第7話 戦争のはじめかた①

 豚頭族オークの国オルクセン国王グスタフ・ファルケンハインは、エルフの国エルフィンドについて思わない日はない。

 まるで、懸想しているようですらあった。

 彼と彼の率いる国にとっては、最大の仮想敵国。

 いまや国民のほぼすべてに加え、諸外国からの視線に至るまでそうに違いないと断じている国。

 思量に思案、思推を重ねて当然であった。

 ―――奇妙な国だ。

 かつては、そのように思うことが多かった。

 神話伝承の時代には、森と湖の妖精じみた存在という心象からは意外にも、海に乗り出していた。

 世の成り立ちを目撃したという光のエルフ―――白エルフたちの一部は、大船を操り、現在のエルフィンド領にあたるベレリアンド半島を出で、種族創生の神に導かれるままに、西方にあるとされた理想郷を目指したという。

 航海は非常に困難なものであり、多くの脱落者や犠牲者を出したが、やがて到達に成功した、らしい。

 半島から西―――北海を挟んで対岸にある大ログレスグレート・ログレス島、つまり現キャメロット側にはエルフたちが辿り着いた伝承や碑、遺跡などが残っているから、まんざら神話伝承上だけの話とも思えない。

 実際に、そのような航海はあったのだろう。

 現地の英雄王の手助けをしたであるとか、新たな国を興したであるとか。あるいは、更に西へ西へと漕ぎ出で、遠く海を隔てた新大陸にまで到達したであるとか。そんな伝承も残っている。

 ―――ところが。

 困難辛苦の挙句、到達に成功したはずの「理想郷」のいったい何が気に食わなかったのか、エルフィンドに伝わる伝承では、エルフたちは新たな指導者を仰ぎベレリアンド半島へと戻った。

 そうして、世の成り立ちのとき、創世の神も降星の光も得ることなく半島に残留した者たちとともに、現エルフィンドの原型を芽生えさせた。

 指導者によって国境だと定められたシルヴァン川以北へと閉じこもって、狩猟や、木の実、茸類といった森からの恵みに糧を得て暮らしていくようになる。自然の産物のみを糧としていくことは、その指導者が定めた法のひとつだった。

 次代の指導者になった三代目の女王は、そこへ変化を起こした。

 禁忌だったはずの、耕作、採鉱と鍛冶、伐採。それらを行うようになり。

 詩作や楽曲、舞踊も広めた。

 この女王は流行り病に倒れたとも、巨狼族の祖アンファウグリアに食い尽くされたとも伝わる。

 農業や産業の端緒を興した点については、これもまた、事実であろうとグスタフは思っている。

 古代のベレリアンド半島で既に三圃式農業が行われていたという記録は、当時のエルフィンドを訪れた人間族たちの滞在記等によって、大陸周辺国側にも残っており、かなり古いのだ。

 周辺国のすべてがまだ原初的な農耕をやっていたころで、ちょっと異質なほど。鉄を鍛工し始めたのも相当に早い。

 つまりこの民族は、海洋、狩猟、そして農耕、鉄器と、そんな文明発展史全てを経験したことになる。

 いくら人間族よりも優れている種族だとされていても、ひとつの民族に起こることなのだろうか。

 だが、そんな民族もまたあり得る、十分あることだ、そんな歴史だってあるだろう、その程度にかつてのグスタフは考えていた。

 だが―――

 いまや三番目の女王が転生者―――このオークとなった我が身と同じく元人間だったと聞かされ、考えは変わった。

 なるほど。

 私のような者が実際にいるのだ、それもまた事実なのやもしれぬと思えた。そう考えれば、異様に早く、周辺との相乗もなく突如として現れたようにさえ見える農法にも、納得がいく。

 エルフィンドには、転生者を表す古語まで存在した。

 女王だけでなく、エルフに生まれ変わり、あるいは人間の姿のままで、多くの者が訪れたと。国造りを手伝ったと。

 そして。俄には信じられないが、原初のエルフ族には男女の別があり、他種族と同じように雌雄の営みによって子を成していたが、より完璧な存在となるために三代女王が女性だけにしてしまった、そんな伝承が残っているとも。

 現在のエルフ族とダークエルフ族が実際に女性ばかりの種族である以上、これもまた何らかの史実的断片を示しているのかもしれない。

 すると、はたと思いつくものがあった。

 ひょっとして。

 三代女王より以前の、「神」とされた存在も、「新たな指導者」とされた存在も、元人間だったのではないか。

 そのように考えると、何もかもがすっきりとする。

 元人間たちは、それぞれが理想とするエルフの姿や国を、実現しようとしたのではないか。

 ―――だから、彼女たちはすべてを経験した。

 おそらくだが。

 創世時の、エルフたちの原初の姿は、本当に楚々として、無垢で、邪心の欠片もない、森の妖精じみた存在だったのではないか。

 それを次から次に現れた転生者たちが、変質させてしまったのではないか。

 もちろん、個々の転生者たちに悪意などなかったのであろう。

 彼らは自身が抱く理想のままに、エルフたちに知恵を授け、愛し、守ろうとしたのかもしれない。

 だが、その変質が―――

 徐々に大きくなり、いまのエルフィンドの、歪んだ姿を生み出してしまったのではないか。

 最初の挫折が、海へと―――諸外国へと目を向けることを捨てさせ、聖地とされる国境を奉じ同族だけで閉じ籠ろうとした思想が他種族への差別と侮蔑を生んでしまい、ついには同根種族のダークエルフ族までをも排除する現状へと至った―――

 ―――だとすれば、なんという悲劇だ。

 私自身にも責任がある。あの国への侵略を控えたことで、間接的に彼女たちの種族としての結束を損なってしまったことは、間違いない。

 ―――出来れば、もうそっとしておいてやりたい。

 己の中の、人間だったころのままの心はそう囁く。

 だが―――

 いまや私はもう、オークの王。

 全てを貪欲に食らい尽くすとされている、粗暴で、凶悪な存在だとされる種族の王。

 我が種族と、志や糧を同じくしてくれた他種族と、この国オルクセンを守らねばならない。

 そのためには。

 ―――エルフィンドを滅ぼす。

 その結論に達したのは、もういつのころからだったか。そしてその意をあらたにするのは、何度目のことか。

 この国を率いるようになったころには、そんなことはまるで考えなかった。ただ、皆で幸せに暮らしていければそれでよかった。他国にかまっている閑などなかった。

 でもいまは違う。

 それでは駄目なのだ、理想だけでは誰も守ってやれないのだと気づかされたのは、聖星教教皇領が我らを指弾したとき。あのデュートネが攻め込んできたとき。

 だから、エルフィンドは、滅ぼさなければならない。

 ただ戦争に勝つだけではいけない。

 ―――滅ぼさなければならない! 我が国の一部にしなければならない!

