☆山口洋子物語(2014年没)part2

すどう零

第1話 生き抜いて魂をこの世に残そう

「いらっしゃいませ。うわあH軍ピッチャーじゃないですか。

 昨日の試合、見ましたよ。いい球、投げてましたね。バッターもたじたじだったんじゃないですか?」

 ピッチャーは、嬉しそうに照れた表情を見せた。

 私は本題に入った。

「昨日のキャッチャーも、ずいぶんご活躍だったですね」

「ああ、名田のことですか?」

 へえ、名田選手っていうんだ。

「ああそうだ。名田を今、電話で呼び出しましょうか」

「えっ、いいんですか?」

 ラッキーなこともあるものだ。


 十五分たって、名田は現れた。

「覚えてますか? ほら、飛行機のなかでご一緒した」

「ええ、覚えてますよ。お手拭きを頂いた人でしょう」

 名田は、嬉しそうに微笑んだ。

「あのときのあなたって、とっても淋しそうにしてたから、どうしたのかなって思って」

 これがきっかけで、名田と二年近いつきあいをすることになろうとは、思いもしなかった。


 名田は、キャッチャーらしい寛大さで、私を受け止めてくれた。

 売上、ホステス同志のいさかい、客のつけの回収にささくれだっていた私の心に一筋の灯を与えてくれた。


 いつしか、私は名田の遠征についていくようになった。

 一人で宿を取り、名田との逢瀬を楽しんでいた。

 宿のおかみは、私を奥さんと呼んだ。

 嬉しいような、照れくさいような、九割方まであきらめかけてた結婚の文字が目に浮かんだ。


 私は下げマンだったかもしれない。

 名田は、私とのつきあいが濃くなるにつれて、野球の成績は下がっていった。

 それぞれ、チームメイトにも私とのつきあいが、浮上してきたらしい。

「銀座のママのつばめの気分は、どうかね」

 などと、先輩からも揶揄されるようになった。

 当時はフライデーなどなかったので、堂々と女遊びをしている人が目立っていたが、名田の場合は、銀座のママを射止めたというので、話題になっていた。

 羨望ともねたみが絡まった白い視線が、名田の周囲に渦巻いていた。


 名田と私とは、いつしか絆のようなものを感じていた。

 お互いの相性がよかったのだろう。

 しかし名田の実家は、芦屋にある邸宅で、父親は建設会社を経営していた。

 名田の実家は、私との結婚を猛反対しているという。

 できたら、もうつきあいは潮時にしなさいと言われているらしい。

 無理もなかろう。私は名田より三歳年上だし、住む世界も違っている。

 共通点といえば、二人とも文学好きの野球好きということくらいである。


 所詮、水商売というのは切り花である。

 若くみずみずしい心を、金とひきかえにするだけ。

 心の切り売りを楽しんだあと、年と共にさびれているネオンの光。


 銀座のネオン街は、移り変わりが激しい。

 だからこそ、銀座の女は異常なまでに結婚に憧れるのかもしれない。

 結婚を保険のように思っている。

 もちろん、私もそのうちの一人だった。


 私は名田の家に挨拶に行くことになった。

 ひょっとして、結婚を認めてもらえるという甘い期待感があった。

 名田の住んでいる家というよりは邸宅は、兵庫県の芦屋にあり、いかめしい門構えからして、私を圧倒した。

 できるだけ、OL風に見えるように、私は紺のスカートに白いブラウスを着て行った。名田の母親は、非常に愛想のいい人だった。

「ようこそ、いらっしゃいませ」

 名田は、少し照れたように

「これ、洋子だよ」

「これってことがありますか。もうこの人は」

 と名田をたしなめた。


「爺さんの部屋にいくよ」

 母親は、阻止しようとした。

「病人の部屋にお連れするとは、お客様に失礼じゃないの」

 しかし、名田はそれを振り切るようにして、私を爺さんの部屋に連れていった。

 ベッド越しの爺さんは

「おお、きれいな人じゃ。この人なら文金高島田も似合うことだろう。

 お前も案外、目が高いのう」

 この爺さんならわかってくれる。私は味方を得たような気がした。

 そののち、名田と再会したとき、たった一人の味方だった爺さんが死んだというのを聞いて、これで私と名田との縁は切れたと確信した。


 スマートらしく、上品に迎えてくれたけど、その裏には、あくまであなたは息子のガールフレンドの一人であり、嫁としてこの家にいらっしゃることなどできませんよという壁のような冷たい隔たりが、ありありと含まれていた。

