第19話

 干し終わって、部屋に入ろうとすると一瞬陽子はびくっとして体を固くした。部屋の真ん中にはアフロが立っていて、黙って陽子を見つめていた。


「び……びっくりした……」


 言いながら陽子はベランダを閉め、


「今日はごはん作ってなかったのね。あんた、料理上手いから毎日作ってくれたら助かるんだけど。あ、でも遅番の日はあんまり食べないのよ。ほら、夜遅いから。太るでしょ。これでもちょっと気をつけてんのよ。そういえばあんたは普段ごはんどうしてんの? 悪魔とかって別に毎食食べなくてもいいの? ってゆーか、人間と同じでいいの? もっとワケの分かんないもの食べるんじゃないの? ヤモリとかトカゲとか……」


 アフロと目を合わせることが怖かった。なにもかもを見ているアフロに今は何を言えばいいのか分からなくて。


 台所で琺瑯のコーヒーポットに水を入れ、

「コーヒー飲む?」

 と、陽子は背を向けたまま尋ねた。


「紅茶でもいいけど」


 そんな風にうやむやに胡麻化そうとする陽子にアフロはずばっと切りこんできた。


「なんで言わへんかってん」


「……なにを」


「あんた、さっきの人に言うたこと、なんで元彼にも同じこと、同じだけ言わへんかってん」


「……」


「そんで、なんで泣けへんかったんや」


「泣いてもしょうがないじゃない」


「別に我慢せんでもええやないか。それとも、あの人が言うたみたいにやっぱり見栄なんか」


「そんなんじゃない!」


 咄嗟に陽子はアフロを振り向いた。アフロは音もなく背後に立っていて、怒ったような、まるで睨むような厳しい目で陽子を見下ろしていた。


「あんたが仕事熱心で厳しいんは分かるわ。そら、時々は後輩とかから恨まれることもあるねんやろ。けどな、さっきの人が言うたんはちょっとちゃう思うで。あんた別に嫌われてへんで。そら確かに怖い先輩なんかも知れへんけど、優しいとこかてあるやん。それ、みんな知ってるで。せやから、後輩の子らあんたに気ぃ使てくれてるんやん」


「……」


「でも、あんたが見栄っぱりなんはちょっとだけほんまや思うわ。慰謝料のこと腹立つやろうけど、それ言い出した元彼にはなんで怒らへんかってん」


「……」


「まあ、あんなこと言いに来るあの人もどうかと思うけど……。あの人もあんたと同じでしっかりした女なんやろな。男の為に一肌脱いだつもりなんか知らんけど……」


「……」


「そうかて、あんた、怒鳴るんやったら元彼にも怒鳴ったらんかいな。それせえへんかったんは、まだ好きやからなんか」


「また私のせいなの? また、私が悪いっていうの? 彼氏盗ったのは向こうじゃないのよ」


「浮気したんは彼氏やろ」


「それが私のせいだったわけ?」


「そんなん言うてへんやん。あんた、元彼の前では黙って静かに話し聞いて、これからお金いるやろからそんなんええとか言うて、そない腹立つんやったら言うたったらよかってん。浮気のことも、責めたったらよかったやないか。自分の友達とくっついて、結婚するやなんて、そらひどい思うわ。あんた、それ怒る権利あったと思うわ。でも、それ、あんた全部知ってるくせに一言も言わへんかったやないか。あれは、なんでやねんな」


 アフロの口ぶりは陽子を責めるようでもあり、一緒になって怒っているようでもあった。しかし、同時に問い詰められているようでもあって陽子は答えることができなかった。


 なぜと言われても答えなどそういくつもあるものではなく、恐らくはアフロの言う通り、哲司をまだ好きで、だから彼を悪し様に責めたくなくて、責める醜さを見せたくなくて、せめて綺麗なままでいたくて、怒るのも取り乱すのも結局は自分の見栄だからできなくて、陽子はそれこそが自分の非であると知り、鼻先に突きつけられてむっと押し黙っていた。


「なんでそんな自分に無理するねん」


「無理なんかしてない」


「してるやん。あんた、我慢してるやん」


「してない」


「せんでええねんで」


「……」


「そんなん、せんでええねん」


 なにが無理で、どれが我慢だったのかもう陽子には分からなかった。思えばいつもそうだったのか。背筋を伸ばす癖。あれはいつだって自分を鼓舞しなければいけない苦しい局面のものだった。


 陽子はくるりとアフロに背中を向け、シンクの縁を両手で掴むようにして水の入ったポットを見つめた。


 赤いポットが流しの中で静かに光沢を放っている。シンクを掴む手に力が入る。陽子は唇を噛みしめた。そうしなければ後から後から溢れてくる涙のせいで嗚咽をこらえることができなくて。


 大粒の涙がぽたっとシンクに音を立てて落ちた。こんなに大きな音が出るのだと思った。水道の蛇口から水が垂れるのと同じ音。今や陽子は壊れた水道も同然だった。


 すると背後に立っていたアフロが陽子の手首をおもむろに掴み、シンクから指を引き離した。


「あんた、悪ないで」


 アフロはそう言うとそのまま陽子を抱きしめた。


 それが不意打ちだったので陽子はアフロの胸に顔を押しつける格好になり、とうとうこらえきれずに激しく泣きだしてしまった。


 アフロのTシャツに涙や鼻水をこすりつけ、しゃくりあげて泣いた。その間、アフロの大きな手が陽子の頭や背中を撫でさすり、時々子供をあやすように軽く叩いた。


 陽子は哲司も千夏も好きだった。しかし、今はもう好きではなかった。それが裏切りよりもつらい事実として陽子を切り刻む。知らずにいれば幸せだったのに。少なくとも今よりはマシだったはずなのに。もう後戻りはできない。