 何故か。

 ―――国民感情に応えるため。

 それもある。

 この国へとやってきた皆を受け入れぬ選択など、私には出来なかった。例えそれがエルフィンドとの戦争を不可避にしてしまったのだとしても。

 だがそれは、私にとって本当の理由ではない。

 そうであってはならない。

 彼らの感情を、私の言い訳にしているに過ぎない。

 卑怯な真似だ。許されることではない。

 私自身が、エルフィンドを欲しているのだ。

 そうでなければならない。

 ―――私自身と、この国のため。

 あと三〇年ばかりすれば、人間族の国々は、魔種族たちの能力を科学技術の力で乗り越えてしまう。

 自らの力でコボルトの魔術通信を超える無電通信を成し、大鷲の飛行能力を超える飛行機を生み出し、オークでさえ一撃で吹き飛ばせる火力を手に入れてしまう。

 刻印魔術以上の冷蔵技術を作り出し、食糧保存技術を自力で手に入れ、科学肥料や近代農法で生産力を向上させ、人口をあっという間に爆発させてしまう!

 我ら魔種族の頭数は、増えにくい。

 だが同時に不老長寿で、深刻な外傷や疾病さえ負わなければ不死にさえ近い存在だ。

 国民のうちそのほぼ全てを成獣数と数えることができ、これは膨大な労働従事者数や兵役可能者数を有しているということでもある。単純に人間族とは比較できないが―――

 三〇年。

 三〇年。

 三〇年。

 たったそれだけの年月のうちに、決してこの国には手を出してはいけないのだと、周辺国から憚られ、畏れられ、敬われる存在にならなければならないのだ。

 自領域に閉じこもるという、エルフ族たちを導こうとしたであろう元人間の判断は正しい。 

 だが、方法が間違っている。

 エルフィンドのとった方法は間違っている。 

 我らは魔術に加え、人間族と同じかそれ以上の科学力をも身につけ、家族の如き融和のもとに暮らし、いざというときには立ち上がるだけの意思を持ち、それでいて喧嘩を売られない限り人間族の国々を害するつもりなど毛頭無いのだと、周囲から思われる存在にのし上がらなければ。

 そうして、閉じこもる。

 ―――だから私は、エルフィンドを滅ぼす!

 オルクセンには、あまり舐めた真似をすると立ち上がる意思もあるのだと、周囲に一度は示しておかねばならない。

 だがそのためだけではない。

 新たな耕作地のため?

 ―――否! それはもはや自力で成した。

 北海の魚介を得るため?

 ―――それはいまでもやれる。

 ならば何を欲する?

 ―――鉱物資源だ。

 私はそれを欲する。

 もうずっと以前、ドワーフ族たちに工業を興すよう命じたとき。

 私は驚いた。

 彼らがベレリアンド半島の領地で作り出していた、モリム鋼ミスリン

 その組成を知って驚いた。

 あれは。

 神話伝承上の、夢物語の存在などではない。

 ―――クロムモリブデン鋼だ。

 ダークエルフ族たちが、民族特有のものとして用いている、あの山刀も同様だ。

 彼女たちはそれを高価で貴重なものだといっていた。

 採鉱、鋳造技術を持つドワーフたちを追い出してしまったため、技術が廃れ、大量製造できなくなってしまったのだろう。我が国でさえ、大規模鋳造出来るようになるまでには、たいへんな時間がかかってしまった。

 ―――つまり、あの半島には鉄鉱石と、クロムと、モリブデンが埋まっている。

 将来、いまよりずっと規模が大きくなり、ありとあらゆる物の活用が必要になってくる戦争において、欠かせない鉱物がある!

 この世界は、私がかつていた世界とどこか微妙に似ている。

 ―――つまり、この国には現状では不足なくとも、将来的にはまるで足りなくなるであろう資源が。

 ―――エルフたちのおかげで、ほぼ手付かずのままで。

 あれさえ。

 あれさえあれば。

 この国は、閉じこもることが出来る。

 いざというときの、備えが出来る。

 人間族の国たちが、彼ら同士の大規模な戦争に疲れ果て、犠牲の多さに戦き、ゆえに成熟し、他国とは―――少なくとも大国同士では戦争など起きなくなり、握手しながら睨み合うだけになる時代まで。

 だからエルフィンド。

 ―――私に食われてくれ。

 哀れみも、同情も、憐憫さえも覚えるが。

 ―――私の国と、私の民と、なによりも私自身のために滅んでくれ!

 ようやく自分を納得させることが出来た。

 戦争を起こせば、全責任は私にある。

 誰でもない、私だけに。

 私だけが負わなければならない。

 そうでなければならない。

 開戦の意思は、まず以て私自身に存在しなければならないのだ。

 そうでなければ。

 そうでなければならない―――

「・・・グスタフ」

 胸の上の辺りで声がした。

 寝台で仰向けになった私の、その上に覆いかぶさるようになって眠っていた、私の女。

 半月ほど前から、こんな私の、すべてを受け入れてくれるようになった女。

 ディネルース・アンダリエルの声だ。

 起きていたのか。

 起こしてしまったのか。

 彼女は私を見上げ、無言になり、そして躊躇いの響きを伴いながら言った。

「・・・貴方、グスタフ。なぜ、そんな怖い顔をしている?」

 そんな顔をしていたのか。そうか、そうだろうな。私はいま、どうすれば一つの国を滅ぼせるか、そればかりを考えていた。

 それは、言えない。

 これは私の、私だけの抱えておくものだ。

 言えない。

 君には、とくに―――

「話せ。話して楽になるなら、話せ。私に秘密を持とうとするな。もはや私は貴方の女。貴方の何もかも受け入れてやる。だから話せ」

 ―――・・・・・・。

 君は。

 君は。何てことを言うのだ。

 やめろ。

 私の仮面を剥ぐな!

