第五章 枯尾花の入舞に、別れを告げる《八》

 穏やかな風が、境内に戻った。

 刀を納めためた宇八郎と皓月が、歩み寄る。笑顔を交わし、硬く手を握り合った。

 二人の姿を忙然と眺める善次郎に、宇八郎が目を向ける。

 どきり、と背筋を伸ばす。宇八郎の手が、善次郎の頭を乱暴に撫でた。

『ようやった。流石は儂の弟だ。強うなったな、善次郎。儂の役目は仕舞いだ。これで心置きなく、黄泉の門を潜れるぞ』

 宇八郎が、にっかりと満足そうに笑う。童の頃、大きく感じていた手は、いつの間にか善次郎と同じに、なっていた。変わらない温もりに安堵しながら、少しだけ、寂しく思う。

 口を開いたが、言葉が出てこない。溢れ出る思いを、何から伝えればいいのか、わからなかった。

「宇八郎様! もう、逝っちまう気かよ。まだまだ、あんたには、やるべき役目が残っているだろう」

 駆け寄った環が、宇八郎に後ろから、しがみ付いた。

 宇八郎が青い顔をして、環の手を叩いた。

『環、待て。お主が本気でしがみ付いたら、体が壊れる。死霊でも、怪我をすれば痛い』

 後ろから、むすっと宇八郎を睨んで、環が腕に力を籠める。

「だったら、まだ現に残って、善次郎様と潺の力になってくれよ。これ以上、絞め付けられたかねぇだろ」

 にやりと笑って、環が更に宇八郎を絞め上げる。

 宇八郎が、困り顔で微笑んだ。

『痛いと、言うておる。全く、お主は六年が経っても変わらぬな。儂の役目は仕舞いだ。久伊豆大明神の御神も、さぞお疲れだろう』

 宇八郎の目が本殿に向く。神々しい光は、少しずつ弱まっていた。

 環の顔が曇り、俯く。自然と宇八郎の背に顔を埋めた。

 宇八郎が、そっと環の手を握る。

『これからも潺として善次郎を支えてやってくれ。それとな、……幸せに、なれよ』

 環が、びくっと、肩を上げた。

「その口で言うかよ。あんたも大概、変わらねぇ。黄泉にでも地獄にでも行っちまえ! 追っかけて、また絞め付けてやるからな!」

 宇八郎の背に、がん、と頭突きをして環が離れる。走り去った環の体を、円空が受け止めた。

 前のめりになった宇八郎が、眉を下げて笑った。

『円空、環を頼むぞ。その御転婆は、放っておくと何をしでかすか、わからぬ。儂の気懸りが、増えてしまうからな』

 円空が頷き、纏う布で環を包んだ。黒い布の下で、環の肩が震えているのが、わかった。

「宇八郎様の御心願に叶うか、わかりませぬが、尽力致します。環の猛勢は私でも手に余ります故、困った時は助けに来てください」

 律儀に頭を下げる円空に、宇八郎が吹き出した。

『お主も結局、儂を呼ぶか。黄泉に逝けば容易には戻れぬぞ。良く知っておろうに。案じずとも今は、善次郎がおる。我が弟は、頼れる漢になったぞ。なぁ、卯之助』

 宇八郎が振り返った先で、皓月が深く頷いた。

「俺たちの読みを遥かに超えて、強くなった。お前の心願は叶ったぞ、宇八郎」

 四人のやりとりを見ていた善次郎は、ひっそりと安堵した。

(昔の潺は、きっと今のように、賑やかだったのだろうな)

 それは何より、宇八郎の陽気な性質に由来する。宇八郎を慕って集まった三人だ。

 皆が宇八郎を、昔と同じ賑やかさで送ってやろうとしている心情が、伝わってきた。

『お迎えも来ておるようだ。儂も、そろそろ逝くとしたいが……』

 宇八郎が、境内の隅に目をやる。

 榊の大木の後ろから、死神が、ひょっこりと顔を出した。

「お主は、この前の。何故、ここに来ておるのだ。岩槻も、お主の領分か?」

 驚く善次郎に、円空が応えた。

「皓月と環を抱えて走るのは流石に難儀だと思っておりました所に、この死神様が顕れまして。ここまで運んで頂きました」

 とぼとぼと歩み寄った死神が、大きく息を吐いた。

「元沙門の円空大僧正様に頼まれたんじゃぁ、死神如きが断れやしませんぜぇ。お陰で腰を痛めちまった。まぁ、善次郎の旦那のためなら、岩槻くれぇは、なんてことは、ないけれどねぇ」

 腰を叩きながら笑う死神に、円空が珍しく目を剥いた。

「仮にも神が、沙門如きを揶揄いなさるな。しかも私はもう沙門ではない。一介の世捨人です」

「世捨人も沙門も、同じだろうよぉ。善次郎の旦那は、面白い朋輩をお持ちだねぇ」

 死神が、くっくと笑う。

『なんだ、善次郎と死神殿は知り合いか。随分と知人が多いのぅ』

 宇八郎が感心した顔をする。善次郎は、どこか恥ずかしい心持になった。

「この死神には、恩があります。儂がまだ巧く力を使えず困っておった時に、助けてもらいました」

「いいやぁ、違うよぉ。俺が前に助けてもらった恩を、返しただけさぁね。旦那は優しい御侍様、だからねぇ。力だって、俺の助けじゃぁなくってさ。自分で使えるように、なったのさぁ」

