第12話

 翌朝の目覚めは最悪だった。


 どうやって帰ったのかは覚えている。二人ともふらふらで、タクシーを降りてからほとんど互いに支え合うようにして階段を上り、なだれこむように部屋に入ったのだ。その時、玄関先の靴箱の上にあった置きっぱなしの郵便物や広告の束を三和土いっぱいにぶちまけてしまったのも覚えている。


 そして陽子はベッドから半分落ちながら、アフロはその足元の床に転がって鼾をかいて寝ていた。


 陽子は起き上がるとアフロを踏まないように注意しながらバスルームへ行き、熱いシャワーを浴びた。頭の芯がまだ酔ったままにふらついていた。アフロも昨晩はかなりの量を速いピッチで飲んでいたから、後半は呂(ろ)律(れつ)がまわっていなかった。


 それにしても。陽子は滝行のように激しくシャワーを頭から打たせながら、思う。アフロがこんなに長く自分の前に姿を現しているのは初めてだし、ましてやいつもはどこからか見ているとは言うものの、陽子からも見えるところに転がっているのもまた新鮮だった。


 ふと陽子は、自分が若い男を部屋に連れ込んだと思い、我ながらおかしくて微笑した。床で眠りこけているアフロの寝顔は悪魔とは思えないほどに無垢だった。まさに天真爛漫。口を半開きにして、ぐうぐう寝ている姿は若さの象徴に思えた。


 シャワーを浴び終えると陽子はコーヒーを入れ、仕事に行く仕度を迷いなく始めた。その間もアフロは微動だにしないので、陽子はしまいには死んでいるのではと心配になり、そばによってそっと寝息を窺った。


 陽子は単純に外見だけでアフロを若いと決めているし、そう形容せざるを得ないとも思うが、恐らく実際には若いとか年寄りだとかいう観念も存在しない世界から来ているだろう。陽子なんかが考えもつかないような世界から。


 陽子は職業上、身嗜みを整えているが総合的に見れば年相応だ。決して若いわけではない。そしてアフロは何歳だか知らないけれど、どう見たって二十代前半ぐらいにしか見えない。でもそれがアフロにとって「どうでもいい」ことなのだろうと思うと少し羨ましくもあった。


 出かける支度をすませた陽子は、一瞬迷ったがテーブルに鍵とメモを残して家を出た。


 出勤した陽子は、メールをチェックし、スケジュールを確認した。アルコールのせいで低い声で喋る陽子を後輩たちは苦笑いしつつ「大丈夫ですか」と労(いたわ)ってくれた。


 青い顔の陽子を見る視線に、「またか」と思う。大丈夫かどうか、それは陽子が知りたいことだった。そして、なぜ大丈夫じゃなければいけないのか、心の底で疑問を感じていた。


 仕事は一日中めまぐるしいほどで、用事が次から次へと湧いてくる。陽子はそれお片づけては、また違う仕事に立ち向かい、昼食時も電話をかけたり他の部署との確認事項に奔走し、気付くと午後遅くまでお茶一杯飲むこともできずにいた。


 ようやく一段落して食事に出ようとすると、携帯電話が鳴った。


 知らない番号だった。陽子はオフィスの椅子に腰かけたまま、うんと伸びをしながら電話に出た。


「もしもし」


「もしもし? 俺やけど、今、ええかな」


「……なに、この番号……」


 電話の声はアフロだった。


 陽子は思わず携帯電話を耳から離して、まじまじとディスプレイを見つめた。


「もしもし? もしもーし」


「もしもし? 聞こえてるわよ」


「あんた、仕事行くんやったら起してくれたらよかったのに」


「だって、がーがー寝てるから」


「宅急便きたから受け取ってハンコ押しといたで」


「ハンコ、どこにあるか分かったの」


「あんた、シャチハタを玄関の小物入れに入れてあったやん」


「……」


「部屋の鍵、後で返すわ」


「うん……」


「ほな、仕事頑張ってえな」


 電話を切って、陽子はもう一度電話の履歴を見た。アフロからの電話は「携帯電話」からかけたものだった。


 最近の悪魔は携帯電話持ってるのか……。陽子は感心したように頭を振って立ち上がると鞄を、取り上げた。


「食事に行ってきます」

 陽子は上司に向かって言った。


 すると、後ろの席に座っていた後輩が陽子を振り返り、

「電話、彼氏ですか?」

「えっ」

 陽子はびっくりして、その場に固まってしまった。見ると数人の後輩たちがみんな陽子に注目している。


「岡崎さん、彼氏年下でしょ」

「そんな感じですよね」

「もしかして一緒に住んでます?」


 陽子は冷汗が出る思いだった。善良で無邪気な後輩たちは純粋な好奇心に目を輝かせ、陽子に視線を注いでいる。この子たちが本当のことを知ったらなんと思うだろう。


 ……本当のこと? それは陽子が彼氏と結婚寸前までいって別れたことか、それとも乾燥機から出てきたアフロの悪魔がいつも自分を見ているということか、そのどちらが彼らに答えるべき「本当」だろう。


「彼氏じゃないよ」

 陽子は答えて言った。それも「本当」のことだった。陽子は急にそう言いたくなって、言葉を続けた。


「彼氏、別れたのよね」

「えっ」


 部下の会話を聞きながら書類に目を通していた上司がはっとしてデスクから顔をあげた。


 そんな事、言う予定はなかった。これから先もこれ以上他の誰かに知らしめることはないし、必要性もないのだから。けれど、今、どういうわけか言いたくなったのだ。それもすんなりと。


 お昼ごはんに何を食べるかを話すようにあっさりとした告白だった。陽子は一同に向かってことさらに微笑んでみせた。


「だから、今は仕事一筋よ。私のことは仕事の鬼とでも思ってちょーだい」


 はははははは。陽子の呵呵(かか)とした笑い声がオフィスの困惑まじりの静けさを突き抜けて行く。固く引きつめられていた秘密のタガが一つぱちんと外れた。陽子は笑いながら軽い足取りでオフィスを出て行った。


 彼氏と別れた重い事実も、こうして口にするとただそれだけのことと思えば、思える。そりゃあ、婚約破談のことまで自ら吹聴するつもりはないけれど、言えばその分だけこんなに身軽になるのだと陽子は驚きと安堵のあわさった気持ちになった。


 ホテルを出ると陽子はファストフードの店に入り、カウンターで一人ハンバーガーに齧りついた。


 不健康でカロリーたっぷりな味が口中に広がる。紙コップのコーラをストローで啜る。世界はこんなにもぞんざいで、こんなにも平和だ。陽子はハンバーガーを咀嚼しながら思った。


 あの時、自分は世界の果てへ来てしまったような気がしていたけれど、なんのことはない。どんなに苦しく、涙と鼻水にまみれて悶えようとも、地球は丸く、世界の果てなどあろうはずもなければ、この世の終わりでもなかったのだ。そして、仮にそうだったとしてもちっとも孤独なことではないのだ。その証拠に陽子の髪はいつの間にか伸びているし、ハンバーガーは確実に陽子を太らせる。生きているから。


 ピークをとっくに過ぎているせいだろう。店内は空いていて、陽子は眼の端で思わずアフロの姿を探している自分に気がついた。


 ブライダルフェア本番まであとわずか。それがすんだら陽子はちょっと本気で願い事を考えてみようと思った。

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