 やめてくれ!

 ・・・だが。

 だが、ありがとう。ディネルース。




 盛夏である。

 星暦八七六年は、八月半ばを迎えようとしていた。

 このような季節になっても、オルクセン首都ヴィルトシュヴァインはたいへん過ごしやすい。一年でもっともよい季節だという者もいる。

 最高気温はおおむね摂氏二五度以下で、朝晩の最低気温はそれより一〇度ばかり低いくらい。湿度がなく、むろん動きまわれば汗ばみもするが、木陰にでもひそめば清涼がある―――そんな夏の国だ。

「そうですか。もうそんなになりますか。モーリントン公が亡くなって、もう二〇年に」

 コーヒーカップに目を落とすオルクセン国王グスタフ・ファルケンハインの様子を、キャメロット王国外務省在オルクセン駐箚公使クロード・マクスウェルは興味深く、ただし彼の国の支配階級にある人間らしく慎みを持って、見守っていた。

 彼は、この国に赴任してまだ日が浅い。

 オルクセン国王へと信任状を奉呈したのは、この年の頭のことだ。

 母国キャメロットの近衛騎兵連隊将校の出身で、既に外交官としても道洋の地で書記官、領事、代理公使の経験があったが、正式な在外公使としての経歴はオルクセンが初めての赴任地になる。

 経歴の割には、まだ若かった。将校から外交官に転じたのが早かったのと、親の爵位が影響している。

 ほっそりとした線の細さがあり、道洋に赴任している諸国外交団のなかでは迫力負けすることがあったため、オルクセン赴任前に口髭を生やすようになった。

 この日は、本国からの書簡を一通、王のもとへ届けにきていた。

 内容は、どうにかエリクシエル剤の輸出量を増やしてもらえまいかという通商筋からのもので、王は明朗な態度で前向きな返事をし、そのあと彼の誘いで気さくな座談の席になった。

「モーリントン公は、偉大な将軍でしたよ。攻めにもお強かったが、粘り強く滞陣されること、他者には決して真似できない間合いでそれを維持することに真価を発揮される御方でしたね」

 オルクセン国王が語っているのは―――

 六〇年前のデュートネ戦争、あの星欧中を巻き込んだ大戦争で、キャメロットの大陸派遣軍司令官を務め、グロワールが生んだ戦争の天才アルベール・デュートネを打ち破り、祖国に勝利をもたらしたサー・デューク・デューク・オブ・モーリントンデューク公爵のことだ。

 いまからもう、二〇年ばかり前に亡くなっている。

「あのとき、我らはオルクセン西部国境からグロワールへ越え、必死に戦場に向かっていた。すでに公とは連絡もついていました。ですが、ずいぶんと遅れてしまっていました。もう食べ物が尽きかかっていたのです」

「・・・・・・」

「きっと内心、ご不信にもなられたことでしょう。魔族の軍隊と約定など結ぶのではなかったと。ですが公は我らとの約束通り、あの戦場―――最終決戦の地シャルルロアで滞陣され、デュートネの大陸軍と壮絶な戦いを開始されておりました。いまでも思い出します。星暦八一五年六月一五日。偉大な一日だった。貴国にとっても我らにとっても栄光の一日となった日です」 

 静かに、懐かしむように、ゆったりと話すオルクセン国王の話術は巧みだった。

 合いの手を忘れ、つい聞き入ってしまう。

 その低い質の、声が良かった。

 六〇年前の戦場の様子を、まるで見てきたかのように―――いや、実際に王が目にした光景をありありと語り、描きだしていた。

「我ら一二万五〇〇〇の兵が戦場に到着したのは、あの日夕刻。公の軍の左翼を崩し、あの老熟した近衛軍団とともに突入を始めていたデュートネ軍の、側背を突くことに成功しました。私の隣で、全軍の指揮を預けていた、いまは北部にいるシュヴェーリンの奴が叫びましてね」

 ―――黒旗を上げよ、息子たち! 捕虜もいらぬ! 慈悲もいらぬ! 突撃せよ!

 軍楽隊が吹き鳴らす「オルクセンの栄光オルクセン・グロリア」とともに、オルクセン軍一二万五〇〇〇が無数の黒き軍旗を高々と掲げ、一挙に駆け、最初から着剣したマスケットライフルを長槍のようにして一斉射撃。青銅砲を放ち、地響きを立て、津波の如き奔流となって、戦争に勝ちかかっていたデュートネ軍本営側面に突入する―――

 マクスウェルは震えた。歓喜のものだ。

 それは王の語るように、祖国キャメロットにとっても、オルクセンにとっても、栄光の日、栄光の瞬間―――

 そして彼の祖父もその場にいた。近衛騎兵連隊の将校として。

「あの戦場で勝ったのは我らオルクセンではありません。粘り強く滞陣され、絶妙の間合いでほんの僅かにだけ全軍を後退させたモーリントン公です。あの方の不動の精神こそが勝たれたのです。全てが終わって合流できたあと、私自身が公にそう申し上げました。貴方は偉大だ、貴方こそが偉大だ。すると―――」

 ごくり。

 マクスウェルは息を呑む。

「馬鹿なことをお言いでないよ、オルクセンの国王さん。私が勝ったのではない、我らが勝ったのだ。私と、貴方が勝ったのだ」

 そのモーリントン公の発言は、たしかに記録されている。

 一言一句違わず。

 だがキャメロットの軍出身者としては、少しばかり後ろめたさもあった。

 キャメロット陸軍としては、負けかかっていた最終決戦の地で、オルクセン軍戦場到着こそが逆転をもたらしたのだと大っぴらに伝えるわけにもいかず。軍刊行のモーリントン公伝記や公刊戦史には、発言の前段部分ばかりが記されることが常だったからだ。

