第3話

 昨日やり残した家事を済ませ、aは食料の買い出しに出た。ここでもやはり車も自転車もない不便さに苦しむこととなった。重い荷物を持ったために、aの手は震えていた。

 昼食をとりながら、aは思案を始めた。まだ済んでいないことは、車、自転車の手配、寮の内部の確認くらいだ。車の方は今日は諦めた。今すぐできることは寮の設備の確認だけだった。

 食事が済むと、aは自室を出て寮の一階へと降りた。一階は共用部として、交流スペースなどに使われていた。


 aがいつも通るルートからはずれて交流スペースの方へ向かうと、円卓の周りに四人の職員たちが群がって話しているのが目に入った。aが耳をすませると、次のように聞き取れた。

「dが言うにはさ、同じとこの担当の人がみんなしてのけ者にしててさ、無視したり悪口を言うって話」

「辛く当たるのは一人だけじゃないの?」

「いや、何人も。例のcだけじゃない。bも最近付き合いが悪いって言ってたよ。あ、そうだ。最近新入りが来たらしくて、今度はそいつを巻き込んでやろうってさ…まあ、私も言ってやったさ。『全く懲りないよな』って。そしたらdが『期待できそうな奴が来たから今度こそは』って。それ聞いてちょっと私も楽しみになってきちゃったよ。どんな人が来たのかわからないけど」

 どうやらdの飲み仲間集めの対象に、aたち新任職員が含められてしまったらしい。これを聞いてaは不安に思った。「期待できそうな奴」がaを示すのかはわからないが、それに構わず誘われそうだ。dはしつこく誘ってくる人なのだろうか。かつて立川支部にそのような人がいた。その人物は毎日のようにaを飲み会に誘ってきたり、休日の旅行につき合わせようとしたりして、断ると業務中でも冷たく接するのが常だった。

 またaはこの会話の輪に近づく気力を削がれてしまった。内容が内容でなければ、挨拶をして顔を覚えてもらおうと思っていたが、この様子ではdの仲間集めに巻き込まれるだけに終わりそうだ。まして元々初対面の人と話すのが苦手だという意識がaにはあった。

「あら、初めて見る顔だ。保存部の人?」

「違う。琴似の人だ」噂話はaの方へ飛び火していった。

 aは答えざるを得なくなってしまった。円卓に近づいて、職員たちにaは会釈をした。「あ、初めまして。インキュベータ部のaと申します。今週転属になって、入寮したばかりです」

「ああ、じゃあ、dさんのとこだね」四人のうち最も若そうな者が言った。

「そうです。皆さんは保存部ですか?」

「いや、私が窓口相談員で、他が保存部。誰か元インキュベータ部の人いたよね?」比較的年長の、dの話をしていた職員が答えた。「あ、名前言い忘れてた。私hといいます」

 他の職員も続けて自己紹介をしたが、またもやaは覚えきることができなかった。

「aさん、『ソドミー部』って知ってます?」hがにやにや笑いながら質問した。

「ああ、昨日張り紙の件でdさんがcさんともめてましたよ」

「やっぱり!dが君のことを話してたよ」hは声を弾ませた。

 aはさらに警戒心を強めた。多分「期待できそうな奴」はaを指し示しているのだ。しかもそれをdを自分の仲間に話してしまっているし、hはそのことを知っている。そしてhは『ソドミー部』の存在を知っているかaに質問してきた。これは完全に、誘いへとつながる流れではないか。

『ソドミー部』が単なる飲み仲間の自称なのか、何か目的のあるグループなのかは結局わからなかったが、グループに入ることで身動きが取れなくなることは御免だった。

 hはaの心配をよそに続けた。「dがさ、君が張り紙のアドバイスをしてくれたって。そんなことあえてする新任がいるなんてびっくりしたよ。しかもさ、目測でEAUの異常発見したんだって?」

 aには、hがaに対する評価を誤っているように思えた。aはdに協力的な態度をとってはいない。「いや、アドバイスっていうより、あんまり納得できない内容だったんで、訂正してもらっただけですよ。『全ての人にセックスの力を』は、アセクとしては気に入らなかったんで」