 泣きながら陽子は自分の心が今までと真逆の方へ走り出すのを止めることができなかった。


 ひとしきり泣くとアフロの手が陽子の頬を挟み込んだ。


「あーあ、鼻水ずるずる……。顔ぐちゃぐちゃやん……」


 うるさい。余計なお世話だ。悪かったな。陽子はそう言い返そうとした。が、できなかった。陽子の唇にアフロの唇が触れ、言葉の出る余地はなかった。


 長い口づけの後、陽子は小さな声で言った。


「……殺してよ」


「え?」


「あの二人、殺してよ」


「……なにを言って……」


「願い事」


「……」


「これが私の願い事よ」


 アフロは陽子の目の奥を真剣に覗き込んだ。陽子の黒目は泣き濡れて透明に光り、怒りや憎しみ、悲しみに縁どられていた。


 陽子は自分の言っていることがどんなに残酷で、非道なことか自分でもちゃんと分かっていた。本気かと聞かれれば、本気だと答える用意もあった。


 この剥き出しの殺意を、憎悪を、言葉にしなければ一体自分の気持ちをどこへぶつければいいか分からなかったし、もう、見栄を張っていい人のふりをするのに心底うんざりしていた。


 一体、何のための見栄だったのだろう。そうやって守ったプライドが自分にとってどれほどの役に立つというのか。この先もずっと。千夏と哲司。二人の言葉もそれぞれの人格も、三人の思い出も陽子にとって今は泥水をぶっかけたようなものだ。そして、この汚染は永久に濯がれはしない。


 呪いの言葉は自分を醜く愚かにしているのも分かっていた。でも、この呪いを自分の中に押しとどめて、自分だけが侵されていくのも許せなかった。


 アフロは尋ね返すことはしなかった。ただ黙って陽子を見つめていた。陽子の目から最後の一滴とも思わせるような涙が一筋頬を流れた。今、陽子はすべてを捨て去った気がしていた。


 二人の距離は近かった。アフロは腕の中の陽子を再び抱き寄せてキスをした。陽子も無言のうちにそれに応えた。


 その夜、陽子はアフロの髪が思いのほか柔らかく、ふかふかした手触りであることを知った。アフロというのはもっとごわごわして、金タワシみたいみたいなのかと思っていた。ぱさぱさで痛いのかと。


 アフロはその髪も、悪魔であることのイメージも、すべてを裏切って優しかった。長い手足、滑らかな胸、たくましい肩幅。陽子はそれらが普通の男の子となんら変わりないことに驚いたし、することも普通の男の子と変わらないのにも驚いた。


 殺してよ。陽子は自分が口走った言葉を後悔しないのと同様に、アフロとの肉体の交接も後悔しないだろうと思った。


 朝、目が覚めるとアフロの姿はなく、代わりにテーブルにサンドイッチが乗っていた。


 陽子は自分が裸であることから昨夜の出来事が夢ではないことを再確認し、自分の乳房の上に残されていた赤紫の内出血が打撲ではなく、アフロのせいであるのをしみじみと眺めた。


 べッドから出てシャワーを浴び、サンドイッチを食べる。軽くトーストしたパンにレタスときゅうり、トマトと、卵。卵は厚焼き玉子になっていて、ケチャップとウスターソースとマヨネーズを混ぜたものがかかっていた。田舎っぽい味だった。


 テレビをつけ、ニュースを眺めながらもさもさとサンドイッチを食べ、コーヒーを飲む。画面の中では次から次へと陰惨な事件が繰り出されていて、いかに世界が混沌としているかを映しだしている。


 カトリック的にはこういうのは悪魔の仕業とでもいうのだろうか。陽子はふとそんなことを考えた。強盗も強姦も、轢き逃げも放火も、誘拐も虐待も悪魔の仕業。無論、殺人も。


 陽子は宗教に関心もなければ信仰も持たないので、これまでそういった事件というものは人間だけが引き起こす、人間の罪だと思っていた。


 が、今はそれだけではないのかもしれないと思った。現に自分も悪魔に願い事をした。千夏と哲司の死を。


 死をもってしか償われないとか言うつもりはない。でもこの裏切りを償うのは彼らの浅はかな慰謝料ではないとも思う。


 ではなぜ彼らの死を望んだのか。理由はひとつ。死だけがすべてを過去にしてくれるからだった。


 単純な憎悪が手伝ったのも事実だが、それよりも、三人の間に起こった事を絶対に未来永劫塗り変えることができないよう完結させてしまうには他に方法がない。生きている限り記憶は塗り変えられてしまう。ましてや、これから幸福になろうという千夏と哲司には陽子だけが邪魔で、陽子だけが過去になっていく。それが我慢ならなかった。


 陽子はテレビを消すと食べ終えた食器を片づけ、洗面所で鏡に向かった。


 うんと短く切った髪のおかげで陽子の顔は明るい印象に見えたけれど、目の奥には暗い光が宿っている。呪いの色だ。


 呆れただろうな。陽子はそう思うと一人苦笑いをした。願い事なんてないと言いながら、言ったのがこれだなんて。それについてアフロが何もコメントしなかったのが気になるけれど、陽子は着々と出勤の準備をした。


 今晩は自分がアフロに何か作ってやろう。陽子はそう思い、冷蔵庫の中身を確認してから家を出た。


 しかし、夜になり、スーパーで買い物をして戻ったにも関わらず、アフロはそれから一週間まるまる姿を見せることはなかった。

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