 だがしかし戦場での経過記録を見れば、間違いなく、どう考えてもオルクセン軍がいなければキャメロット軍は勝てなかった。

 オルクセン王の語り口の素晴らしいところは、そんな部分にはまるで触れず、慎重に自らを遜り、公とキャメロット軍を徹底的に持ち上げていたところだ。

 その点に関してモーリントン公本人がどう思っていたかは、もはやわからない。

 しかしながら、ひとつのヒントのようなものはあった。

 デュートネ戦争が終わってから、モーリントン公はキャメロット陸軍総司令官を経て、貴族院議員になり、そして首相になった。

 実は軍人としては偉大な英雄であっても、政治家としての彼は決して有能なほうではなかったのだが、歴史的にみてひとつの大きな外交条約を結ぶことに成功している。

 ―――キャメロット・オルクセン修交通商条約。

 それは人間族の国と、魔種族の国オルクセンが初めて交わした外交通商条約だった。両者の正式な国交は、そこから始まっている。

 その条約締結は、魔族の国オルクセンが人間族の国々と公式な交流を持つきっかけとなったものであり、それまでは教皇領や聖星教スタリックとの絡みでむしろ星欧の爪弾きになっていたオルクセンを、外交の表舞台へと立たせたものだ。

 もちろん、これを成した主たる要因には対デュートネ包囲網に参加して血を流したオルクセン自らの努力がある。

 また歴史的にみれば、こんな条約を真っ先にオルクセンと結ぶことが出来たのは、星欧列商各国のなかではキャメロットだけに可能であった真似とも言えるかもしれない。

 キャメロットは、聖星教と教皇領の影響下からかなり早くに離脱した国だった。

 これはずっとむかしの、やや好色にして傲慢なキャメロット国王がなかなかのものだった醜聞を起こし、聖星教の教義に反してしまったため、自らを祭主とする別宗派を立てたからなのだが。それゆえに倫理観の部分において解釈が自由で、他の星欧国家ほど、オルクセンに対する宗教的嫌悪感を持たずに済んだ。

 そういった要因はあったにせよ。

 マクスウェルは確信している。

 修交通商条約の締結は、モーリントン公個人から、オルクセン国王への恩返しだったのだ。あの戦場で危機を救ってくれたことへの。

 締結から五〇年―――

 オルクセンはもはや、キャメロットにとって欠かせぬ外交相手国の一つになっている。

 まず、未だ警戒すべき相手であり、キャメロットとしては長年の対立国であるグロワールへと、ともに睨みを効かせてくれること。

 平時においては、グロワールの兵力の幾らかを東部国境に引き付けてくれる役割を果たす。

 不幸にしてキャメロットとグロワールとの間に戦争が起こった場合、同国の背後を突いてくれるか、あるいは好意的中立を保ってくれることを期待している。また同時に、近年においてやはりキャメロットと対立することの多くなったオルクセン東隣の国、ロヴァルナを牽制してくれてもいる。 

 またひとつには、有力な外資融投資国となってくれていること。

 海に乗り出し、遠く道洋グラントの、絶道ロード・エンドといえども交易の手を広げるキャメロットには、幾らでも金が必要だった。

 対してオルクセンは、星暦八七六年現在、国家歳入一四億ラングという有力な列商国―――諸国中第三位というところまで成長していたが、その本質は内陸国で、まったくありがたいことに海外植民地の獲得などには興味を示さず、またその国内投機は落ち着いてきている。

 結果としてファーレンス商会のような大資本や富豪の余剰となった資金が、どんどんとキャメロットの外債を購入してくれ、企業へと投資や融資をしてくれており、これが果たしているキャメロット経済発展への貢献は大きい。

 また、オルクセンそのものが交易相手国として、もはや欠かせぬ存在であること。

 彼らの作り出す工業製品の多くは、星欧諸国で最初に産業革命を行ったキャメロットから見ればどれも自国生産可能な製品ばかりだったが、有望な食糧及び石炭、繊維関係の輸出国であり、何よりも魔術関係だけは彼らの力を頼るしか方法がなかった。

 あの偉大なる刻印式魔術。

 あの冷蔵保存の術が施された金属板は、たいへん高価なうえに輸出量は皆無に等しかったが、キャメロットの海運業にとって喉から手が出るほど欲しい代物だ。

 例えば、キャメロットは島国でありかつ食糧自給率の低い国であるがゆえに、星欧大陸や新大陸、植民地大陸から食肉そのほかを輸入する際、あれがあるかないかでまるで話が異なってしまう。

 オルクセンの医薬品製造業社が作り出す、エリクシエル剤も貴重だ。

 これまた高価だったが、この霊薬は人間族にも使える。とくに戦時における強力な医薬品として。ここ数年のキャメロットにとって、イスマイル方面や道洋方面における対ロヴァルナ情勢はどうにもきな臭く、なんとしても輸入量を増やしたいところ。

 一外交官、一個人としても、オルクセンは非常に興味深い国だ。

 これはキャメロットに限らず、星欧諸国の外交筋ではちかごろ一種の不文律になりかけているのだが、各国の外交官たちはグスタフ王の雑談を聞きたがった。

 彼はもはや、間違いなく星欧諸国の外交界における長老的存在だったのだ。

 デュートネ戦争。その講和会議。

 キャメロット以降次々と結ばれた、列商各国との通商条約。

 ちかごろではレマン国際医療条約。

 二〇年ほど前には、星欧東方鉄海方面で起こった大規模戦争の、講和条約仲介役の労をとったことすらある。 

 こんにちの星欧諸国の体制を作り上げた、そんなもの全てを経験し、生き残っている者は人間族の国々にはもういない。

 彼は魔種族の不老長寿、不死にさえ近い身ゆえそれらの機微を語れた。例え王の巧みな話術がなくとも、外交筋としては興味のある話ばかりだった。外交という名の魔物には、公文書に残っていない裏話が、ごまんとあったからだ。

 そのようななか、星欧外交界には一つの定評が生まれていた。

 ―――オルクセンの王は人間族を欺かない。

 ―――オルクセンは外交盟約を違えない。

 あのデュートネ戦争の最終決戦に、モーリントン公との約定通り戦場へと駆け付けたように。

「マクスウェルさん」

「はい?」

「これは少しばかり長生きしてしまった私からの、各国の若い外交官の皆さんにお伝えしたい話として、耳を傾けていただけますか」

「ええ、もちろんです。王」

「外交官として求められるものは何か、というお話です。ずっと昔に、当時のフロレンツの使節から伺いました。いまでも本質において変わらぬことと思います―――」

 まず、相手国の統治者がどのような性格かを掴むこと。

 これから手をつけねば、公的なものはまだしも、個人としての親交を結ぶことは難しい。

 つぎに、外交官自身が自らの評判を赴任国で上げること。

 評判とは、立派な人物だという評価を獲得することである。才のある人物、ではない。才があるに越したことはないが、それに溺れてはいけない。立派であること。誠実であること。これが評価され、相手からの信用に繋がる。

