第4話

 翌日、陽子は昨夜の出来事……というか、一夜明けてみると昨夜の自分自身が怖くて、出勤するとすぐに千夏のいるブライダルデスクまで出向いて行った。


 ブライダルデスクはもちろんこれから結婚しようというカップルが見学だの相談だのにやってくる場所で、いつもそこはかとなく甘酸っぱいような幸福な気配に満ちている。


 当初、陽子はその空気が気恥ずかしかったが、だんだん仕事に慣れていくうちに今度は微笑ましく感じるようになり、自身の婚約が決まってからは同胞のような親しみを感じ、そして破談になった今では近づきたくない場所になっていた。


 仕事の用事なら内線電話ですむし、いや、もちろんどんな用件であれ内線電話や携帯電話を鳴らしてもかまわないわけだが、陽子はどうしても千夏の顔を見て話したかった。


 同期入社だが千夏の方が陽子より二歳ほど若い。陽子は大卒だが千夏は短大卒だ。社内での評価は陽子の方がしっかり者で通っているが、プライベートとなると千夏の方が物慣れていて、こと恋愛については経験豊富で、だから陽子はこれまでにも哲司との交際について相談をかけたこともあった。


 それに、なにより千夏とは元々ウマが合うとでもいうのか、てきぱきした仕事ぶりもあっさりとした気性もどこか似たところがあり、他の同期の中でもとりわけ仲がよいから、恋愛でなくとも仕事の相談や愚痴だって互いに言い合う仲だった。


 陽子はふかふかした絨毯のフロアをまっすぐに歩いてブライダルデスクのあるサロンに入って行った。


 大きなガラスの扉には繊細な模様が描かれ、中はアイボリーを基調とした静かで清潔な空間になっており、どっしりと重厚なデスクにお客様用のソファ、中央のコーヒーテーブルにはカサブランカが活けられていていかにも「ブライダル」を意識した飾り付けになっていた。


 陽子は微笑みながら受付に座っていた後輩に、

「宮本さんは?」

 と尋ねた。


「宮本さんは今お客様をチャペルにご案内中で……」

「ああ、そう。それじゃ出直すわ」

「ご伝言なら聞いておきますけど」

「それじゃあ、来週のバンケット、午前中の装花の手配は変更なしってことで伝えておいて貰える?」

「はい」


 陽子はさっとサロンの中に視線を走らせた。お客様は二組。それぞれデスクでプランナーと話しをしている。どれも幸せそうな顔ばかり。陽子はため息が出そうになるのをこらえてサロンを後にした。そしてその足でまっすぐにチャペルへ向かった。


 ホテルのチャペルは中庭に面した小さなもので、つるバラを這わせたアーチが可愛らしく人気がある。陽子は千夏がオンシーズンは特にチャペル内での挙式よりも中庭に椅子と祭壇を持ち出して行う屋外での挙式をお勧めする傾向にあるのを知っていた。


 而して、中庭に千夏はいた。若いカップルを案内して、身ぶり手ぶりで屋外挙式の様子を説明しているのが分かる。動くたびに制服のジャケットの金ボタンが太陽に反射してきらりきらりと光っていた。


 千夏は陽子の姿を認めると、一瞬驚いたような顔をしたが、陽子が目配せすると小さく頷き、お客様をチャペルの方へ向かわせてから小走りに駆けてきた。


「ごめん、接客中に」

「どうしたの」

「あの、ちょっと、今日いいかな」

「今日?」

「うん。今日、定時でしょ」

「そうだけど……」

「……都合悪かったらいいんだけど……」


 陽子が言い淀むと千夏は「あ」という顔になり、すぐに察して、

「いいよ。大丈夫」

 と頷いた。

「じゃあ、また後で」


 陽子はまた急いでチャペルへ走って行く千夏を見送ってから、ゆっくりと中庭の中央まで足を進めた。


 一度空を見上げ、それから、あたりを見渡す。テラコッタのタイルを埋めこんだプロムナード。芝生の緑が濃い。つるバラはまだ咲いていないが、膨らんだ蕾の淡いピンクが可憐だった。


