第9話 白いお面

 目を覚ますと、どういうわけか天井につららがぶらさがっていました。それも、数えきれないほど。イザナは直前の記憶を必死に思い出そうと頭をフル回転させました。確か昨日はいつも通り稽古があって、みんなでご飯を食べて、レキたちとくだらない話をして……レキ!

 イザナは飛び起きてベッドの上を確認しました。彼はいつも通りベッドの上で眠っていました。こんな寒いのによく起きないな、と思っていると、自分たちの回りだけ凍り付いていないことに気付きました。どうやら、無意識に凍らないよう自分たちの回りだけ暖めていたようです。イザナはレキの頰をパシパシたたいて起こしました。

「なんだ! 地震か?」

 レキは枕を抱き締めたままキョロキョロしました。

(様子が変なんだ)

 初めて部屋のつららをみたレキはクスリと笑いました。

「なんだ……夢か」

 イザナはノートでぶったたきました。

「夢じゃない? うそだろ?」

 レキは外に出ようとしてドアノブをガチャガチャ回しました。

「開かない! どうなってんだ?」

 ドアが凍り付いていました。

「おーい! 誰かぁ!」

 部屋がこんな状況だというのに、今頃トウヤンたちはどうなっているのでしょうか。イザナは不安に駆られました。

「そうだ、隣の部屋はスエン。壁をたたいてみよう!」

 レキはけたたましい声を上げながら隣の壁をドンドンたたきました。

「返事がない。いったいなにが起こってる? 誰も様子を見に来ないなんておかしい。ここだけじゃないってことか」

 壁の向こうから物が当たる音がしました。さらに耳を澄ますと、かすかにですが声が聞こえました。

「……て……」

「スエンだ! きっと無事だ」

 イザナは刀を抜いてドアに突き立てました。地下で氷塊を解かした時と同じようにすればいいと分かったのです。すぐにドアが開き、2人は同時に廊下へ飛び出しました。

「なんだこれ――」

 全てが凍り付いていました。床も天井も、階段や手すりも。

「早くみんなを助けに行くぞ!」レキは真剣にイザナの肩をつかみました。「これは君にしかできないことだ。俺もなんとかしてみるけど、氷を解かすことまではできない。頼む、お願いだ」

 スエンの部屋のドアも同じようにひどい氷に覆われていました。イザナはすぐに解かしましたが、どうやら内側から鍵がかかっているようです。

「こうなったら力技だ」

 レキはノブの部分を刀で壊し始めました。2人がかりで取り掛かっていると、ある恐ろしいことに気が付きました。さっき解かしたはずの氷が、ゆっくりとまた元に戻りつつあったのです。まるで塩で解かしたナメクジを逆再生しているかのようでした。

「いち、にー、さん!」

 レキの掛け声と同時にノブは破壊され、ドアが開きました。中には、ベッドの上で身動きがとれなくなっているスエンがいました。足や腕にまで氷がまとわりつき、すっかり顔色も悪そうです。見れば暖炉の火も消えていました。

「助けて!」

 スエンはブルブル震えながら叫びました。

「待ってろ! あぁ、くそ! なんなんだこの氷は。スエンをベッドごと凍らせようとしてるみたいだ!」

 イザナは氷にのまれた彼女の手に触れました。やけどをさせない程度に加減して温め、なおかつ早く氷を解かすことが求められました。氷は白い煙をたてて解け、スエンは無事に解放されました。彼女の胸からユリオスが顔をのぞかせました。

「この子が異変を知らせてくれたの。でも、そのころにはもう足が固まって動かせなかった。あぁ、助けにきてくれてありがとう!」

「なにがなんだか俺たちにもさっぱりだ」

(外)

 イザナは殴り書きして、凍り付いた窓に張り付きました。刀を使うこともできますが、手で解かせることにも気付いたのです。窓を開けると、真っ青に凍り付いた町が飛び込んできました。力が抜ける思いでした。たった1人を助けるだけでもこれだけの時間がかかったというのに……

