トロイアウォーズ ~半人半馬先生の10年戦争~

モン・サン=ミシェル三太夫

第1話 それは誤解で始まった


 これは、古代ギリシャを二つに分けた壮絶な戦いの記録である。


 ヒヅメの音が聞こえるや、ギリシア高校の生徒たちは授業中にもかかわらず一斉に立ち上がり、秋風の中、素足にサンダル履きのまま教室を飛び出した。

「馬だ、馬だ」

「トロイア高校の奴らじゃあ」

「ネラオさんのスケ拉致らちりやがって、生かして返さねえぞ」

 紀元前七世紀、ここ古代ギリシャでも馬は決して珍しい動物ではなかった。ただ飼育し乗りこなすのに、途方もなく手間と費用がかかったのだ。

 ゆえに彼らは馬の足音を耳にして、金持ち子女の通うトロイア高校の生徒たちが、またもや遠路はるばる交流からかいにきたのだと思いこんだ。

「なんじゃあ、一人やで」

 たちまち生徒の半分以上が校庭に集結し、来訪者を取り囲む。

 馬に乗っていたのは、精悍な顔つきの大男だ。耳は長く、頬からアゴにかけての黒ヒゲは、海底にはびこる毒海藻のように野太い。あらわな上半身は筋骨隆々だ。

「われ、何年何組のもんじゃあッ」

 来訪者を取り囲んだ少年らは、手に手に陶器のカケラや棒きれをを持って、目隠し馬の行く手を阻もうとする。しかし浅黒く日焼けした男は、殺気だった少年たちの出迎えに臆するそぶりもない。むしろ歓迎を受けた凱旋兵士のように、手をふりながら悠々と彼らの隙間を縫って校庭を進んでいく。どうやら校長のいる建物に向かっているようだ。

「こいつ、ふざけた乗り回しをしやがって」

 踊るような馬の足運びに翻弄されていた少年達は、だんだん頭が冷えてきた。

 確かに奇妙な乗り方だ。第一に手綱を持っていない。次に、極端に前のめりの騎乗だ。

 それよりなにより乗り手の腰布が大きすぎて、下半身はもとより、馬の頭すらまったく隠れてしまっている。

「ま、待てっ」

 剛力一番の生徒アイアースが、腰布をつかんで引き留めようとした。ずるりと布が外れる。

 あらわになった光景に、彼はかすれ声を発した。

「ば、ばけもんじゃ!」

 腰布を握ったまま、アイアースは腰を抜かした。足をばたつかせて、尻で逃げようとした。

「馬だっ」

「馬人間だッッ」

 馬の頭があるべき位置に、人のヘソがあった。人の足のかわりに馬の四つ足がある。

 人と馬が完全にくっつき、ひとつの生物になっていた。

 かの海神ポセイドンが生み出した半人半馬「ケンタウロス」とよばれる種族である。

 来訪者は馬より高い位置からアイアースを見下ろしつつ、朗々たるギリシャ語を発した。

「そのマントを返してくれ。校長に会うからには、威儀を正さねばならぬ」

「しゃべった!」

「当然だ。俺は、今日からこの高校に赴任する教師だぞ。言葉が通じねば授業ができぬ」

 人外の怪物が教師になる……!

 その宣告に生徒達は恐慌をきたし、わっと蜘蛛の子を散らすように走り出すと、今度は体育倉庫から槍やら剣を持ち出してきた。

「やめんか!」

 丸眼鏡をかけた骨太大柄な偉丈夫が、その混乱を一喝で制した。

「オデの野郎だ」

「校長が来やがった」

 生活指導の教師達をさんざんナメ切ってる不良生徒たちでも、この武闘派の校長前では、羽目を外しきれなかった。

 彼は着任早々、歓迎パーティと称して襲いかかった生徒をことごとく自慢の強弓で病院送りにしているのだ。

「ケイロン先生、お待ちしていた」

「オデュッセウス校長自らのお出迎えかたじけない」

 長身のオデュッセウスを見下ろす形となりケイロンは恐縮したが、まさかウマだから下馬するわけにもいかない。

「本当に来ていただけたとは光栄だ。ケイロン殿は洞窟の住まいから決して離れぬと聞いていた」

神託うらないには逆らえませんからな」


 片田舎で小さな高校を仕切っていたオデュッセウス校長が、歴史あるこの男子高校の校長職を拝命したとき、異例の大抜擢だと胸躍らせたのは、もはや昔話である。着任して早々、ウワサ以上の校内の荒れように幻滅を隠せなかった。

 例えば山羊やぎにまたがって廊下を暴走する者や、万引きが高じて付近の村を略奪する者が後を絶たず、傷害事件は日常茶飯事。北メソポタミア製のガラス窓はすべて割られており、男子のくせに髪を長くする者、肩や腕を露出しないダボダボした改造制服キトンを着る者、コルクの厚底サンダルを履く者など、服装の乱れも甚だしかった。

 最近はとみに未成年の男子どうしが同衾するといった、不純同性行為ボーイズラブも悩みの種である。

「なにより、大人たちの諦めた姿勢に腹が立ったのだ」

 オデュッセウスは校長室の豪奢な椅子に腰掛けて、話を続けた。

「なるほど体育に力を入れた名門男子校。名にし負う猛者が教員としてそろっていたが、彼らは決して教育者の資質ではなかった。我関せずを決めこみ、自分の技を修めたいという志願者のみ愛弟子まなでしとして指導する。おかげで校内に強固な派閥ができてしまった」

