第8話

「あんたが本物なことは分かった」


「そうか、よかった」


「でも、私について来る以上こっちにも守って貰わないといけないルールがある」


「……ふん」


 なんだってこんなに強い物言いができるのか、我ながら不思議だった。悪魔相手になんの引け目も怯えもなく、挑むように、ほとんど仁王立ちで向かい合う。アフロの背丈が哲司より高いことにふと気がつく。見上げる角度が懐かしい。


 通りを行く人々は忙しげに二人の脇をすり抜けて行く。注意を払う者はいない。


「まず、あんたの姿は絶対に見られてはいけない」


「分かった」


「それから、私の尊厳は守ること」


「というと?」


「どこでもぴったりくっついて来て貰ったら困る。私にもプライバシーはある。トイレやお風呂は絶対禁止。もちろん、会社のロッカーも駄目」


「……分かった」


「姿を消して……なんていうのは言語道断だからね」


「それは心配ないで。俺は他の人から姿を隠すことできるけど、召喚者であるあんたから隠れることはできへんねん。まあ、言うなればお客さんとの間の信頼の為やな。俺が姿消せたら、あんた、俺を信用せんやろ」


「それなら大丈夫ね。おっと……もう行かなくちゃ」


 陽子は腕時計を見た。釣られてアフロも陽子の時計を覗き込む。


「ほな、行きますか」


 さっきまで午後の光が煌めいていたのが、今はすでに西日が濃い。世界がオレンジ色に染まりつつある。陽子はきっぱりと背筋を伸ばし歩き出した。


 いつもの癖で大股で歩いて行く。靴の踵が高らかに鳴る。そのリズムに合わせるように、陽子は心の中で呟いた。「がんばれ、がんばれ」と自分自身に向けて。そうでもしなければ、今の自分ではとても悪魔に対抗できない気がしていた。



 実際のところ、それまでは多少の不安もあったが、職場に戻ってみたらさらにアフロが「本物」であることが証明され、ますます陽子を驚かせた。


 というのは、本人が言ったように本当に陽子以外の人間にアフロの姿は見えないらしく、ホテルに入ったところからもうこんなにでかいアフロがロビーを横切っても誰も見向きもせず、また、それを証明づけるかのようにアフロはわざとフロントのカウンターに腰かけてみせたり、廊下を走ってみたり、ペストリーブティックのショーケースに顔を貼り付けてみせたりした。


 陽子はオフィスへ戻ると、早速各部署へ回送する文書を作り始めた。打ち合わせでも話していた、ブライダルフェアのモデル探しの文書を。


 その間、アフロは物珍しげにオフィスの中を歩き回り、他のスタッフのデスクを覗いてみたり、空いた椅子に座ったりとまるで子供のように自由にしていた。


 フェアには模擬挙式とドレスのランウェイ・ショー、ヘアメイクのデモンストレーションがある。ドレスは5点だから、モデルは5人としても、ヘアモデルには7~8人は欲しい。サロンでも探してくれるにしても、念のため待機させる要員もいるだろう。陽子は若くて可愛らしい感じの子と、できれば美人タイプの子と、大人の雰囲気の子とバラエティを揃えたかった。その方が色々なバリエーションを出せるし、より実際的だと思うから。


 キーボードをかしゃかしゃと叩いていると、背後にアフロがやってきた。どうやら陽子の作成する文書を読んでいるらしく、しばらくすると不意に言った。


「あんたは駄目なん?」

「……」


 突差に陽子は返事をしそうになり、かろうじて口元でこらえた。うっかり返事なんかしたら乱心かと思われてしまう。


「モデル、あんたはせえへんのん?」

 アフロはもう一度尋ねた。


 陽子は答えられなくて、代わりに「あー、うん、うん。ごほん」と妙な咳払いをした。


「そういうのん、女の人みんなしてみたいんちゃうん」

「……」

「しかし、まあ、色んな仕事があるねんなあ。忙しいねんな、あんた。そら、願い事考える間ないかもなあ」

「……」

「けど、だからもうええわっていうわけにもいかんねん。なんか考えて貰わんと」

「……」

「俺、なんか手伝おか?」


 オフィスには陽子以外に上司と、後輩二人がデスクで書き物をしている。彼らにとっては今この室内は静寂に満たされているだろう。が、陽子だけはアフロの声に取り巻かれ、翻弄されてとても頭がまとまらなかった。