 植え込みのマーガレットや桜草がホテルの中庭という場所の豪華さを優しい雰囲気に変えている。陽子はそれらを順に見てまわり、虫がついていないかどうかや、植物の育ち具合などを確認した。


 桜草のシーズンが終わったらここにはゼラニウムを植えよう。赤いゼラニウム。夏に映える美しい赤。あの花には除虫の効果があると教えてくれたのは、哲司だった。陽子はポケットから手帳を取り出し、土の消毒と植え替え時期についてメモした。


 夕方、退社時刻になると陽子はロッカーで着換えて千夏と晩ごはんを食べに出かけた。


 千夏は制服のかっちりしたスーツから柔らかなシフォンのチュニックに着替え、軽快で明るかった。


 二人はかつて哲司も含めた三人でよく出かけたイタリア料理屋へ行き、ブルスケッタや生ハムを食べながらワインを飲んだ。


「それで、どうしたって?」


 千夏はフォークの先でアンチョビ詰めのオリーブを突き刺しながら尋ねた。


 陽子はいざ自分が誘っておきながら、一体なにをどこから話していいか分からず「うん……」とか「いや、ちょっと……」とか切れ切れに言葉を継ぐことしかできなかった。


 実際、なにから話すべきなのか見当もつかないほど事態は複雑な気がした。


 言葉にすれば単純なことだったかもしれない。自分は哲司と婚約したがそれが破棄になり、だいぶん落ち込んで、昨夜は乾燥機からアフロの男が出てくる幻覚を見た。それが今日までの経過。しかし、それを説明するにはどんな言葉を尽くせばいいのかがまるで分からなかった。


「……なんか色々ありすぎて……」


 陽子はやむをえず、力なくそう呟いた。


「……うん」

 千夏が頷いた。

「まさかこんなことになるなんてね……」

 とも。


「哲司くんはなんて……?」

「なんだろう……。ほんと、急だったから。まだ結婚する自信ないとか、もうちょっと時間欲しいとか言ってたけど……。自信ないって言ってもプロポーズしてきたのは向こうだし……」


 陽子は白ワインを啜った。


 この店は裏通りに面しているが、オープンカフェの様相を呈していて、中折れ式の扉が今は半分ほど開けてあり爽やかな風と夕方特有のくたびれてどこか埃っぽい空気が流れこんでいた。


 店内は適度に混み合って賑やかで、陽子はこの気の置けないカジュアルな乱雑さに少しほっとしていた。どうしたってシリアスな話ししかできないのだ。せめて周囲は明るい方がいい。


「話し、進んでたんでしょ。揉めたんじゃないの?」


「揉めたよ。うちでもあるじゃない? キャンセル。それに、見学に来て意見が合わなくてその場で大喧嘩になって、ほんとに別れちゃうとか……。あれ見ていつも大変だなって思ってたけど、実際は私らが見てる百倍ぐらい大変」


「親はどうしたの?」


「それも大変。泣くし、怒るし。哲司の親も来て、そりゃもう大騒ぎ。哲司はなに聞かれても、ごめんなさいの一点張りでろくに理由も説明しないし……。まあ、時間が欲しいとか自信がないっていうのが理由じゃあ誰も納得しないしね。マリッジブルーって男もなるんだっけ?」


「……どうだろう……」


「ようするに、結局、私を好きじゃなくなったってことなんだけどさ……」


「そう言われたの?」


「ううん。そうは言わなかった。でも、そういうことでしょ」


 千夏もワインを啜って、せつなそうに眉根を寄せた。


「だからってわけじゃないんだけど……。なんか、私、ちょっとおかしいっていうかさ……」


「なによ、おかしいって」


「あの、これ言ったらどん引きかもしれないんだけど……」


「なに? なんかあったの?」


 陽子はためらいつつ、尚も続けようとした。


 が、続けようとしてふと視線を開け放された扉の外へ向けて、ぎょっとして言葉を失ってしまった。


「どうしたの?」


 愕然として硬直している陽子に、千夏が焦れたように先を促した。しかし陽子は通りの一点を見つめるだけで声も出なかった。


 信じられないことに陽子の視線の先には昨夜のアフロが映っていた。

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