「みんなを助けに行こう」

 レキの言葉でわれに返りました。

 氷漬けの協会内を走りながら、3人はサンとサメヤラニの部屋に向かいました。

「そこに誰かいるのか!」

 部屋の中からもがくようなサメヤラニの声が聞こえました。

「俺たちだよ! イザナとスエンもいる」

「今ドアをこじあける! そこをどいてろ」

「イザナに――」

 レキは身の危険を感じてイザナとスエンを引っ張りました。同時にドアが砕けて大きな穴が開きました。サメヤラニとサンの顔が見えました。

「みんなは無事か?」

「分からない。でも町中凍り付いてる」

 レキは早口で説明しました。

 サメヤラニは驚くほどの怪力で木製のドアを破壊しました。どうやらハンマーで打ち付けたようです。

「この氷ってまさか……」

 サンはかじかむ手をさすりながら言いました。

「普通の氷じゃない」レキは言いました。「再生してる」

「みんな、おのおのたいまつを持て」

 サメヤラニは用具室にある使えそうなたいまつを取り出し、イザナはその先端に火を付けました。

「まいったな。普通の火では解けない」サメヤラニは試しに火を当てながら焦りを隠しませんでした。「イザナの火と物理的な攻撃が頼りだ。トウヤンとルットを――」

 急に地響きが襲いました。

「また地震?」

 レキは一目散に窓へ駆け寄り、刀のさやで殴りつけ窓ガラスを割りました。橋建設のために建てられた足場の隙間から、氷の壁へ続く谷間の様子が見えました。

「橋がある」

 かすれるレキの声が耳に触れました。橋がある? だって、橋ならあの時崩れ落ちたじゃないか。建設には半年もかかるって……イザナはその考えを停止しました。彼の言う通り、谷に橋がかかっていたのです。木製でも、金属製でもなく、真っ白な氷でできた立派な1本の橋が。

「ありえない」

 サメヤラニはポツリと言いました。

「少しでも多くの剣士を氷から解放するんだ。でなければこの町は……陥落する」

 恐ろしい響きでした。サメヤラニは窓から離れると大急ぎで歩き始めました。トウヤンの部屋は静かで、人がいないようでした。

「トウヤン! 返事をしろ」

 サメヤラニは手段を選ばず持ってきたハンマーでドアを打ち付けました。でも、さすがにこれでは体力も時間もかかります。イザナがほんの少しドアに触れると、すぐに氷は解けました。ドアノブを壊して中に入ると、信じられないものが目に入りました。トウヤンは椅子に座ったまま氷に埋もれていたのです。普通なら、これで生きていると考える方が難しいほど、彼は標本のようにピクリとも動かなかったのです。

「トウヤン!」

 みんなで叫びました。イザナは震える手で氷に触れ涙をこらえました。こんなところで彼を失うなんて、死んでも嫌でした。分厚い氷でしたが、今のイザナには絶対に解かしきるという強い意思がメラメラ燃えていました。氷は徐々に小さくなり、やがてトウヤンは完全に解放されました。サメヤラニは彼を抱き寄せて叫びます。

「トウヤン!」

 けれど、トウヤンの目は人形のようにまったく動きませんでした。氷を解かしたのに、どうして? イザナはピクリとも動かないトウヤンを前に立ち尽くしていました。まだ助けなければならない人は大勢いるのに、体が動こうとしませんでした。

「そんな……息をしていない!」

 サンは泣きそうな声でトウヤンの胸から頭を離しました。イザナはがくりと床に膝をついて、サメヤラニはハンマーで床を思いきりたたきつけました。

「原因はなんだ。考えろ、考えるんだ! やみくもに行動しても駄目だ」

 イザナはわらにもすがる思いでトウヤンの体を温め続けました。あの時みたいに。あの時みたいに――

「行こう」

「待ってください……まだトウヤンが」

 サンは涙をのんでサメヤラニに言いました。

「助かる命を優先しろ」

 なんてひどい言葉なのだろうと思いました。けれど、同時にそうせざるを得ない状況なのだとイザナは分かっていました。こうしている間にも、氷の浸食はどんどん進んでいるのです。

「行こう」

 サメヤラニの目は赤く腫れていました。イザナたちはトウヤンを部屋に残して進むしかありませんでした。ルットの部屋に行く途中、氷漬けになった剣士たちが何人もいました。しかし、彼らを解かしても結果は同じでした。みんな生気をなくし、人形のように動かないのです。救っても救っても、先が見えない絶望を味わされました。

