第6話 サンセット・イズ・ビューティフル

 世界はとても穏やかだと思っていたが、この世界の一員である限り事件事故は紙面や画面上の賑わいというわけにはいかないようだ。

 佐々木という同僚が死んだ。世間でのメディアによる報道は佐々木が殺されたことを強調し、容疑者を救いようのない奴であるかのように言葉を並べた。

 大袈裟なフレーズのわりに、我々は聞き馴れている。事故は珍しいことじゃない。ブレーキを生かせない奴は、アクセルの価値を殺してしまう。

 事故は先週の月曜日だったから、もうすぐで二週間がつ。

 今日はもう、土曜日だ。

 あいつは、佐々木はどうにも苦手な人間だった。

 嫌っているわけではない。けれど、好んで近寄ろうとも思わなかった。

 あいつは自信に満ちていた。見ていれば分かった。

 自信満々に大口開けて笑う訳ではなかったが、かといって卑屈っぽく自分を未熟者扱いすることもなかった。

 のんびりたたずむ姿に示した微笑みを合わせてみれば、わざわざ発信せずとも満ち満ちた心持ちがあるのは分かる。

 それでも、うかつなことをすると足をすくわれる。なんだか近寄りがたい人間。

 今まで出会ったこのたぐいの人間の特徴だと、ガラが悪い、ガタイが良い、目つきが悪い。あとは、美女やイケメンなのだが新種の電波を飛ばしているのではないかと思うほどに異次元な人々だ。

 佐々木はモテる人間の類だがこれらの近寄りがたい例に当てはまらない。

 電波の例と比較すると、佐々木はオーラのようなものをむしろ限りなく内側へ溜め込んで秘めているようだった。

 だから思惑や気分を織り込んだ気配は曖昧だ。きっかけさえなければ、問題は起こらない。

 あいつの持つスイッチに触れてしまったり、人と人とのいわば国境くにざかいを越えて踏み入ってしまったはずみに、彼の秘めたる力が働く。言動の柔らかさとは裏腹にいかめしい力が、あたかも飛べない蚊にするようにひとひねり。

 イメージできる。だから決して近寄らなかった。

 親しくもうとましくも、朱は交わる者をべっとりとした粘りで赤く塗り染める。この確信に支えられた概念に、一度ひとたびも抗わずつね従った。

 もし佐々木のことを赤いと仮定するならば、俺は決して赤くはない。むしろ赤の反対だろう。

 俺は生きていて、あいつは死んだ。これも正反対。

 今日は土曜日。だから自宅に籠っている。

 元々、土日は仕事がない。熱中している趣味なんてのも今は取り立ててない。

 なにか打ち込めるものがあればよかっただろうが、無いものは仕方がない。

 部屋の中で静かに、静かに息をする。

 こうしていると、わずかに開いたサッシ戸の向こうから雨音がささやく。

 雨が地面をたたく音。大粒のしずくが金属製のりに垂れる音。一滴で一音が甲高く鳴り渡り、雨水を集める配管やあまどいからも流水音が聞こえる。まるでせせらぎのようだ。

 雨で気が滅入ることは昔からなかった。むしろ雨音で心がくつろぐほうだった。

 緊張を緩めると思考も柔軟になる。

 俺は一体、あいつに何の未練を感じているのか?

 たしかに佐々木とはちゃんと話をしたことがない。ひとえに避け続けてきた結果だ。

 今の今まで、俺はあり地獄じごくに足を取られまいとする蟻そのものだった。

 だから関わりはなかった。

 いや、そうでもないか。

 たった一度だけ、わずかな時間だけ二人きりで話したことがあった。

 缶コーヒーをおごってもらったのだ。

 一年と少し前だ。

 五月か六月。小休憩のときのことだ。

 そもそも俺は転職して今の職場に入った。これが一年半前の二月。

 この会社はいわゆる大企業。

 人々は名を聞けば作るものを思い出し、物を見ればどこの会社か口にすることができる。

 そんな会社で、俺は腕試しをしたかった。腕を磨きたいとも願っていた。

 いざ転職をして配置された職場で、佐々木と出会った。

 あいつとも競い合うはずだったのに、次第に距離を置くようになった。

 前にも述べた通り、あいつに近づくと駄目になってしまうと警戒したから。

 話を元に戻す。

 俺が足を踏み入れたのは自動販売機とベンチの並ぶ一室。

 ここに偶然いた先客が佐々木だった。

 機械が商品を落とす音が響き、それを取り出したところであいつと目が合った。

「あっ」

 と俺が思わずうめき、

「お疲れさまです」

 と佐々木が挨拶をする。いつも通り爽やかに、にこやかに。

「どうも」

 と、ぐぐもった声で会釈してから歩き出した。

 缶のプルタブを引く音が室内に鳴り渡ると静かにあいつは口を付けた。

 一口分のあとに言った。

「調子はどうですか?」

 こんなありふれた台詞でさえ、洗練されて聞こえる。

 あいつとは同い年らしい。でも、五つか六つほど老けているのだと思いたかった。

 何故こんなにも充実した内面を持つのか実に不思議だった。

 先ほどの問いかけに対しては、

「まだ七・五人前って感じです」

 と答えた。

 冗談を半分、自分への皮肉を残り半分にした台詞せりふ。転職してもう三ヶ月以上だったが思いのほか苦戦していた。与えられた仕事をちぐはぐとこなし、一日は手ごたえなく終わっていった。