 誰にも聞こえない声。陽子はその声が自分だけに聞こえていることが、まるで自分の心の中を表しているようだと思った。


 陽子の嘆きものたうちまわりたくなるような苦しみも、陽子以外の誰にも分からない。泣き言は陽子の中でだけ幾度もこだまのように響く。それは陽子の声の、陽子への反射だ。

 どうにか回送する文書が出来上がると各部署にメール送信し、陽子は後輩に声をかけた。


「斎藤さん、今度のフェアで配るデザートサービスのチケット手配はもう済んでるのかな」

「あ、今、原稿を……」

「今?」


 陽子は後輩の答えにぴくっとして、椅子ごとぐるんと回転しそちらを振り向いた。


 後輩は明らかにびくついている様子だった。当然である。フェアの当日に見学者に配るホテルのデザートサービスチケットはもうずいぶん前に、それこそ企画が通った時から頼んでいた仕事だったのだ。


 後輩は叱られると思い、ほとんどデスクのパソコン画面に隠れるように身を縮めていた。陽子はそれを見てため息をついた。


 怒られるの分かってるのに、どうしてそんなことするんだろう。なのに怒ると後で陰口きくんだから、陽子にしてみれば本当に割に合わない。


「もう時間ないから、急ぎ原稿仕上げてこっちに回してね」

「はい……すみません」

「池田くん、当日の見学申し込み、もう集計できてるんでしょ? 多少の上下は予測のうちだから、人数を厨房に申し送りしてくれる」

「あ、はい」

「……集計、できてるの?」

「えーと、だいたいは」

「だいたい? 確認はできてるんだよね?」

「……」

「それ、数が出ないと厨房が困るの分かるよね?」

「すみません……」

「今、分かる数字だけでも教えて。私から大島料理長に現状連絡申し送りするから」

「はい……」


 陽子はきびきびとした言い回しの後、つきたくなくても出てしまうため息をつき、なにか途方もなく虚しい気持ちにさせられた。


 仕事は好きだ。楽しいし、充実している。後輩が少々うっかりしていても、それだって仕方ないと思っている。自分だって最初はそうだったのだから。でも、今の自分は本当にかつて自分が成りたかった自分だろうか? 


 陽子が入社した当初も仕事に厳しい先輩はいた。泣くほど叱られたこともあるし、失敗も多かった。辞めようと思ったこともある。けれど乗り越えてここまで来た。来れたのは、厳しかった人たちのおかげだと、一山越えてみて分かった。そして思ったのだ。いつか自分もこれを誰かに返さなくてはいけないと。


 今となってはただ尊敬できる先輩たちに教わったことを次の人に引き継いでいくことが自分の役割だと思うし、それこそが自分が成すべきことだと思う。……それは決して口うるさいだけの「お局」とは違うはずだった。


 後輩たちが慌てて働き出すのを横目に陽子は引き出しからファイルを取り出し、捲り始めた。


 すると背後のアフロがなにげに言い放った。


「こわー」


 陽子はそれを聞いた途端、椅子を吹っ飛ばす勢いで立ちあがった。


 びっくりしたのは周囲の後輩達で、陽子が怒りだすのかと身構えた。しかし陽子は誰に怒るでもなく、むしろ全員に向かってにっこり微笑みかけ、

「ちょっとチャペルに行ってきます」

 と宣言した。


 全員がびくびくしながら頷き、返事をし、陽子が出て行くのを待って……それからどっと緊張を解き放って一斉に大きく息を吐きだした。


 陽子はそんなことは知らずオフィスを出ると、絨毯敷きのフロアを大股に突き進み、中庭に出て、これも一気に通り抜け、開け放されたチャペルの扉をくぐって誰もいない中へと入った。


 そして背後をついて来ていたアフロをやおら振りかえると、

「あんた、うるさい!!」

 と怒鳴りつけた。


 びっくりしたのはアフロで、「おおぅ」とのけぞった。陽子は目を吊り上げてアフロに詰め寄った。


「あんたはヒマでも私は忙しいのよ。見てれば分かるでしょ? 後ろでごちゃごちゃ言わないでよ! つーか、空気読みなさいよ!」


 静かなチャペルの吹き抜けに陽子の怒り声がきんきんと響いた。


 祭壇の後ろにはシンプルなステンドグラスが嵌まっていて、虹のような色彩の光を透かしている。白色大理石の床は冷え冷えとしていたが硬質で無垢で、こんな陽子の怒りなどおよそ似つかわしくなかった。