「ルット!」

 レキは金切声を上げました。彼女は部屋のドアを開けて手を伸ばしたまま凍っていました。ついさっきまで誰かに助けを求めていたかのような、悲痛な表情をしていました。

「ルットもなのか?」

 レキは解けてもなお身動き一つしない彼女を見てうなだれました。

「どうしてっ」サメヤラニはついに我慢できなくなったのか、一筋の涙を流しました。

(器のそばにいた人だけが助かっている)

 イザナはなんとか正気に保ちながら言いました。

「そうだわ」スエンは言いました。「私はイザナたちのすぐ近くにいたから完全には凍らなかった。きっとそうよ」

「イザナの火でしか解けない氷に、器には力が弱くなる氷……やつだ」レキは言いました。「やつが来たんだ」

 スエンは信じたくないのか首を横に振りました。

「あの氷の橋を見ただろ? あんなものを作れるのは、この世でただ1人だけ――センドウキョウ。もはやここは完全にやつの布陣、氷の国だ」

(僕を殺しに来た)

 逆に言えば、自分がここへ来たから。こうなったのは、自分の責任。イザナは冷たくなったトウヤンたちの顔を思い出しながら深く絶望しました。助けたいけど、どうしたらいいのか分からないのです。

「できることをするんだ、イザナ。お前にできることを。私もする」

 サメヤラニはそれでも前を向きました。この言葉がどれだけイザナたちを勇気づけたことでしょう。逃げ出してしまいたいほどの苦痛が、そのおかげで少し和らいだ気がしました。

 イザナがふと窓の外を見た時です。

 白いお面を着けた男が立っていました。サメヤラニは刀を抜いて構えました。今度は自分以外の目にも見えていました。これほど夢であってほしいと願ったことはありません。

 背はサメヤラニより高く、お面は夢に見た通りで、古びた着物を身にまとい、腰には1本の刀を携えていました。

「何者だ」

 サメヤラニは構えながら尋ねました。男の足はしっかり地面に着いていますし、亡霊のような気配はありません。顔は見えないはずなのに、その視線はサメヤラニを通り過ぎ、イザナに真っすぐ注がれているようでした。

「答えろ。さもないと切るぞ」

 男は手を宙にかざしました。イザナたちは周囲を警戒しましたが、なにも起こらずホッとしました。しかし、ピキッとひび割れる音がして、緊迫した空気をサメヤラニの声が切り裂きました。「上だ!」

 ガッシャーン! 巨大なつららが天井から落ちてきました。あと一歩反応が遅れていたら、5人とも頭がかち割れていたでしょう。とっさに4人を突き飛ばしたサメヤラニの行動に救われました。気が付いたら、男が協会の中に入ってきていました。

「よく聞け。ここから逃げるんだ」

 サメヤラニは低い声で言いました。

「そんなことできない」

 レキは拒否しました。

「命令だ! なんとしてでもイザナを守れ。シバで生存者がいなければ、隣町まで馬で30分。援軍を呼んでこい。その間、私が持ちつなぐ」

「分かりました」

 サンは落ち着いて言いました。

「サメヤラニを置いて行けって言うのか!」

 カッとなってレキが怒鳴った時、男は腰にある刀に手をかけました。ゆっくりと鞘から抜き取られたのは濃い青色に染まった刃。イザナたちの刀身とは異なり、邪悪に濃く深く輝いていました。

「やつがセンドウキョウだとしたら……器なんだぞ! 普通の人間が戦えば……」

 サンはレキの頰をたたきました。

「なにする!」

「私たちがここにいても邪魔になるだけです!」

 刃と刃が激しくぶつかり合う音がしました。死をも覚悟した一切隙のない動きで、サメヤラニは4人の前に立ちました。

「ここから先へは行かせない」

 イザナはレキの手を引いて階段を目指しました。必死に戦うサメヤラニの後ろ姿がぐんぐん遠ざかっていきます。レキだけじゃありません。サン、スエン、サメヤラニだって、どんなに怖いことか。今起こっていることは、稽古ではなく本気の殺し合い。負けたら死を意味するのです。