 そして本国への詳細な報告書を上げること。

 定期的であることが望ましい。自らが観測したこと、その経緯。相手国でどんなことが起こっているか。自らの意見も述べておくことが望ましいが、それは最後にし、事実と個人見解は分けること。

 これらのため、なるべく多くの友誼交流を結ぶこと。面識や親交は、また新たな別の交流を生み出し、これは即ち外交官個人にとっての情報網ともなる―――

「なるほど。外交官における黄金律の数々と申すほかありませんな」

「でしょう?」

 グスタフはにっこりと頷き、

「しかし弱ったことに、自らの見解をつけても若いうちはこれを無視されやすい。真面目な者ほどへこたれそうになる」

「確かに・・・」

 身に覚えのあることだった。

「そのようなときは、相手の名を御利用なさい。貴方の場合でしたら、私の名を。貴方のように立派な方には卑怯な振舞いにも思えるかもしれませんが、王がそのように言っていた、たった一文これを付け加えるだけでとたんに説得力を増します。件のフロレンツの使節曰く、言葉だけでなく、何か傍証となるものをつけることも良いようです」

「なるほど・・・いや、しかし、それは・・・」

 やや恐懼するマクスウェルを前に、グスタフは机上から国王官邸の透かし入りメモと、ペンとを取り出し、さらさらとキャメロット語で何かを書き始めた。

 そうしてそれを書き上げると、マクスウェルに差し出した。

「公使。ひとつ、これを差し上げましょう。おそらく貴方が、そしてご本国が、いまいちばん御関心のあることだ。あなた個人の実績を増すものとしてご利用なさい」

 それにはこう記されていた―――


 現状では、我がオルクセンはエルフィンドとの戦争など望んでいない。

 貴国のご尽力と、先方の外交関係改善の意思に期待している。

 而して不幸にもエルフィンドと開戦となった際には、オルクセンは在エルフィンドのキャメロット権益を保護する。また戦後これを復することを考慮する。

 またこの戦争が起こったからといって、オルクセンの対グロワール及び対ロヴァルナ防備が疎かになることはない。

 エルフィンドと戦うからといって、オルクセンは人間族の国家領土にも、海外領土にも興味はない。かつて、モーリントン公と私とが約した通りに。

 その条件をもとに、オルクセン・エルフィンド間の戦争が勃発した際には、キャメロットの好意的中立と、グロワール及びロヴァルナへの牽制とを期待する。


 マクスウェルは息をのんだ。

 たいへんな代物であったからだ。

 流石にサインまでは入っていなかったが。

 確かにそれは本国も、彼個人も、あるいは周辺国全てが気にかかっていることであり。どうにか機微を探ろうとしていたものばかりだった。

 キャメロットへと、エルフィンドとの仲介を依頼しているものと捉えることも出来た。

 こんにちの世界では、外交上の仲介役を務めることには大変な労苦があるが、同時に自国の権威を大幅に高める行為でもある。

 もちろん、諸条件としては、オルクセン側がキャメロットに気を使っている点も彼の自尊心と愛国心とをくすぐった。

 これをもたらせば、本国外務省での彼の評価はゆるぎないものになるだろう―――

「では公使。今日はありがとうございます」

 マクスウェルは非常な喜色を隠すことに苦労しつつ、辞去した。

 すぐに、隣室に潜み控えていた一頭のオーク族がやってきた。

 フロックコート姿。

 巨躯、精悍、魁偉。グスタフの有能な臣下のひとりだ。

「如何でしたか、王?」

「ああ。上手くいったよ」

 グスタフは苦笑しつつ、応じた。

「すまないな、ビューロー。本来なら君の顔を立てるところなのに」

「なにを仰います」

 オルクセン外務大臣クレメンス・ビューローは微笑んだ。若干、ごついところのある笑みだ。

 グスタフのほうでは、うん、ビューローのやつは文句なしに有能なんだが。もうちょっとこの野盗のような笑顔はなんとかならんものかな、などと思っている。

 一方、彼の腹心といっていい外務大臣ビューローは、なんだかこの御方の仕事ぶり、以前にも増して脂が乗ってきたな、何かあったのか―――そのように感服していた。

「王が。我が王がことにあたられるのが一番早い」

「言ってくれるなあ。私は君の外交手段のひとつか、ええ?」

「はい」

「ふふふふ。即答か。さて、午後の会談はだれだ? アスカニアか?」

「はい、我が王。アスカニア公使は若干権威主義的なところがあります。彼の人柄上、次は私も同席させていただきます。二対一でたじろいだところへ、私は厳しめのことを言い、我が王には慈悲を以て接していただく。そして王からこちらの要求を飲み込ませる。そんなところで」

「うん、外交とはまさに交流。相手の性格を読むことだな。ああ、そうだ、なんならそこにアドヴィンを寝そべらせておくか? 三対一になるぞ?」

「結構ですな」

「しかしなんだ。人間たちは私をたいへんな年寄り扱いするから、そんな口調で話してやるのは何ともいえん気分になるな。私はオークとしてはまだ若いんだがな・・・」

「ふふふふふ」

 彼らはここのところ、各国公使たちと会談を重ねてばかりいた。

 各国に赴任している、オルクセン側の公使たちも同様である。

 戦争とは。

 軍事力だけで始められるものではないからだ。

 周辺国への牽制、懇願、搦め手。交渉、妥協、妥結。

 エルフィンドを攻めるに際し、オルクセンの外交的軍事的背後を安全たらしめるため、ありとあらゆる手練手管を投入していた。

 いま少し、人間族たちの言うところの、大儀名分という名の曖昧なものを欲してもいる。

 確かに、オルクセンは歴史的に見てエルフィンドとは因縁がある。

 だが、因縁だけでは戦争は吹っ掛けられない。

 やれないこともなかったが、それでは勝てたとしても、周辺国の信用を失うのはこちらになってしまう。

 そのきっかけを得ようと、アンファウグリア旅団編制という手段に依る、シルヴァン川流域での虐殺行為暴露により、何等かの反応があるものとばかり思っていたのだが。

 ―――エルフィンドは沈黙したまま。

 まるで何の反応も示してこないのだ。

 オルクセンの外交政策のひとつ、エルフィンドの星欧諸国からの孤立化を深めるという方針に合致して、人間族の国々が持っていた、あの国への心象を複雑なものにすることには成功したが、いまひとつ決定打が欲しかった。

