2. 禁忌の森

 十五分ほど森の中を進むと、円形の広場に出る。エルのお気に入りの場所だ。

 気分が落ち込んだり、胸がもやもやしたりすると、ついここへ来てしまう。そうして何をするでもなく、倒木に腰かけて広場を眺め、空を流れる雲を数えた。

 ツリーハウスはみんなの隠れ家だが、この場所はエルしか知らなかった。あえて隠している、というわけではない。この森にはエル以外の人間が入ってこないのだから、教えようがない。

 大人たちはここを「ブーザーズ・フォレスト」と呼び、住人が中へ入ることを固く禁じていた。町にはこんな噂がある。

 

 森には恐ろしい魔物が住んでいて、入った者を惑わせる。

 そして、二度と帰ってくることはない。

 

 馬鹿馬鹿しい。

 彼はこの森のことならば誰よりも詳しいと自負していたが、一度も魔物に会ったことなどない。いるのは小さな虫たちくらいで、鳥の姿すらほとんど見かけないのだ。だが、くだらない迷信のおかげでこの場所を占有できるのは、エルにとってありがたいことだった。


 エルは倒木に仰向けに寝そべると、帽子のつばをずらして空を見上げた。燦々と照る太陽がまだ上空に居座っていたが、先ほどサイクリングロードを歩いていた時よりはずいぶんと涼しく感じられる。理由は日が傾いたせいではなく、この森の影響だった。この森には魔物なんて存在しないが、町とは違う空気が流れているのはたしかだった。

 森に入る時、エルはいつもひんやりとした冷気が背中を撫でるのを感じる。何か、目に見えない大気の層を通過するような感覚だ。それは昔から変わらない。父に連れられて初めてここへ来たときから、ずっと。


 初めて森へ入ったのはエルが四歳のときだった。

 父は森を取り囲んでいるバリケードの前で立ち止まると、エルと目線の高さを合わせるようにして屈んだ。

「エル、この森のことは知ってるね?」

 彼は大きく頷いた。自分の知っていることを聞かれるのは、幼いエルには嬉しいことだった。

「ここには魔物が住んでいて、その叫び声が人間の頭を爆発させちゃうんだ」

 父は笑った。

「父さんが子供の頃は、『目玉が溶ける』だった。なぁエル、父さんとの秘密を守れるか?」

「秘密って?」

「簡単に誰かに話してはいけないことを、今から教えようと思う。それは、父さんとエルの二人だけの秘密にしなきゃいけない。守れるかな?」

 父の口元には笑みが残っていたが、目は真面目なものに変わっていた。父は真剣なのだと、幼いエルにも理解できた。

「守れる」

 父は大きく頷くと、「ついておいで」と言って歩き始めた。


 サイクリングロードをしばらく歩いて行くと、バリケードがカーブを描いて森の中へと入っていく箇所があった。ブーザーズ・フォレストというのはこのバリケードで囲まれた内側を指しており、外側の森については自由に出入りすることができる。

 父はふと立ち止まって周囲を見まわしてから、バリケードに沿って森の奥へと進み始めた。エルの背丈の五倍ほどあるバリケードが木々の間を縫ってどこまでも続いていた。


 しばらく進むと、父がふたたび立ち止まった。エルはぼんやりとしていたために父の背中にぶつかってしまい、地面に尻もちをついた。

 エルを優しく抱き起こすと、父はバリケードを指差した。そこには大きな穴が開いていた。オオカミがやったんだ、と思った。このあいだエルが読んだ絵本に出てきた巨大なオオカミが、息を強く吹いただけでレンガ造りの家を吹き飛ばしていたからだ。

「ここから中へ入るんだ」

 耳を疑った。念のため父の言葉をオウム返しに繰り返してみたが、父は頷くだけだった。

「でも、森には入っちゃダメなんでしょ?」

「どうして?」

 優しい目をしたままそんなことを言う父が、エルには理解できなかった。

「だって中には魔物がいるんだよ。お父さんだって、さっき目玉が溶けるって——」

「そうだね。じゃあ確かめてみよう」

 父はそう言って微笑むと、あっさりとバリケードの穴を潜っていってしまった。

 エルは金網の向こうに立っている父を見上げた。父は相変わらず父のままで、外側にいた時となんら変わらない父であった。


 とても恐ろしかった。だが、自分は何を恐れているのだろう。魔物が住むという森が恐ろしいのか、アイスの棒をゴミ箱に捨てるように簡単に禁忌を破った父が恐ろしいのか、それともその両方だろうか。

 父はじっとエルを見つめていた。微笑んだままだったが、エルは父に試されているような気がした。父が自分のことを待っている。エルは大きく息を吸ってから拳をぎゅっと握り、バリケードの下を潜った。とても怖かったが、自分が父の期待に応えられないことも同じくらい怖かった。


 バリケードを潜った瞬間、寒気を感じた。ふいに真っ白なドレスを着た髪の長い女性が背後に立っているイメージが脳裏に浮かび、エルは悲鳴を上げて父の足に縋り付いた。

「大丈夫。ほら、なんともないだろう?」

 父の言うとおり先ほどの寒気は消え去ってしまっていて、生暖かい風が木々の枝を揺らしているだけだった。

「さぁ、じゃあ探検してみようか」

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