 4人は上の方でまだ戦う2人の音を聞き、凍り付いたらせん階段を下りていきました。

「きゃあっ!」

 氷に足を取られたスエンが、頭から階段を滑り落ちて行きました。

「頭を打った! 意識はあるか? しっかりしろ」

 スエンにレキは必死で呼び掛けました。

「……ごめんなさい。大丈夫よ」

 吹き抜けになった1階部分の床は、天井に向かってのびるつららのむしろでした。高い所から落ちれば串刺しになること間違いなしです。

「これからどうする?」

 レキは息を切らしながら言いました。

「助けを呼びましょう」

 サンは動揺を隠しきれない声で言いました。しかし、外に出てみると、それがどれだけ絶望的なのかを思い知らされました。町の人々は1人残らず氷にのみこまれ、馬も、家畜も、なにもかも、動いていませんでした。極めつけは町全体を囲うように成長を続ける氷の壁でした。

「閉じこめられた! これじゃあ隣町にも出られない!」

 レキの言葉にイザナは歯がみしました。成長を続ける氷の壁は、いずれシバの町全てを包み込むでしょう。既にその高さは大人でも越えられないほどの大きさになっています。

 サンは近くにあった鉄の棒で氷の壁をたたきました。

「びくともしません!」

「俺たちを1人残らず殺すつもりなんだ」

「イザナ、あなたの火で解かせない? 穴が開いて1人でも向こう側に抜けられれば助けを呼んでこられる」スエンは痛む頭を押さえて言いました。

 やるしかありません。壁の厚さはざっと見たところで50センチ。イザナは刀を取り夢中で押し付けました。すさまじい強度の氷です。それでもイザナの赤い光は氷へ染み込み、やがて煙を立ててぽっかりと大きな穴が開きました。

「開いたわ!」スエンは叫びました。

 ところが――

「そんな……」

 サンは穴の向こうを見てぼう然としました。

「層になってる」レキは顔を真っ青にしました。「今穴を開けたのは1枚目の層だ」

 氷の壁は1枚だけではなかったのです。これは憶測にすぎませんが、まだ2枚はありそうでした。こうしている間にも穴は再生を始めています。イザナは時間をかせいでくれているサメヤラニのことを思い、立ち止まりました。

「イザナ! 手を止めたら駄目です! 壁を解かして!」

 サンは懇願しました。

 確実な方法はないのだろうか? イザナはふと冷静になって考えました。センドウキョウを倒すための、なにか確実な力となるものは? そこで、あることを思い出しました。やつが一番恐れているものは? イザナは地べたにしゃがみこんでひたすらペンを走らせました。

(大博物館へ行こう)

「今?」

 イライラしながらレキが尋ねました。

(センドウキョウが恐れているものは二つある。僕の力と自分の顔だ)

「待って。確かに彼は自分の顔を嫌っていたって書かれていたけど、そんなもので勝てると思う?」

 スエンは言いました。

(やつは死んでいる。倒すべき方法は他にある。心だよ。器には光と影の部分があると言っていたろ? 心の光と影の部分。センドウキョウはかつて英雄とまで言われ慕われていた。だけど、自分の顔が嫌いだという異様なコンプレックスを持っていた。死んでもお面を着け続けるだけの理由が、重要でないと思う? 嫌いなものを見せるんだよ。嫌とは言わせない)

 4人は氷に足を取られながら大博物館まで走り抜けました。館内は静まり返っていて、職員が何人か氷の像になったままでした。研究所へ入ると、リオ教授が虫眼鏡を持ったまま固まっていました。

「あの人は夜通しこんなことやってたのか!」

「レキ! 鍵を探してください。センドウキョウの死面は地下の研究所にある」

 サンは命令口調で叫びました。この部屋にはなさそうです。隣の部屋に移るとマッケンロウが椅子に座ったまま固まっていました。イザナたちは時間との闘いの中、マッケンロウのポケットをまさぐりました。

「ないわ」

 スエンは頭を悩ませました。

「あった!」モゾモゾと下で動いていたレキが彼の靴を逆さにして鍵を取りました。「足の裏の臭いがする」

「行きましょう! 急いでください!」

 そう言われなくても急いでいます。サンを先頭にしてみんな地下室へなだれ込みました。そして見つけたのです。例の死面を――

 そのころ、サメヤラニは苦境に立たされていました。

 イザナたちは無事町の外へ出られただろうか? 援軍が来るまで持ちこたえられればいいですが、相手はなみなみならぬ強さ。サメヤラニでさえ劣勢に追い込まれていました。

 お面の男は再び床を蹴り、サメヤラニに刀を振りかざしました。長時間の戦闘にもかかわらず、相手の力は衰えません。この時初めて、サメヤラニは目の前の男が人間ならざる者だと感じ取りました。それに、イザナが何度も夢に見たというお面と――