 銀座のネオン街の喧騒と、どこか冷たい塀に囲まれた高級住宅街。

 私には、前者の方が居心地よかった。

 まるで、お屋敷の塀のごとく、名田の母親は私を受け入れようとはしなかった。

 銀座の夜の蝶は、ネオン街だけでしか羽根を広げて輝くことは不可能である。

 私は、その言葉が、現実として胸に迫ってくるのを感じていた。


「姉さんの家に行くよ」

 名田は、マンションの一室に案内してくれた

 名田の姉は、名田と自分には名田の好物の香り高いアールグレイ紅茶。

 そして、私には缶ビールをだした。

 名田はびっくりしたような顔で

「おいおい姉さん。俺と姉さんの好物はいいけれど、どうして彼女にだけはビールなのかな?」

 名田の姉は、意外そうに言った。

「あら、ごめんなさい。だって、銀座のバーを経営してらっしゃるって聞いたから」

 私は思わず吹き出した。

 やはり、私は名田一族とは別世界の人間でしかない。

 これは、銀座の蝶らしく私から身を引いた方が賢明である。

 私は、名田との別離とを決意した。


 蝶には蝶のプライドがある。

 陽光の下の穏やかな空気のなかで、甘い密を求めて花から花へと、ひらひらと飛び回るのが、蝶の宿命。

 蝶でい続けるためには、この別世界から身を引くこと以外にはない。

 私は別世界でいじめられた子供が、故郷に戻るように、銀座に舞い戻った。

 やはり、私には銀座のネオンの光と客の喧騒がよく似合う。

 私は、以前より仕事をはりきろうと思っていた。

 しかし不景気の波は真っ先に銀座の高級クラブを直撃した。


 ただでさえ、変遷の激しい銀座のネオン川の激流を泳ぎ切るのは、運も努力も必要である。

 私は、その頃、芥川賞作家の弟子になり小説を書き始めていたので、経営は今までの番頭に任せることにした。


 しかし、私の経営する銀座バー妃(きさき)には、いろんなホステスがいたなあ。

 なかには、しのぶというミスユニバースの子もいた。

 平凡な顔立ちでひょろりと痩せた身体つきに、薄幸の匂いがにじみ出るようだ。

 唯一笑顔だけは、さすがにミスユニバースの栄冠を勝ち取っただけあって、薄暗い日陰街にパッと光が差し込むような、華やかさをともなった救いを感じさせる。

 母親と連れられ、いかにも金が必要であるという、背水の陣のような切羽詰まったあせりをひしひしと伝わってくる。

「ミスユニバースだとかいっても、あちこちに挨拶にいくだけで、ギャラがでるわけでもないし、せいぜい交通費くらいしかくれない。かえって、衣装や化粧品など、物入りなんですよ」

 母親は昔、芸者をしていたという。

 私は母親の要求通り、バンス(前借金)を渡した。

 しかし、バンスを受け取ったホステスは、なんとしてでも客から、売上を上げねばならない。

 しのぶにその能力があるだろうか?

 

 確かにしのぶは、化粧映えする顔立ちだった。

 しかし、客はついても長続きしない。

「あいつは、真実味がない。言ってることも、どこまでが本当かそうでないか、定かではない」

「あいつは、酒癖がどうもね」

 たいていの客は、あきらめ顔でしのぶから去って行く。

 また、しのぶも客に対する誠意は感じられない。


 一年後、しのぶは自殺を図った。

 なんでも、客の一人と不倫をしていたらしい。

 債務者としてのしのぶはバンス(前借金)でがんじがらめになり、不倫なんてしているヒマはないはずなのに、全く矛盾した話だと、金を貸した債権者である私は呆れるのを通り越して苦笑いしてしまった。


 

 

 

 

 

 

 

 


 

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