 だからキャメロット公使に「先方の外交関係改善の意思に期待している」と伝えたのだ。

 これは巧妙かつ老獪な手と言っていい。

 オルクセンは、少なくとも書簡のかたちでエルフィンドの公式見解を求めていると、キャメロットの外務省はエルフィンドに齎すだろう。

 間接的に煽っている。

 そうやって煽っていながら、周辺国には「喧嘩を吹っ掛けられた場合にしかエルフィンドとの戦争など考えてもいない」と見えるようにしているのだ。実際には、エルフィンド側に妥協できることは何一つないと知りながら。

 外務大臣ビューローが主君への感嘆を重ねていたのは、それが理由だった。

 おおよそかつてのグスタフなら、絶対にやろうとしない真似だ。

 グスタフ自身の対外信用度まで手段にした、寝技極まりない外交である。マクスウェル公使を見れば端的にわかる。喜色満面で退出したが―――利用されたのはあの公使のほうだ。

 まあそれについてはキャメロット外務省にも非があるがね、とビューローなどは思っている。

 相手の老練に感嘆しながら、その老練を見抜けもしない初任の公使を送り込んでくるような真似をするからだ―――

 グスタフと、彼の率いる外務省とが長い年月をかけて練り上げた人間族周辺国との関係と能力は、まさに円熟していた。

 そしてそれをオルクセンの歴史上初めて、明確に、怜悧に、狡猾にさえ用いようとしている。

 実際に戦争を始めるには、まだいま少し時間も準備もかかる―――

 彼らはそのように判断していた。



 ダークエルフ族による戦闘集団、アンファウグリア旅団の騎兵連隊各中隊による国王官邸警備は、すでにその制度が始まって最初の一巡を終えていた。

 同旅団の旅団長にしてオルクセン陸軍少将、そして今や残存ダークエルフ族全ての代表を務めるディネルース・アンダリエルの日常にも、少しばかり変化が起こっている。

 ―――少しばかり。

 いや、かなり。相当な変化といってもよかった。

 端的にいって、オルクセン国王グスタフ・ファルケンハインの女になっていた。

 それは彼から制されたのではなく、彼女から国王をこれと見込んで、自ら飛び込んでいったようなもので、実にディネルースらしい振舞いの結果だったといっていい。

 最高の気分であった。

 ちかごろでは、その喜びも深くなっている。

 当初グスタフ王が懸念し、実のところディネルースの側でも内心怯えを抱かなかったわけでもない件については、かなり苦労や困惑、驚愕もあったものの、どうにかそれを乗り越えることができ、徐々に馴染んでいく夜を重ね、ここ最近に至っては更に手に手をとりあって協力もし、悦びを分け合い、より高みを目指そうという段階にまで来ていたからである。

 あるいはこれは彼女たちに限らず、交歓を求めるまでに至った知的生命の雌雄にとって等しく訪れる、いちばん楽しい時期にさしかかっていたと言ってもよかった。

 日常においても、恋仲となってみると、グスタフは以前にも増して微に入り細に入った配慮をしてくれる男だった。

 そのような配慮に、宝石や花束を用いぬところが良かった。

 ディネルースは、そのような類のものは欲さない女だったからだ。

 贈り物を喜ばないわけではない。

 彼女の嗜好に合っているかどうかであった。あちらもそう己を理解してくれているのだと、これそのものが嬉しくもあった。

 まず、これは彼との関係は深くなる直前のことだったが、非常に高性能の野戦双眼鏡を贈ってくれた。

 それ以前のものと大きさはあまり変わらない。若干重くなったようには思う。

 なんでも、三稜鏡というものが内部構造に含まれていて、光を屈折させ、その精緻な仕組みがより遠くのものをくっきりと見えさせるのだとか。

 難しいことはよくわからなかったが、試してみて、一度に惚れた。

 まだ試作品にちかく、精巧に過ぎ、ひょっとすると軍の蛮用には向かぬかもしれないとのことだったが、そのときはそのときだ。以前のものを使う。あとで値段を知り、若干気が引けぬわけではなかったが。将校の給料なら、半年分は吹っ飛んでしまうらしい。

 次に、グロワールの海藻石鹸。各国王室御用達品。

 泡立ちがよく、そのひとつひとつが繊細であり、香りは楚々として、たいへん使い心地のよいものだった。

 国王官邸の、グスタフの居住区の浴室で覚えた。

 そこで、真鍮製の石鹸置きにおさめられているのを使い、知ったのだ。

 意外に思う者もいるかもしれないが、日常におけるオーク族は清潔を愛し、尊び、習慣にしている。

 彼らの種族の祖が、野にあっても丁寧に寝床をしつらえる習性をいまでも引き継いでいた。

 ゆえに彼らのシーツはいつも清潔に交換され、洗濯と糊の行き届いた衣装に袖を通すことは当たり前だと思っていて、星欧諸国ではたいへん珍しいことに風呂に毎日入る者も多い。

 彼らの作り出す町が質実剛健でいながら清廉で、上下水道の別まであるのもそのあたりに起因する。

 なるほど、グスタフの淡く桃色がかった白い肌が、いつも嫉妬を覚えるほど心地よいばかりなわけだと納得していると、ディネルースにも分けてくれた。これはよいものだよ、と。