「うっ」

 サメヤラニは腹を強く蹴られ、階段の手すりを突き破りました。真下に氷の針が上向いているのが見えます。刀を手放すしかありませんでした。サメヤラニは落下しながら数階下がった手すりに手をかけて、宙づりになりました。刀がクルクル回りながら氷の針山に落ちていきました。あと少しで串刺しです。

 さっき戦っていた階から、男がこちらを見下ろしていました。

「くそっ」

 サメヤラニは体を揺らして下の階へ着地しました。刀を取りに戻っている暇はありません。近くの壁にあった古い槍を手に、サメヤラニは階段を駆け上がりました。あの危険な男はイザナの元へ行くことでしょう。そうする前に、阻止しなければいけません。 

 サメヤラニが上階へ到達するまでの間、お面の男は刀を床に刺してじっとしていました。そう、彼はサメヤラニを確実に殺すつもりなのです。

 階段から足音が近づいてくる中、突然男の右側にあったドアがすさまじい音を立てて砕け散りました。

 サメヤラニがようやく戻った時、そこには胸に刀が貫通した男が立っていました。いったい誰が? 驚くサメヤラニの視界に入ったのは、両手に何も持たずゆっくりと歩いてくるトウヤンの姿でした。彼は死んでいなかった? サメヤラニは状況の理解が追いつきませんでした。トウヤンは壁にかけられているおのを手に取って男に振りました。この男、胸を刺されてもなお動き続けています。しかし、確実にさっきよりも動きは鈍くなっています。

 サメヤラニは戦う意思を目で訴えました。それに応えたトウヤンは左手で間髪入れずおのを振り始めました。彼が右手を使えていたころの戦い方を知っているサメヤラニにとって、今の彼は想像のさらに上を行くものでした。

 サメヤラニは細い槍1本で立ち向かいましたが、6回目の受けを取った時に砕けて使い物にならなくなりました。その間もトウヤンはおのを振り回し、男がひるんだところを胸に刺さっていた刀を引き抜き、切り替えました。男はまったく血を流しません。しかし、トウヤンの猛攻に劣勢となったのか、男は窓を蹴破り楼閣の屋根へ躍り出ました。トウヤンも彼の後を追い、もはや2人だけの世界となりました。利き腕が使えないにもかかわらず、トウヤンは左手1本でどとうの攻めを続けます。サメヤラニは早く加勢しようと刀を探しに走りました。

「しつこい男は嫌われるぞ」

 トウヤンは向かいに立つお面の男に言いました。

「あぁ、目覚めたらいきなり町はこうなってるし、友達は階段から突き落とされてるし、なにがなんだか分からない。だが、お前からは嫌なにおいがプンプンする。目的はなんだ。イザナか。ついに姿を現わしやがったな、お面男」

 トウヤンの頭の中に、突然白い馬の映像が流れてきました。お面の男を見た馬が、突然目の色を真っ白に変え、暴れ始めたのです。

「かわいそうに」

 声がしました。

「あんたがやったのか?」

 トウヤンはかすれた声で言いました。

「……なにをした。あんたはいったい……シンになにをした!」


 イザナたちは重い死面を持ちながら駆けていました。片方が疲れたらパスして、また疲れたらパスするといった感じです。協会の楼閣が見えた時、イザナは足を止めて目を凝らしました。屋根の上で戦う二つの影が見えたのです。

「あれは誰?」

 死面を受け取ったスエンは声を震わせました。

「トウヤンだ」とレキ。「……生きてる!」

 イザナは遠くで戦う彼の姿を見て息が止まりました。いったいどうして? でも、こんなにうれしいことはありませんでした。

「サメヤラニはどこに?」

 しきりに遠くを見つめながらサンは言いました。屋根の上で戦っていた2人は、やがてもつれあい、屋根の上を転がって落ちていきました。トウヤンは宙で男を蹴飛ばし、2人ははじけるようにそれぞれ下層の屋根に着地し、今度は地上に降り立ちました。2人は大通りに滑り出し、再び刀を振り合いました。

