。


 最初に見えたのは光だった。三〇メートルは離れているだろうか、アマンダから見て左方の畑一つ挟んだ道で、強烈な白光が宵闇を切り裂いている。地面すれすれの高さで揺れるその動きから察するに、光の正体は車のヘッドライトだろうと思われた。


 そうして車両の存在を認識するのと同時に、彼女はそれまで見落としていた二つの事実に思い至った。靴底から感じる微かな振動と、ガソリンエンジンの低いうなり声だ。


 はじめのうちは父か母が用事に行くのかと考えたのだがどうもそうではないらしい。ヘッドライトの光が農場の車と比べ青白いし、また鼓膜を揺らすエンジン音も耳慣れたそれとは違っている。


 今晩来客があるとは聞かされていない。むろん突然の訪問客という可能性もなくはないが、それにしてもいやに胸騒ぎがする。


 ゆえにアマンダは、エバンスに母屋にいる両親を呼んでくるよう頼んだ。


 しかし彼はアマンダを一人この場に残すのが不安だったのか、珍しく渋って見せた。「見張り役がいないと車を見失ってしまうから」と彼女に説得され、エバンスはようやくうなずいた。


 その後、駆け足で離れていく親友の背中を見送りながら、アマンダは迷わず小麦畑に飛び込んだ。立ちならぶ小麦の中に身を隠し、例の不審車両を観察しようとしたのだ。


 気になるのはその車が最前からほとんど位置を変えていないことだ。悪路にタイヤを取られているのか、この場から走り去る気配がまるでない。せいぜい一〇メートル前後の距離を行ったり来たりするばかりだ。ただ、取り逃がす恐れがないのは都合がよかった。


 頬と耳とがやけに熱い。突如として訪れた非日常に精神が高ぶっているのだ。絶えず頭を悩ませる煩悶もこの時ばかりは忘れていた。


 畑を横断するのに時間はかからなかった。車両はもう目と鼻の先だ。何よりもまずナンバープレートの確認。それから車種とボディカラーの把握。アマンダは腰をかがめたまま、麦穂のあいだからその奥の景色を覗き込んだ。


 とたん、強烈な白光が彼女の目を覆った。


 光源になる物は一つしかない。青白く輝くヘッドライトだ。すなわち、この時くだんの車両は真正面からアマンダと相対していたのだ。


 そこから先は一瞬だった。車両はタイヤをスリップさせながら急発進した。


 気づけばアマンダの身体は枯葉のように宙を舞っていた。とてつもない衝撃が瞬間的にに彼女を打ち据え、小麦畑の真っ只中に放り出した。


 その一瞬に何が起きたのかアマンダもすぐには理解できなかった。一つ確実なのは、彼女を襲った衝撃は例の車両に由来するものではなかったということだ。


 彼女の身体を撥ね上げたのはほかでもない。先ほどこの場を離れたはずのミスター・エバンスその人だった。彼は緊急的措置としてやむなくアマンダを突き飛ばしたのだ。


 その目論見はほどなく彼女自身にも察せられることとなった。


 ゆえに彼女は思い知った。今この時、彼女の眼前に存在する悲劇の未来の可能性は、もはや既定の事象と同義なのだと。


 車はエバンスの左側面から激突した。


 直後、彼の細い胴体が腰の高さから九〇度に折れ曲がった。次いで側頭部がボンネットに打ち付けられたかと思うと、やがて彼は両足を天に向けた格好で中空に投げ出された。


 彼の肉体に致命傷を与えるあいだも、くだんの車両は一向に速度をゆるめる気配を見せなかった。それは放たれた矢のように銀色の麦畑を突き抜けていった。


 以降、その車両がどういう経路で現場から逃走したのかはアマンダの知るところではない。そうした事柄はもはやどうでもいいことだった。


 彼女は無残に踏み荒らされた小麦畑の中で立ち尽くした。つい今しがたその目で目撃した出来事が、まるで現実味のない夢幻のように感じられていた。


 しかし感覚的な面がどうであろうと事実が変わることはない。そのことは、彼女の足元に転がる無数の証拠からも明らかだった。


 砕けた頭部。ねじ曲がった胴体。ちぎれた手足。


 辺りに散らばったそれらの物体は、彼女にとって不動の現実そのものだった。

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