「そう。でも、だいたいは張り紙を剥がせっていうでしょう。そう言わなかっただけでも協力的でしょう」

「まあ、それよりcさんがあんなに張り紙を気にするのか、私としては気になりましたけどね」

「別にcさんを責めるわけじゃないんだけど、あの人生菅にいることで評判が落ちるのが嫌みたいなんだよね。別に気にしなくてもいいと思うんだけど」hが声を潜めて言った。

「生菅の人は素行が悪いって言う都市伝説ですか」aにはなんとなく思い当たる節があった。昨日の会話でcが『札幌は北のソドム』に言いがかりをつけていたことも思い出された。

「あの人元々別の業界を志望してて、なんか事情があってこっちに来たみたいなんだけど。どうもお堅くてね、私もあの人のことを目の仇にしたいわけじゃないんだけど、そりが合わないんだ」

「そうなんですか。で、cさんが『ソドミー部』を単なる飲み会のグループだって言ってましたけど、わざわざポスターまで作るんですか?」aが疑問の核心をついた。

 hが笑い出した。「本来は、in vivoセックス支持者の間の相談サークルみたいなもんだったんだよ。g所長があんなだからね。それがいつの間にか飲みサークルになったわけさ」

「飲むのもそうだけど、実際の活動をするようになったわけだ」それまで別の会話をしていた他の職員が口を挟んできた。「hはこの前女と…」

「やめろ!お前すぐ調子に乗って人のこと喋るよな」hが声を張り上げた。

 怒られた職員は何やらぶつぶつと反抗の言葉を発していたがaには聞き取れなかった。aはさらに自分の関心事を突き詰めることにした。「dさんが私を誘ってるんですか? それには答えられませんよ」

「確かにdが君を気に入ったようだけど、それはそれで構わないよ」先ほどの職員をhは指差した。「でもこいつには気をつけた方がいい。一度捕まったらただでは帰さないから」

 aは寮内を見尽くして、気になっていたモエレ沼公園を見ることにした。さしずめ、帰郷ついでの小観光といったところだ。

 寮から公園までは一kmほどの距離があった。その道のりで、aは寮の他の入居者との会話について思いを巡らせていた。全般的に見て、立川の人間より付き合いやすいという印象がaの中にあった。これは良い傾向だった。aは寮の中のコミュニティーに馴染むことができそうだという楽観的な観測を立てることができた。立川を出発した際には、石狩支部の職員が不親切だったらどうしようとか、親切であったとしてもしつこく付き合いを迫ることはないだろうかと疑心暗鬼になっていたのだった。その時には気づかなかったが、昨日bらから夕食の誘いを受けたことは幸先が良かったのだ。そして今日、それはさらに確信に近づいたのだった。このことを思うと、aの気分はますます高揚するのだった。


 公園に入ると、aは妙な既視感を覚えた。遠くの大きな円錐形の山と、手前の低い角錐形の築山、三角錐形のモニュメントの配置が、どこかにしまいこまれていた記憶とぴたりと一致した。aはその記憶が、自分の目で直に見たものか、あるいは写真や絵なのかが思い出せなかった。ただ思い出せたのは、それが子供の頃の記憶だということだけだった。

 この風景は世間の評判通りの美しい公園だという印象をaに残したが、既視感のことも相まって多少奇妙にも見えた。もちろん人工の山やモニュメントが置いてあるのだから自然な風景ではない。かといって人工の構造物がこれほどの印象を残すことも少ない。この強烈な印象のために、aは考え事を中断し、目の前の光景に意識を集中させた。

 公園内では、早くも木々の葉が落ち始めて、乾いた冷たい風に乗って葉が転がっていた。ところどころ紅葉している木も見受けられる。

 aはふと立ち止まって向きを変えると、今度は芝生の中に突き進んでいった。

 aが再び立ち止まったそこには、白いキノコが輪になって生えていた。キノコのかさの直径は十cmほどもあり、かさの下の軸の部分につばがついていた。根元に卵の殻状の構造を確認することはできないが、ほぼ間違いなくテングタケ科の毒キノコだった。aはそれをみるや、ひざまづいて地面に顔を近づけて観察を始めた。舗装道を歩く親子連れや、ウォーキング中の年配者の視線、イサム・ノグチの山のことなどaの意識から完全に排除された。