「サメヤラニならあそこにいる!」

 レキが指さした屋根の上に様子をうかがうサメヤラニが見えました。イザナたちはホッとしましたが、地上で一向に勢いの衰えない2人の行方から目が離せませんでした。

「なんて強いんだ」

(どちらかが死ぬまで終わらない)

 トウヤンでさえ互角の相手にイザナたちがかなうはずもありません。頭では分かっていても、殺されるのを待つだけなのは嫌でした。

「こっちに来ます!」

 サンは叫びました。

 大通りを進む2人の音が近づいてきました。トウヤンは背後にイザナたちがいるのを意識しているようです。楼閣から外に出たサメヤラニが加勢しました。2人を同時に相手にしてもお面の男はこれといった隙を見せません。

 戦いが激しくなる中、イザナたちが立ち尽くす大通りの両脇に氷の壁ができはじめました。壁はみるみるうちに高くなり、大通りを中心に氷の道ができました。もう、前か後ろにしか進むことはできません。男は確実に獲物を仕留めるつもりです。それに、あの余裕そうな戦いぶりを見るに、勝算でもあるのでしょうか? お面の下で、いったいどんな顔をしているのか気になりました。

 男は後ろ蹴りでサメヤラニを氷の壁にぶつけました。立ち上がろうとしたとき、サメヤラニは服が壁に張り付いて身動きが取れなくなりました。

「あの壁、サメヤラニをのみ込むつもりだ!」

 レキは叫びました。

 彼を助けに行こうとしたサンとレキを、イザナは両手で引き止めました。

「なにする!」

 イザナは首を横に振りました。

 その時、トウヤンが男の右腕を切り落としました。刀を持ったままの手が吹き飛ばされて、イザナたちの前に滑ってきました。邪悪に光っていた刀は徐々に光を失っていきます。トウヤンは動きが止まった男に最後の一撃をお見舞いしました。下から縦に振り切った刀が男を縦真っ二つに切り裂いたのです。

「勝った……」

 サンが言った時でした。

「まだだ!」耳をつんざく悲鳴がしました。サメヤラニの声です。「トウヤン! 後ろだ!」

 イザナたちに振り返ったトウヤンの背後で、ゆっくり立ち上がる不気味な影が見えました。スエンが黄色い叫びを上げました。切られたはずの男が立っていたのです。

 トウヤンは腹を一突きされました。イザナたちの目の前にある刀は意味をなさなかったのです。男は氷でつるぎを作り、トウヤンを突き刺しました。トウヤンは刀を落とし腹部を押さえて倒れました。イザナは雄たけびを上げました。

 うずくまるトウヤンを踏みつけにして、お面の男はゆっくりと歩いていきました。サメヤラニは助けに行こうとあがきますが、氷がまとわりつくせいで見ていることしかできません。

「なにをしている! 早く逃げろ!」

 サメヤラニの叫びが氷の大通りに響きました。イザナたちはヘビににらまれたカエルのように恐怖で全身がすくみ、まったく動けずにいました。男はゆっくり歩いて目の前まで来るとピタリと足を止めて自分の右手を拾い上げました。目の前で切られた右手に近づけると、あっという間にくっついて元通り動くようになりました。

 スエンの胸の中にいたユリオスが急に飛び出してフシャーッと威嚇しました。

「ユリオス! やめて――」

 スエンが前に出ようとした時、イザナは彼女より先に出てユリオスを隠すように立ちはだかりました。お面から目を離さずに刀を抜いたのです。いつもより赤い刀身が顔を照らしました。

”お前に選択肢を与えよう”

 頭の中に低い声が響きました。

”これ以上、仲間を失いたくはないだろう”

 まさかと思いましたが、どうやらそのようです。この声はお面の男の声でした。

”選べ”

 イザナは全身に冷汗を流しました。

”私とともに壁の向こう側に来るか――ここで仲間を全員殺されるか”

(なぜ? 僕をあんなに殺したがっていたじゃないか)

”そうとも。だが今すぐ殺さなくてもいい。君には見せたいものがあるからね”

「なぜなにもしないの?」

 サンは2人を見て驚きました。

”私はずっと……この時を待っていた。千年。君たちが氷の壁を壊しに現れるこの時を”

 男は冷たい手をイザナの頰に当てました。

「やめろ!」

 レキは刀を抜きました。けれども、足元から伸びてきた氷にいつの間にか身動きが取れない状態になっていたのです。

「くそ、この氷め! イザナ!」

 レキは刀で氷を削りました。

(殺すのを待っていたんでしょう?)

