第41話

 場面は現在へと戻る。

 絹衣が大まかに経緯を九重に伝えた。

 愉悦と憎悪が入り交ざった表情で見下す絹衣。

「あなたの右腕が切り落とされた理由がこれでわかったかしら?」

「……そうか、二島……あの時の……っ」

「思い出してくれたのね。忘れた、なんてほざいてたら、きっとわたしは気が狂っていたし、どうなってたかわからないわ」

「忘れるわけねえ。忘れちゃいけねえ出来事なんだよ、あれぁ」

 九重は青ざめていた。それは右腕が切り落とされて失血したからでも、犯してしまった罪による自責の念からでもなかった。九重の中で点と点が繋がり、この瞬間、己に課された生きる目的の重さに耐えきれず、うっ血しているかのようであった。

 髑髏は事が済めば絹衣を始末するつもりだろう。対する絹衣も髑髏に真っ向から勝負するつもりだろうが、簡単に勝てるほど髑髏は甘くない。

 九重は絹衣に殺される前に、絹衣が殺されないために生きなければならない。

 今まで何をやるにも、九重の願望に自己嫌悪が靄をかけていたのに、皮肉にも今になって初めて生きたいと思う自分を受け入れることができた。

「二島、俺を殺した後はどうすんだ」

「髑髏を殺すわ。ちゃんと勝てる算段もついてる」

 ルビーのような瞳が冷たく射抜く。

「髑髏は、そう簡単に勝てる相手じゃないぞ」

「何? くたばりかけながら上から目線で話しかけないでくれる? 滑稽よ?」

「俺ぁ、……お前を死なせるわけにはいかねえんだよ」

「あなたに守られなくてもわたしは死なないわ。強くなるためにどれだけ時間と労力を費やしてきたか……わたしから家族を容易く奪ったあなたにわかるわけないでしょ!」

「んぐっ!?」

 絹衣は九重の、右腕があった場所を踏みつけた。

 九重が痛みに喘ぐと、絹衣は弾かれたように足を傷口から離した。まるで素手でやかんに触れてしまった時のようだった。

「二島?」

「……」

 黙って顔をそらされた。よく見ると彼女は左手を血が滴るほど強く握りしめていた。

 何かに堪えるように唇も引き結んでいる。それがとてもつらそうだった。

 もし自分のせいで、余計に絹衣をつらくさせているのであれば、ここで大人しく殺されるべきなのかもしれない、と九重は思った。

(考えてもみろ。俺の意志で決断したから、愚かにも数多くの罪を重ねちまったんだろうが。今さら俺の考えなんて当てにすんな。きっと絹衣は俺が知らないだけでとても強いんだ。髑髏なんて目じゃないに違いねえ)

 スッ、と自室で眠りにつくように目を瞑った。

「ごめんな、二島。お前の人生を復讐心に染めちまって。俺と髑髏を殺したら、どこかで残りの人生を謳歌してくれ。俺みたいなクソ童貞よりもっと素敵なパートナーぐらいいるだろうから。ってそんなことすら俺にぁ言う資格はねえってな。ハハッ、マジで早く死んだほうがいいな俺ぁ」

「そうね」

 その三文字に含まれた彼女の感情を九重は読み取れなかった。暗闇のせいにしたかった。

 自嘲めいた笑みを浮かべて、九重は訊いた。

「なあ、最後にひとつだけ聞かせてくれないか?」

「何?」

「俺と出会って今に至るまでの時間すべてが『嘘』だったってことか?」

 泣きそうな声ではあったが、泣きはしなかった。泣きたくても泣けなかった夜を絹衣は何度過ごしたのだろうかと思うと、九重は泣けなかった。

「そうね」

 またその三文字が返ってきた。『嘘』であったことを認めたくなくて、何度も返答を頭の中でこだまさせる。しかし、九重が望む言葉が聞こえてくることはなかった。

 絹衣は何を思ったのか、隣に腰を下ろした。

「始まりはラメダリの入り口前。嘘が付けず、ウブで素直な性格を演出して、あなたは見事に騙された」

 ――あ、寝ぐせかと思ったら眉毛でした。

 ――いきなり女の子にそんなこと言うなんて、あなた、もしかして変態ですか!?

「初めてあなたの家に行った時、玄関で一度殺そうとしたのだけれど、髑髏から聞いていた通り、一筋縄じゃいかなかったわ」

 ――おいおい、今のをお前の上司に食らわしたのかよ、とんでもねえな。

 ――エロいこと考えるの禁止。

「初デートをラウンド○ンにしたのだって、あなたの身体能力を直接確認するためだったわ。それにあわよくば身体的接触をして童素の弱体化だって狙ってたの」

 ――大丈夫、ちゃんと遠くからあなたのこと監視してたから。

 ――そっか。じゃあドキドキしてるのはわたしだけか。

 絹衣が語るごとに、その時のことを思い出していく九重。そのどれもが嘘だったと思うと、もはや笑えてくる。勝手に人助けしている気分になって、勝手に浮かれて、勝手に舞い上がって。……勝手に好きになって。

 結局、生まれてから今の今まで自己中心であることに変わりはなかったのだ。

 馬鹿らしくなって、つい乾いた笑いが口をついて出てしまった。

 だが、それを絹衣は咎めることなく、語り続けた。

「ラウンド○ンの次は、たしか映画館に行ったわね。観たい映画が違ってケンカになったっけ。でも結局あなたが折れて恋愛映画に付き合ってくれたわ。ごめんね、アニメ映画ぐらいひとりで観ろなんて言って」