 どのキノコも傷や汚れがないので、ごく最近生えたのだろう。数日前に雨が降ったらしいが、それが出現のきっかけだったのだろう、とaは推定した。しかし、いくらここで詳細な観察をしてもキノコの種類を同定する手がかりを得られなかったので、キノコを一本持って帰ることにした。胞子を採取して顕微鏡で観察することができれば、高い精度で種類を判別できるからだ。aは鞄から、普段くず入れ用としているビニール袋を取り出し、それを手袋のように手にはめてキノコを抜き取った。aはキノコを潰さないように、鞄のからのポケットにキノコを収めた。

 これを小学生くらいの子供二人が遠巻きに見ていた。二人は互いに目を見合わせて、この人物の行動の不可解さを暗黙のうちに共有した。そしてaが顔を上げるなり、何事もなかったかのような素振りで立ち去っていった。

 aは立ち上がる際に立ちくらみを感じた。しばらくその場を動けずに立ち尽くしていると、一度狭窄した視野が再び広がるのを感じた。同時に、既視感の正体を直感した。

 aはかつて、ちょうどこの場所に立ったことがあったのだ。

 しかしすぐに、その結論に疑念が湧いた。aは何故かこの景色を見たのは富良野であると思ったのだった。それがなぜこの札幌の住宅街の中の公園にあるのか。aはあやふやな記憶を辿っていった。この風景を見た前後の記憶が欠けていた。

 もしや両親がここを富良野と偽って自分を連れてきたのではないか。aはそれで納得した。この親ときたら、万博の時もチケットの抽選に外れただのと言い訳して自分を連れていかなかったということがあった。他の旅行の時にもその手の嘘をつくことは確かにありそうだ。幼少期に富良野へ行きたいと両親にせがんだことが突然思い出された。多分、それを聞いた両親が旅費をケチって、aを富良野ではなく札幌の町外れに連れていってaを騙したのだろう。小樽と千歳空港の間しか知らないaが、すぐに気づく訳もなかった。

 まんまと両親の思惑に乗せられ、しかも二十年近く嘘に気づくことのできなかった自分を、aは自ら嗤った。それと同時にモエレ沼公園の景色が、ひどく滑稽なものに見えてきてしまった。

 aの中でのモエレ沼公園の評価が、もの珍しい観光地から両親に騙された地に変わったとしても、それはそれで構わないことだった。aはもうすでにこの近くに居を定めたのだから、もはやありがたがって観光するような場所ではないのだった。しかも、真実に気づいた方がより冷静に眺めを楽しめると、aは自らを説得した。

 それからもaは散策を続けた。公園内の美術館に向かったが、建物に白い幕がかかっており、工事中のようだった。入り口の前には『老朽化のため改修工事中』との看板があった。 

 仕方なく、aは家路についた。東京の親に嘘を暴いたことを言ってやろうとaは思った。


 翌日、aはキノコの種類を調べることにした。

 前日に、キノコの傘をとって紙の上に置き、胞子が見えるようにした。うまくいけば、胞子の色が確認できるはずだ。

 aはサイドテーブルの上のアルミホイルの包みをとり、慎重にホイルの蓋を外した。中にはキノコと紙があった。aはゴム手袋をはめ、キノコの傘を外した。紙の上には見事な放射状の模様ができていた。模様の色は茶色だった。

 ネット上の情報と付き合わせ、傘が白いこと、つばがあること、輪になって生えていたこと、茶色い胞子を持っていることから、当初の予想を裏切ることに、ハラタケ科のシロオオハラタケであると結論づけた。

「匂いはどうですか?」AIアシスタントの提案に、キノコ観察初心者のaは驚いた。早速嗅いでみたが、時間が経ちすぎたのか、なんとも形容し難い匂いがした。aは軽い頭痛を起こした。これでは種類の判定はできない。

 その情報によるとシロオオハラタケはアニスの匂いがするらしい。aはアニスの匂いを知らなかった。

 結局、完全な自信を持てないままにキノコ調べは終了した。

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