 アフロは黙ってベンチに腰掛けた。


「邪魔するんなら帰ってよ」


 自分の怒りが理不尽で、単なるヒステリーみたいだというのは分かっていた。でも止まらなかった。


 精神の荒廃を忙しさのせいにするのはいやだったし、この程度な忙しさで根をあげたりする自分ではないと思っている。後輩たちの仕事ぶりもいつもの事だし、そんなことで怒ったりはしない。けれど、どうしてだろう、このイラだちは。腹立たしくて奥歯をきつく噛みしめ、拳を握り、肩を怒らせずには立っていられない。


 陽子はスムーズにいかないことが嫌いだ。だから段取りをきちんとして事にあたりたい性格なのだが、このところ哲司との破局も含めて何もかもがスムーズではなくなっている。そのストレスが陽子を蝕んでいるのかもしれない。が、陽子自身がそれを認めたくはなかった。


 陽子の怒りを浴びせかけられていたアフロはしばし思案するように黙っていたかと思うと、ようやく口を開いた。


「なんでそんな怒るん?」

「……」


「そんな怒るようなことやったか? あんたが仕事できるんは見てれば分かることやけど、あんまりてきぱきしすぎて情味ないから怖いと思っただけやん。だいたい、あんたの同僚ら、あんたに怯えてるやん。今頃あんたの悪口言うてるわ。なんぼ仕事できても、他人のストレスの原因になるっていうのは、どうなん」


「……」


 陽子は突差に言葉が出なかった。


「あんた、自分の正しさを証明しようとして必死やな。けど、正しいなんてことほんまにあるんかいな」


「……なんであんたにそんなことが分かるのよ」


「分かるなんて言うてへん。思たこと言うてるだけや。とにかく、まあ、ちょっと落ち着きいな。神さんとやらにでも告白したらええんちゃう? ここ、教会みたいやし」


 そう言われて陽子ははっとした。悪魔がチャペルに入っているなんて前代未聞だろう。陽子は急に自分が大変な失策を犯したような気がして、慌てて、

「出ましょう」

 と、急いで出入り口へ小走りに寄った。


 十字架を怖がるのは吸血鬼だったが、悪魔は平気なのだろうか。アフロは出て行こうとする陽子を尻目に、座ったまま祭壇の後ろにある小さく控えめな十字架を見ている。


 出入り口から見るアフロは長い手足を持て余すようにベンチから投げ出し、柔らかな光のチャペルの中で奇妙にその姿が溶け込んで一枚の絵のようだった。


 そこにある種の神々しさを感じた陽子はアフロに向かって言った。


「私、行くから」


 不意に泣きたくなるほどの胸苦しさが咽喉を塞いで、陽子の声はか細かった。


 アフロの言ったことは本当だった。時々、やればやるほど空回りするのを陽子自身が手応えとして知っていた。無論、仕事はきちんとぬかりなくこなしているつもりだ。が、その度に周囲に微妙な溝ができていくようだった。憎まれるほどではないにしても、煙たがられるような感じ。悪気はないのだが、言葉尻に情がないと言われるならそれだって本当のことだろう。アフロに言われなくても陽子自身が後輩から怖い先輩だと思われているのを自覚していた。


「あんたと喧嘩してもしゃあない。また後で落ち着いて話そうやないか」

「……」

「ほな、仕事頑張って」


 アフロはそう言うと立ち上がり陽子の脇をすり抜けて、来た時同様に中庭を通ってどこかへ行ってしまった。


 また後でと言われてもこんな時どうすればいいのか陽子はまるで分からなかった。そもそもアフロが日頃どこで何をしているのか、想像もつかない。陽子を待っている間だって何をするつもりなのだろう。いや、それ以前に何を話し合えばいいのか。少なくとも陽子は自分のことをアフロに話す気にはなれなかった。


 それにしても「今頃悪口を言っている」にはこたえた。自分でもそう思えるだけに言われるとこたえるのだ。陽子はオフィスに戻る気力が萎えて、アフロの去った後の中庭に立ち尽くしていた。

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