 そして、オルクセン産の香油である「不思議な水アクア・ミラビリス 七九二」。

 これは本来紳士用のものだが、いまからずっとむかしの、星暦七九二年にオルクセンの小さな薬局で生まれたという化粧品である。

 オレンジなどの柑橘類を主体に、幾らかの種類のハーブ、アルコールと、産地の岩清水を調合。さらにそれを樽で二か月ほど熟成させたもの。

 たいへん清楚な香りがし、なによりも素晴らしいのはその香りにくどさというものが一朶もないことだ。

 グロワールなど諸外国の香水にありがちな、押しつけられるような、あくの強さ、品のなさがまるで無い。

 オーク族は鼻がたいへん良く効くから、逆効果とならないよう、極めて慎重に調合されたものだ。

 これは珍しく、ディネルースのほうからねだった。

 グスタフが愛用していて、その香りを嗅ぎ、ふだんそういった類のものをまるで用いない彼女でさえ気に入ったのだ。

 香油だけでなく、同じ製造会社が作っている乳液や、整髪料もひと揃いにして贈ってくれ、首都で扱っている店も教えてくれた―――

 この日、八月半ば土曜の朝は、ふたりとアドヴィンとであのヴァルトガーデンの朝市に行き、国王官邸で朝食を採ってから、ヴァルダーベルクの衛戍地に向かっていた。

 今朝の朝食は、薄く切ったライ麦パン二枚にたっぷりとした野菜、半熟に焼いた卵と、生ハムとを挟みこんでほんの少し胡椒を効かせたもので、簡素でありながら手が込んでいた。それに焼いたブルストへ、細かく刻んだ、目がちかちかとするほど新鮮な玉葱を添えたもの。この二品。

 あまり品数を多くしないようにしてくれているのは、グスタフの配慮だ。さっと摂ることができる。

 官邸と衛戍地の距離からいって午前九時の当庁時間にはそれで充分間に合い、業務にあたれる。

 彼女は毎日そういった時間組みをするようになっていた。

 オルクセン陸軍将官の規定通り、おおむね朝九時から夕方四時まで昼食を挟んで勤務。多少の残務はあっても夕刻六時を迎える前には精力的に始末をつけ、夜の帳が降りるまでに国王官邸へ騎乗で足しげく通い、また翌朝に戻ってくる―――

 そのような日々を過ごしている。

 もっとも今日は土曜だから、街の午砲が鳴れば執務は終了だ。兵に至るまで同様の日。グスタフもまた。ダークエルフ族の民業方面でも何も問題なければ、とっとと官邸に戻ってやろうと思っていたが。

 彼女が若干感心し、また感謝もしたのは。

 国王官邸側の国王副官部や執事、コック、家政の連中などはもうとっくに彼女たちの仲に気づいているはずなのに、おくびにもださず、探ろうともせず、少なくとも表面的には好意的沈黙を保ってくれていることであった。

 醜聞や恥事ではなく、

 ―――あの浮名ひとつなかった国王も、ようやく。

 そのように感じているらしい。

 なかでも副官部部長のダンヴィッツ少佐や、同部所属で王から官庁等への使いを務めることが多いミュフリング少佐は、余計な心配をしなくていいという点では完全に信用がおけた。

 彼らのグスタフへの忠誠というものは、それほどのものだ。

 つい、さきごろ知ったのだが―――

 あの、今年の春にヴァルダーベルクへも師団対抗演習への招致を知らせにきたミュフリング少佐。

 もうずっと長い間、王のもとで連絡使の役目をしているという。

 生来情けない顔つきのオーク族で、ことさら何かに秀でているようには見えないし、むしろその真逆に感じられ、伝令使に必要な馬術の技巧も格別巧みというわけでもない。

 日常の副官業務となるとまるで駄目。どこかが足りないのではないか、そんな牡に見えた。

 それがいったいなぜ王の使者などという大役を。

 そのように他者からは思われてばかりいる。

 ところが王曰く、

「あいつは、例え時間はかかることはあっても、必ず辿り着く。そして必ず相手へ用向きを届け、必ず戻ってくる」

 そんな牡なのだという。

 ―――デュートネ戦争中のことだ。ミュフリングは王の使いで、何度もキャメロット大陸派遣軍司令部とオルクセン軍本営との間を往復し、ただの一度も仕損じることなく役目を果たした。行程間に、グロワールの、あの戦争の天才アルベール・デュートネの大陸軍哨戒線があるときでさえ。

 さきごろその話を聞かされたときには、ディネルースもまた認識を改めた。

 ―――凄いやつだ。

 とんでもないやつだと言ってもいい。

 おまけにミュフリング少佐は、妙なところでその顔つきが役に立った。

 彼生来の情けない顔つきを見ると、たいていの相手はその場で伝達内容を改めなければ、なんだか申し訳ない気分になってしまう。また、何か憂慮のある、よほど火急の用向きかとも思う。使いの内容が先送りになってしまうことがないのだ。

 だから王はずっと彼を使っている。そしてミュフリングはそんな王に忠誠を誓っている。

 おそらくだが。

 仮にそのような機会があったとしてだが、ミュフリングになら、王への私信を託してさえ信用をおける。ディネルースはそう思うまでになっていた。

 それにだ。

 問題は副官部にはない。

 ―――むしろ、うちのほうだ。まぁ、私にも責任がないわけではないが。

 そのように感じている。

 ヴァルダーベルクに到着し、衛所で居並ぶ衛兵司令や警衛兵たちの出迎えをうけ答礼しつつ営門を潜ると、朝の一慣らしをしていたのだろう、営庭を騎乗で巡っていた旅団参謀長イアヴァスリル・アイナリンド中佐と出くわした。

 故郷では長年、隣同士の氏族長として姉妹のような仲をしてきたイアヴァスリルを見ると、自然とほっとした気分になる。

「おはようございます、旅団長」

「おはよう、ヴァスリー」

 愛称で呼びかけ挨拶したところへ、気の利いた兵が駆け寄ってきたので、ふたりで馬を預ける。ディネルースは愛馬シーリを軽く撫でてやってから送り出した。

 旅団司令部庁舎へと向かいながら、とくに何も問題はないと聞かされた。

「本当にか?」

「・・・ええ」

 ちょっとばかり年の離れた妹のような関係にあるイアヴァスリルの表情と声音には、明らかに気遣いの色があった。

 すれ違う兵たちが敬礼してくるが、どこか妙な空気がある。

 ―――ふむ。同種族同性だけの所帯というのは、面倒なものだな。

 ディネルースは知っている。とっくに気づいていた。察している。

 旅団内で、彼女の噂が駆け巡っているのだ。

 ―――グスタフ王との。

 ひとの口に戸は立てられない。とくに、同性の集団のなかでは。

 おまけにその最初のきっかけとなった出来事は、不可抗力ではあったが、彼女自身にも責任がないわけではなかった―――

 一週間ほど前のある朝、ヴァルダーベルクに戻ってきて旅団内を一巡りしていると、どうも兵たちの視線が気になる。後ろからのものだ。

 しばらくするとイアヴァスリルが努めて平静を装いつつ、だが実際には慌てて寄ってきて、

「旅団長。その・・・」

「なんだ?」

「今日は、髪を結ばれないか、急いでエリクシエル剤を飲まれたほうが・・・ その・・・うなじに・・・ うなじに、痣のようなものが」

「・・・・・・・・そうか」

 それが何なのか、己のことだからすぐにわかった。

 ―――グスタフのやつ! あの馬鹿・・・!