 彼女が語ったのは、記憶の真意を確かめるための『調査』の思い出だ。デートなら映画館には行っているだろう、という絹衣の提案を受け、足を運んだ。それもすべて『嘘』だったとわかったばかりだが。

「水族館にも行ったわよね? 現地集合って言ったのにあなたは全然時間通りに来なくて。一時間ほどしてようやく来た時、あなたは寝坊したって言ったけど、わたし、実は見つけてたのよ? あなたが迷子の男の子をお母さんのところまで連れて行ってたのを」

 初耳だった。絹衣には見られていないと思っていたが、どうやら違ったらしい。

「そういやあの時に連絡先を交換したんだっけか」

「そうね。とても不便だったんだもの」

 今の『そうね』はほんのわずかだけ明るかった気がした。曇天の日の木漏れ陽のようだ。

「京都の街を観光した時は、あなたが八つ橋のことを本物の橋のことだと勘違いしてたのに気づいていっぱい笑ったわ。あなた、物を知らなすぎ」

「うっせえ」

「でも難病治療や外国の難民のための募金箱を見つけるたびに、何の躊躇もなく千円札を放り込むあなたは、素敵だと思ったわ。ラノベ買う金ないって言うくらいなら寄付しなければいいのに」

 ふふっ、と。

 絹衣は確かに笑った。静かに笑う彼女が愛おしく感じた。

 やめてくれ。

 どうして、今になってそんなに楽しそうに語るんだ。

 どうして、微笑む? どうして、隣に座っている? どうして、すぐに殺さない?

(俺と過ごした日々がすべて『嘘』だったというなら、いっそのこと早く殺してくれ。じゃないと、俺ぁお前に幻想を押し付けちまいそうになる。俺の中でお前が『大切な人』として記憶されちまう。ダメだろ? 俺なんかがそんな夢見ちゃあ……)

 九重は愚かな希望を瞼の裏に隠し続ける。

 それでも甘酸っぱくて美しい声は、耳から撫でるように入ってくる。

「他にも色んな街に行って、色んな事をして。ここ数カ月、わたしの隣にはいつもあなたがいたわ。わたしに殺されるなんて露ほども思っていないあなたはいつも楽しそうだった」

「やめてくれ」

「正直、盲愛のハゲワシとかいう変な男に誘拐されたのは想定外だった。髑髏から聞いていた話と違ったの。とても怖かったわ。痛くて苦しくて、復讐を果たす前にここで死んじゃうかもしれないって思ったほどね。嫌だ、嫌だ、って怯えながら『誰か助けて』って念じていたの。そしたらあなたが来たわ。不服にも輝いて見えた」

「それ以上はやめてくれ」

「瀬織津姫が暴走して、わたしが溺れそうになった時、あなたはキスをした。目隠しで見えなかったけど確かにキスの感触だった。あの瞬間、『やった。これで童素を弱体化させられた』って……」

 九重は胸の内から込み上げてくる何かよくわからないものに流され、思わず目を開く。

 すると、絹衣は細い指を唇に当て、こうこぼした。

「……思えなかった。何も考えられなかった。安心しているのか嬉しいのか屈辱なのか、とにかくわけがわからなくなったの。ただひとつ確信したのは、わたしのなかであなたがそれほどまでに影響を与える人物に変化していたということだけ」

「二島、いいから早く俺を殺せ!」

「黙って! まだ話し足りないの!」

 ギュッと両の拳に力を入れる絹衣。瀬織津姫は床で寝かされている。

「夏祭りには久方ぶりに行ったのだけれど、やっぱり楽しいものね。最初こそ、かろうじてあなたの童素をさらに弱めてやろうなんて意気込んでいたけれど、途中からもうそんなこと忘れて、ただ楽しんでいたわ。この時間がずっと続けばいいのに、って本気で思うほどに……」

「もうやめてくれ……」

「何がよ……」

「つらいなら話すな。何も考えずにただ俺を殺せばいいんだ」

「何を話すかはわたしの自由でしょ? 必要なことだから話しているの」

「だったら……っ!」

 九重は溢れる涙を瞳の裏に押し戻そうと、左手で両目を覆い、上を向く。

「泣きながら、話すんじゃねえよ……」

 絹衣の頬を一筋の涙が撫でていた。すすり泣く声すら美しかった。

「だって……っ!」

 絹衣は声を荒げた。暗闇の廃墟に綺麗に反響した。

「わからないの! もう何が何だかわからないのよ!」

「二島……」

「どうして……どうしてあなたはそんなに優しいのよ。いっそのこと非情な人間であってほしかった。世界から嫌われ、世界すべてを嫌うような悪人だったらよかったのに……」

 絹衣が雨漏りのように涙を落とす。

「どうして善人のあなたは、あの日わたしから家族を奪ったの? 皆に向ける優しさをどうしてわたしたちには向けてくれなかったの? ねえ、答えてよ……っ!」

 互いにそれ以上言葉は続かなかった。

 絹衣が泣き崩れ、壁にもたれかかる九重の太ももに顔を押し付ける。押し付けたところから彼女の悲しみの欠片がじんわりと染み出していく。

 えも言わぬまま、彼女の嫋やかな黒髪を梳いた。


 絹衣の息遣いが緩やかになった頃、もう九重は隣にいなかった。

 代わりに、

『いつもありがとう』

 という言葉が聞こえてきそうな、少し煤けた万年筆だけが絹衣の手元に残っていた。

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