 校内暴力に加えて校内抗争まで抱え込み、敬虔深いオデュッセウス校長は、デルポイの神殿に赴いた。ガイア女神に神託を求めたのだ。

 寝ているのか起きているのかわからぬ巫女は、ケンタウロス族のケイロンの名を口にした。

「指導者としてこれほど適任な男は、ギリシャ全土を探しても他にはいなかっただろう。なにしろ、ギリシャ最大の英雄ヘラクレスに武芸百般を、ゼウスの息子ディオスクロイのカストールらに馬術をたたき込んだのが貴兄だからな」

 名高きアルゴ船を主宰した王子イアソンを育てたのも彼である。まさに、名伯楽。英雄育成の超プロだ。

「先ほどは大した歓迎ぶりでしたな」

 二階の窓からケイロンは校庭を見下ろす。ここに校長室が移された理由は明瞭である。昼休み中の生徒の動きが手に取るようにわかり、それだけでリーダー格と、チンピラと、平穏無事な生活を願っている普通の生徒とを見分けることができた。

 はたしてケイロンの目にかなう生徒はいるのだろうか。

「あのフラフラしている生徒は?」

 革袋に口をつけては恍惚の表情を浮かべる生徒を、新人教師は指さした。

「ガスを吸って、気持ちよくなっているのだ」

――ほう、デルフォイ神殿の巫女のようなことをする。神々の声につねに耳を傾けるのは良い心がけだ。

 ケイロンは、見どころある生徒がもっと埋もれているような気がしてきた。

「我が校の生徒が、どれだけがたい不良ばかりかおわかりだろう」

 校長が苦笑する。

「みんな、あり余る力の使い道を知らないだけなのでしょう」

「そうなのだ。私はただ若さに任せて力をふるう彼らの情熱と力を、技術テクネーにまで昇華させたいのだ」

 この言葉にケイロンは衝撃を受けた。

芸術テクネーですと!」

 粗野という概念に、そのまま両手両足をつけて野放しにしたような彼らが。いや、しかし、まさか。

「ケイロン先生は、その道に比類なき見識をお持ちであろう」

「いやはや。実際それなりの技は伝授されておりますが」

――確かに私はアポロン神に師事し、その音楽の技を皆伝されている。しかし、なぜオデュッセウス校長がそれを知っているのだろう。智恵者とは聞いていたが、ここまでお見通しとは。

「若者の可能性は無限。幾多の英雄を育てあげたケイロン先生なら、彼らの持つ素質がおわかりのはず」

 ケイロンが冷や汗をかくほどの人物が、生徒に芸術の才能を見いだしている。

「なるほど、言われてみれば、型破りでロックなやつらという見方も」

「ああ、まったく規則を守らず、ロクでもない連中だ」

「そうなれば、まずは彼らの楽器アラを見極めなければなりますまい」

「ふむ、アラ探しなどせんでも、やつらは、見たままの不良だと思うのだが」

――さすがはオデュッセウス校長、一目で看破せよと申されるか。

 しからばと、ケイロンは眼を細めて彼らの一挙手、一投足を観察する。若さゆえの身体のしなやかさと、中心線のぶれない立ち姿が目に映る。

「なるほど、まさに彼らは原石のよう」

 言われて初めて気づく才能もあるものだ。

「彼らを磨けば、アメジストやエメラルドのように、王者の権威を知らしめる宝石となるでしょう」

 彼の視線の先に、ことさら光り輝いて見える一団があった。


「あれですよ、新任の先公ってのは」

 情報屋の生徒が、ガメノン番長に耳打ちする。

「こっちを見てるな」

 高みからのケイロンの視線を、取り巻きを従える番長が不敵に見返した。高校生に不釣り合いなほど立派な顎髭あごひげを蓄えた男である。

「あれが半人半馬のケンタウロスっていう種族です」

「ほう、あれが!」

 男はわざと聞こえるように声をあげる。

「ケンタウロスとやらは! 野蛮で粗暴で、女と見れば見境ない種族らしいなァ!」

「ああ、ここが男子校で良かったぜ」

「おおう? そうでもないさ。女もいるぜ」

 彼らの視線は、離れた場所でひとり鍛錬をしている一年生に向く。黒髪を長く伸ばし、一本のヒゲも生やさず、褐色の肌が汗に輝く若者だ。女物の服を着せれば、そのまま少女で通る整った顔立ちである。

「ああ、軟弱派のアキレスか。あんなやつは、神殿で巫女にまじって祈祷でもしてるこった」

 ぞぶっ。

 言い終わる間もなく、ガメノンの足元に槍が突き刺さっていた。彼方では、アキレスが早くも二本目の投擲とうてき準備をすませ、標的を睨んでいる。

「じ、冗談だよ」

 やれやれといった仕草でガメノンは両手をひらつかせるが、取り巻き連中には、冷や汗を扇いでいるようにしか見えなかった。


「ご覧いただいたか。槍を投げたのがアキレスだ」

 校長はその武芸の技量をほめそやした。

「槍だけではない。体術にも心得があり、なにより俊足だ。私が最も注目する生徒でな」

「ええ、実に素晴らしい」

 ケイロンも請け合った。

――あの距離から悪口を聞きつけるとは、まさに地獄ハデスの耳だ。さぞや音感も素晴らしいだろう。

「やるからには、みんなで国立を目指しますとも」

 私学の音大では最高峰とされる国立くにたち音楽大学に合格者を出す。これこそ、彼らの将来を大きく切り開く最もわかりやすい目標だとケイロンは確信した。

「おお、国立を!」

 かたやオデュッセウス校長は、すっかり国立こくりつ競技場のことだと信じた。オリンピックや、全国大会の決勝がこの場所で開催されるからだ。

 二人の間に生まれた齟齬が、早くも回復不能なまでに悪化していたとは、不和の女神エリスですら知るよしもなかった。


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