”会いたかった。イザナ、火の器の君に”

(どうして名前を知っているの)

”私はなんでも知っている”

 イザナは首を横に振りました。

(なんでもは知らない)

”知ってる”

(そんなのは――うそだ!)

 イザナが強いまなざしで訴えると男は黙りました。

(なぜなら忘れていることもあるからだ)

”私はなにも忘れない。そして、なにも間違えない”

(お前が忘れているもの。いや、忘れたいもの。それは……”

 イザナは死面の布を取り去りました。

(自分の顔だ!)

 その時です。お面にひびが入りました。男はうろたえ、大きくかがみ込みました。縦に割れた隙間から、ブクブクと徐々に顔が形作られ、生きている人間のような顔が現れました。死面と同じ顔。若き青年は苦しそうにあえぎました。

「あぁ……!」

 男は思い出していました。千年かけて忘れた自分の大嫌いな顔を。死面によって思い出し、心にあった深い傷がうずき、内面から壊されていったのです。

「なぜだ……なぜ、私の顔がある。壊したはずだ、全て!」

 どんどん彼の体は粉々になっていきます。

”貴様――”

 頭の中に響く声と、生身の声が交錯します。男はよろよろ歩きながら逃げるように谷がある方向へ歩きだしました。

「待て!」

 レキは叫びました。イザナが仲間の足元を解かしている間に、男はどんどん小さくなっていきます。最後にスエンの足を解かし切った時、血を流しながら起き上がるトウヤンが立っていました。

「とどめをさせ。それができるのはあんただけだ」

 トウヤンは力強く言い、イザナはうなずきました。イザナたちは逃げる男の後を追い掛けて氷の大通りをひた走りました。木の壁を越えたところで、ちょうど氷の橋を渡る姿が見えました。スエンは的を絞り1本の矢を放ちました。矢は男を射抜きました。しかし、それでも前へ進む彼の動きを止めることはできませんでした。5人が氷の橋に踏み込んだ時、橋がグラグラ大きく揺れ始めました。

「自分だけ渡り切るつもりだ! 走れ! 橋が崩れるぞ!」

 レキは全速力で走りながら叫びました。崩れ落ちていく橋のギリギリを走りながら、最後、トウヤンがイザナたちを押し上げる形で岸へたどり着きました。男は巨大な氷の壁を前にして立ち止まっていました。

 トウヤンがにじり寄る中、センドウキョウは氷の壁に触れました。手が触れた場所から氷がなくなっていき、壁に巨大な穴が開きました。あんなにも解かすのに苦労した氷の壁が、彼が触れただけでなくなるなんて信じられない思いでした。穴の奥はトンネルのように長く延びていて、北の領地へとつながっていました。ここで諦めるのか、このまま追い掛けるべきか、イザナは長いこと迷わずトンネルへ突っ走りました。すぐそばをトウヤンが続き、続けて入ろうとしたサンとレキ、スエンは氷にふさがれて入れなくなりました。

「なんでだ! おい! 開けろ!」

 レキはドンドンたたきました。

 氷のトンネルは恐ろしい場所でした。少し気を抜けば頭がおかしくなりそうな、そんな不安定な空気が漂っています。

「ここはもはや私の体の中も同然。君の火では解かすこともできない」

 男は立ち止まって言いました。

「私の顔を思い出させた罪は重い。君に見せたいものがあると言ったがもうよい。今死をもってその罪をつぐなうがいい。おしまいだ」

 男は吐き捨ててトンネルの先へ歩いて行きました。同時に当たりの壁から針のようにイザナたちを取り囲い始めたつららに気付きました。このままでは――つららに串刺しにされる。なんてばかなことをしたのだとイザナは思いました。氷の壁の中に入っていくなんて自殺行為そのものです。鋭くとがったつららがトウヤンとイザナを徐々に追い込んでいきます。なんとか温めてつららを解かそうとやっきになるイザナにトウヤンがかぶさりました。