 こんなことでは腕試しもままならない、という焦りの中だった。

「そうですか」

 佐々木は話を続けることはなかった。

 俺は室内の自動販売機を代わる代わる覗き込んだ。

 喉が渇いているというよりも口寂しいだけだったから、すぐには決めかねた。別に買わなくてもよかった。

 一通り眺めてから、甘ったるいミルクティーにしようか薄味のスポーツドリンクにしようかと悩んでいる最中にまた一つ、飲料が自販機から落ちる音がした。それは背面からだった。

「伊達さん、これどうぞ」

 振り返ると、あいつが缶コーヒーを差し出している。

「いや、大丈夫です。悪いですから」

 他の社員だったらとりあえず受け取っておくのだが、こいつは例外だ。しかし断ったのにも関わらす、

「別にそんなことはないですよ。とりあえず、ここに置いておきます」

 なんていいながら、ベンチの端に置いた。

「僕は先に戻りますね」

 と、結局あいつは流れるように立ち去ってしまった。

 怒るよりも呆気にとられてしまった。

『悪いから』ではなく『苦手だから』と軽く嘘をつくべきだったな、などと浅い反省をしていた。何かを受け取ってもらうにもやり方があるようだ。目の前で示されたのだから。

 缶はベンチに置かれ、俺はただ立ち尽くし、自動販売機はただただ唸っていた。

 仕方なく置き土産を手に取り、ゆっくりと観察をした。

 無糖のブラック。小ぶりなアルミ缶はよく冷えていて、梅雨の時候も相まってすでに水滴が付き始めていた。

 まぁ、雄弁に語りだす気遣いよりもこの無口な差し入れの方が大分マシではある。しかしながら受け取らざるを得ないようにするのは、若干の気障きざわりさを禁じ得なかった。

 それでも気取っには見えない。総じて、

『全ての飾りを取り払ったあいつの人間性みたいなものなんだろうな』

 と落着してしまう。

 ではもし、俺が全ての飾りを取り払ったら何が残るのか? なんて考えながらプルタブに指をかける。

 五秒にも満たない思考。

 とりあえず、意地っ張りな性分だけは確実に残るだろうな。

 こう考えた途端、指は止まった。

 結局、自分は最善を尽くして素直になったとしても意地っ張りだ。

 そんな俺が今飲んでしまうのはまるで佐々木のいいなりになったみたいだ。

 それは悔しいじゃないか。

 だったら、あいつに追いついてから飲めばいい。もちろん仕事においてだ。肩はぶつけるのではなく、すっと横に並べたい。

 だらだらと見栄っ張りをやっても仕方ないから、タイムリミットはこのコーヒーの賞味期限まで、としておこう。

 とりあえず缶コーヒーはズボンのポケットに滑り込ませ、あの時の俺はスポーツドリンクを買い直して飲んだのだ。

 そう、こんなことを当時は考えた。

 にもかかわらず、このかたくなさが今まで俺をおおっていたから、今まで本当にこの缶コーヒーのことを忘れていた。昼間に海面下で息を潜める月のように全て表へ出ることはなかった。

 やがて暮れ方に昇る東の月を見つめるように俺は思い出した。何故なら、太陽が西へ沈んだからだった。

 雨は未だに心地よく鳴っている。

 久し振りに明るみに出た缶コーヒーの存在。

 たしかに持って帰ったはずだ。思い出したからには気になってしまう。

 すっと立ち上がってからの冷蔵庫の中、本棚、テレビの近く、物置の高い位置の棚。

 手当たり次第に探して結局、三十分くらいかかった挙句に文房具類をしまった引き出しの奥から発見した。

 まとわりつくホコリを指で払い、缶の底を天井へ向ける。印字された賞味期限は四か月も昔に切れていた。それから総点検をするようにまじまじと缶を見つめた。

 時間はあったが結局追いつくことさえできなかった。

 比喩として佐々木に近づくさまを『朱に交わる』と言い表した。加えて、自分があいつと対照的である自覚もあった。

 もしあいつが赤い奴だったならば、俺は何色だったのか。今は何色なのか。

 そもそも、俺は赤という色にどんな特徴を重ねているのか。

 黒と白、青はもれなく赤と対を成す。

 日が暮れれば辺り一面は暗くなり、何も見えなくなる。夕焼けはやはり綺麗で、あとに月夜星夜がやってくる。

 もう暮れてしまった後で後悔しても遅い。

 だが、もっとあいつの周りに飛び込んで話しておけばよかった。この後悔は一生ものだろう。

 もし俺の色が青だったら、一体どうなる?

 青ならば朱に交わって日が暮れていつか時がつのを忘れる。

 並べる肩がもういなくなってしまったことに、今更ながら俺は涙がしとしととあふれる。

 思い出の日も、今日も。湿っぽさが似ていた。

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