 たしかに原因となるような愛情表現手段の一種を供された覚えはあったが、彼女自身もすっかり芯からのぼせあがっていた時間のもので、朝にはまるで忘我の彼方にあった。

 うなじのあたりから、虫に刺されたときのような痛痒感はあったから、もっと早く気付くべきだった。

 平静を装ったものの、流石のディネルースもイアヴァスリルにさえ目線を合せられず、余裕のある態で髪を解き、熊毛帽を被り直すのが精いっぱいであった。

 ―――それからだ。噂が巡るようになったのは。

 そもそも。

 ちかごろのディネルースは、元々野性的な美しさがある氏族長ではあったが、そこに同族同性の目から見てさえ円熟と、練磨と、肌艶とが加わるようになっていた。

 騎兵連隊の連中のなかには、もっと早く察している者もいた。

 なにしろ、彼女たちは交代で国王官邸にいる。

 ただ任務の性質上、官邸で見聞きしたことは一切他言無用と教育されていたから、ディネルースのこともそのように扱ってくれていただけだ。

 衛戍地の、営門衛所で配置につく連中のなかにも嗅ぎつけている者たちはいた。

 旅団長が、衛戍地すぐそばにある官舎ではなく、市街地の方向から騎行してくることに。

 だが、決定的になったのはその朝の出来事であった。

 さてその旅団長のお相手となると―――そこは勘のいい連中だから、すぐにグスタフ王だろうと、誰しもが察した。

 そのような噂が巡っているからといって、士気や練度が落ちたり、ましてやディネルースへの不信が発生したわけではない。

 旅団の総員は、あの脱出行があって生き残った者ばかり、ディネルースに命を救われたともいっていい者ばかりで、彼女への忠誠はたいへんに篤かった。

 問題は―――

 その忠誠の篤さゆえに、非常に重たい解釈をしてしまった連中がいることだ。

 ―――ディネルースさまは、我らのためにグスタフ王に・・・

 ―――なんと御労しい・・・

 とんでもない誤解だった。

 だがそれとて、まるで故なきこととも言えない。

 彼女は実際、あの脱出行前後、グスタフ王にそのような誓いを立てたことがあったからだ。とくに渡河直後のものは、それを目撃していた者もいる。

 当初はそのような町娘じみた噂の数々など、無視しておこうかと思ったが。

 どうにも我慢できない。

 私はいいさ。何を言われようが。

 だが、あの男は、そんな男ではない。

 決してそんな男ではない。

 そして、あの男がどれほど思い悩んだ上で、それを無理にも飲み込み、大事を成そうとしているか―――

 それを思うと、無性に腹まで立ってきた。

 流石に放置できまい。

 残存種族総員が、グスタフを頂とするこの国の民となった以上、取り除いておかねばならぬ誤解でもあった。オーク族や、オルクセンそのものへの不忠不信を招きかねない。

 彼女は案を練り、吟味した。

 しかりつけるのは不味い。

 何か隠しているのだと思われる。

 士気も下がるだろう。

 噂をきっぱり消してやり、出来れば隊内の空気も明るくしてしまうようなやり方―――そんなかたちが望ましい。

 ―――うむ。グスタフ流にやるか。面倒なときは、腹芸なし。包み隠さず真実を。

 彼女は、ちかごろは練度が増すにつれ余暇にはすっかり町にも遊びに出るようになった兵たちが、午後の休暇外出を想いそわそわし始める時間、つまり彼女たちの多くがいなくってしまうまでにそれを行うことにした。

 旅団長室から魔術通信を、この衛戍地内に絞ったかたちで飛ばす。

 口を用いた言葉ではなく、紙でもない。

 ダークエルフたちには通じて、外には漏れないやり方。

 万が一漏れ聞こえるような場所にコボルト族でもいたときのため、慎重に言葉は選んでもある。

「傾注。旅団同士諸君、その場にて傾注せよ―――」

 衛戍地内が一瞬ざわめき、すぐに静粛となった。

「旅団長である。どうにも私のことが気になって仕方のない連中がいるようだから、一度だけ告げてやる。いいか、これっきりのただの一度だけだ」

 一呼吸つく。

「私は故郷でただの一度も獲物を仕留めそこなったことはない。いいな、私は仕留められたのではない―――」

 ちょっと勿体ぶった、皆が皆、聞き耳を立ててしまうような間を置く。

「私の、この私自身の意思で、ちょっとばかり大きな獲物を仕留めたのだ。以上、終わり」

 ややあって。

 どっと営内に歓声があがった。

 そこら中で、流石は旅団長、快、快、などと叫んで、口笛を鳴らす者、楽器を取り出す者たちまでいた。

 ―――これでいいさ。

 二度と噂に現を抜かすやつも出まい。

 むろん、最初からそうであったように外に漏らすやつも出ない。

 私にはわかる。

 こいつらは、そういうやつらだ。

 いい連中だ。

 気持ちのいいやつらだ。

 最高の部下にして同士たちだ。

 ディネルースは、ふだん携えている将校鞄の中から一本のボトルを取り出した。

 背の高い、たっぷりとした容量のある、褐色の陶器製。銘に「電撃ブリッツ」とあった。稲妻に打たれて飛び上がる猪が描かれてもいる。

 すでに封は切られ、ほんの少しばかり中身は減っていた。 

 グスタフから昨夜贈られたばかり。

 彼からの贈り物の数々のなかで、もっとも気に入り、たいへん喜んだもの。彼があちらや、こちら、ついにはオルクセン全土の酒蔵から探し出してくれたもの。

 北部の、メルトメア州にあったらしい。

 ―――極めてエルフィンド産に近い強さと鋭利のある、火酒。

 ディネルースは、さきほどよりずっと範囲を狭くした魔術通信を飛ばした。

「ヴァスリー、ちょっと来い。遊び者の旅団長が、苦労ばかりかけている腹心に、いいものを飲ませてやる」



(続)

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