「うぐっ!」

 つららが彼の背中を突き刺したのか、トウヤンは痛みにあえぎました。刻々と命のタイムリミットが迫るなか、イザナは急にトウヤンの声が柔らかくなるのを聞きました。

「あんたばっかに背負わせちまったな」

 イザナは悲しくなって顔を上げました。こんな状況だというのに、トウヤンはいつもイザナが憧れていた笑みを浮かべていたのです。でも、それが急にガクリと力をなくしました。さっきまで盾となってくれていたトウヤンの体が重くのしかかりました。イザナはトウヤンを抱き締めたまま震えました。

 頭の中にグルグルといろんな思いが渦巻きました。憎しみも、悲しみも、喜びも――イザナは氷にのまれつつある視界の奥に、男の背中を見ました。

「……まだだ」

 イザナはポツリと言いました。

「まだ終わっちゃいない!」

 その叫びは長いトンネルの中に響き渡りました。

「僕の名前はイザナだ! 大切な人が名付けてくれた。愛を――もらったんだ。だから、ここでお前に負けるわけにはいかない。もう、どんな恐怖にも屈しない! 僕は僕の仲間を守る。兄弟を――守るんだ!」

 イザナは刀を氷に突き刺しました。熱風がトンネルの中に生まれ、イザナの赤い髪をなぶりました。刀身は赤い光に包まれ、氷にグングン広がっていきます。力が限界まで達し体が悲鳴を上げています。けれどもイザナは体を火山のようにして燃え上がらせました。初めてトウヤンと会い、握手した日のこと、シンに乗って雪原を走ったこと、協会でサンやレキたちと会ったこと……これまであったことが走馬灯のように走りました。

「思いが光となる」

 聞いたことのない男の声が、すぐそばで聞こえました。誰かが横にいました。周囲の時が止まったかのようです。イザナの小さな肩に光り輝く優しい手がふわりと置かれました。長い、赤色の髪。自分とまったく同じ髪の色をしていました。けれども体は大人で、あの男と同じような年です。

「最後のチャンスだ、イザナ」

 男の顔を見ようと思いましたが、首が動きませんでした。男は刀を握るイザナの手に自分の手を重ね合わせました。

「頑張れ」

 体に力がみなぎるようでした。

「終わらせなければいけないんだ――全てを」

 イザナの刀から激しい炎が生まれ、巨大な渦を巻いて見るも恐ろしい炎の鳥へと変わりました。鳥は両翼いっぱい広げ、トンネルを真っすぐ飛んでいきました。炎がどんどん広がって壁を真っ赤に染め上げていきます。壁全体が解けだす音に混じって、断末魔の叫びが響きました。

 壁が、ものすごい早さで解けていきます。


「……トウヤン。目を開けて」

 イザナは横たわるトウヤンを抱えました。

「僕はずっとあなたに感謝したかった。ちゃんと、この声で言いたかった。僕を、地下室から助け出してくれた、見つけ出してくれたあなたに――ずっと……ずっと伝えたかった。あなたのことが大好きだと」

 イザナがトウヤンに語り掛けるなか、ようやくサンたちが壁を突破してきました。

「町の氷も解け始めてます。イザナ、あなたが――」

 サンは涙を流すイザナを見て、言うのをやめました。

「こんなところでお別れなんて嫌だ」

 トウヤンの手がイザナを引き寄せました。

 おでこがコツンと当たります。

 イザナは目を大きく開きました。

「大好きだ、俺も」トウヤンはにっこり笑いました。「声、出るようになったんだな」

 やがて氷の壁は全て煙となって消え去り、目の前には大雪原が広がっていました。千年、誰も解かすことができなかった氷の壁が、跡形もなくなったのです。イザナたちは言葉もなく、ただじっと寒々とした北の領地を見つめていました。

「笑った」トウヤンは言いました。「やっと笑ったな」

 イザナは心の底からうれしくて笑いました。

「また、助けられた」

 イザナは大雪原を見て首を横に振りました。

「助けられたのは僕の方だ。サンやレキ、ルットにサメヤラニ、みんなが僕に勇気をくれた。人間として、足らないものを分けてもらった」

 イザナは自分からトウヤンを抱き締めました。この世のどんな友情よりも深く、愛に満ちあふれた温かい抱擁でした。

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