 にやりとする死神に、宇八郎が同じような笑みを返す。

『そうであったか。弟が世話になった。世話ついでに、一つ、頼みがあるのだが』

 宇八郎が振り向いた先は、長七だ。

 皆のやり取りを忙然と眺めていた長七が、顔を強張らせた。

『久しいな、長七。息災で何よりだ。お鴇は眠っておるようだが、じきに目覚めよう。此度はお鴇に随分と世話になった。恩に着る』

 宇八郎が礼をする。眠るお鴇を抱いたまま、長七が前のめりになった。

「よしてくだせぇ! 礼を言わなきゃならねぇのは、俺たちだ。善次郎様の兄上様の命を、削っちまった。どんなに詫びたって、詫びきれねぇ」

 唇を噛む長七に、宇八郎が微笑み掛けた。

『それは、違うぞ。この場所で儂の命の火が消えたのは、定だ。お主らのせいではない。むしろ儂は、感謝しておる。其方は善次郎の力となり支えてくれた。これからも善次郎の傍に、いてやってはくれぬか』

「そりゃ、勿論ですが……」

 不思議そうに、長七が応える。宇八郎が嬉しそうに、安堵の笑みを浮かべた。

『そうか、応じてくれるか。それは、有難い』

 宇八郎が、善次郎を振り返る。見詰める目が、柔らかく細まった。

(儂が長七を潺に誘おうと思っているのに、兄上は気付いておる。何でもお見通しだな)

善次郎は、しっかりと頷いた。

『そうなると、これからもお鴇には護りが必用になるな。儂の魂の一片を、お鴇に渡した鈴に込めよう。久遠に渡り、お鴇の護りとなるように』

 宇八郎がちらりと、死神を横目に見る。死神は、すぃと、目を逸らした。

『善次郎、今すぐに、泣け。お主の涙に魂を溶かして、流し込む』

 真面目至極な顔で、宇八郎が涙を強いる。

「承知しました、と、すぐに泣けるものではありませぬ。突然に無理を強いるのは、生前と変わりませぬな、兄上」

 思わず零れた本音に、宇八郎が声を上げて笑った。

『はっは! 言うようになったのぅ、善次郎。いいや、違うな。お主は昔から利発で口達者であった。剣筋も良く、気も敏い。何をもっても儂より優れておった』

 宇八郎が、懐かしそうな顔をする。

「それは、兄上です。儂は童の頃から、ずっと兄上の背中を追いかけて、稽古に勉学に励んで参りました。兄上の背中に追いつこうと。いつか共に御役目に付きたいと、懸命に」

 憧れだった兄と肩を並べて、役目を果たしたい。それが善次郎の目処だった。

 宇八郎が、善次郎の道標みちしるべだった。

 叶わない夢に散るのだと気付いた途端、胸に悲しみが去来した。

『お主は、とうに儂を追い越しておる。自信を持て、善次郎。儂にできぬ役目も、お主なら必ず全うできる。お主は儂が総てを託すと決めた、明楽家の誇りだ』

 宇八郎の温かい手が、善次郎の肩を優しく叩く。目が潤んで、辺りが、ぼやけた。

「兄上は、狡いです。やはり兄上のほうが、一枚も二枚も、上手でございます」

 出るはずのなかった涙が、善次郎の頬を一筋、流れた。

 宇八郎の指が、涙を掬い取る。

『泣かせるために言うたのではないぞ。本音だ。今、伝えねば、もうこの口から伝える法がなくなるからな』

 呟いた宇八郎の顔が、憂いを帯びた。

 一滴で足りる涙が、止まらなくなる。善次郎は、ごしごしと目を擦った。

 指に絡んだ善次郎の涙に、宇八郎が気を籠める。白い灯火が涙と解合った。掌に載せた鈴に、ぽたりと注ぎ込む。

 善次郎の涙に溶けた宇八郎の魂が、鈴に宿った。白い光を淡く灯した鈴が、りぃん、と一つ、音を醸す。小川の潺のように透き通った綺麗な音色が、長く流れる。

 宇八郎が、お鴇の帯留に、鈴を括りつけた。綺麗な音色の余韻を残して、鈴がお鴇の元に戻った。

『お鴇の巫覡の質を消すには至らぬが、難を逃れる助けとなろう。もう儂の力に左右されもせぬ。善次郎の涙が、儂の魂を鈴に留めてくれるからな』

 頷いた長七は、善次郎より、泣いていた。

「ありがとうごぜぇやす。やっぱり、お二人は、そっくりだ」

 善次郎は宇八郎と目を合わせ、微笑んだ。

 宇八郎が一つ、息を吐き、後ろを振り返る。

『死神殿、待たせたの。魂が一片、現に残っても、黄泉に案内してもらえるか?』

 宇八郎の問いに、死神は首を捻った。

「さぁて、何の話かねぇ。俺ぁ、なぁんも見ちゃぁいないから、わからないねぇ」

 とぼける死神に、宇八郎が、くくっと笑う。

『流石は、善次郎の恩人の死神殿じゃ。話がわかる』

 死神が、ははっと笑った。

「やれやれ、旦那の兄上様は、随分と遣り手だねぇ。でもまぁ、その程度じゃぁ、閻魔様も怒りゃぁしないよぉ。何せ、長いこと彷徨った死霊と面倒な怨霊の魂を連れて行くんだぁ。俺からすりゃぁ、大手柄さね」

「源壽院の魂も連れて行けるのか? 自然に還ったとばかり思うておった」

 意外そうな善次郎に、死神が、にやりと頷く。

『六年以上も張り付いておったのだ。御役目は、きっちりと果たさねばな。儂が最後まで送り届けよう。死神殿と共に』

 宇八郎が善次郎から離れ、死神に並び立った。

「兄上!」

 これが本当に最後なのだと思ったら、言葉に迷った。まだまだ、交わしたい話も伝えたい言葉も、山ほどある。

「それじゃ、逝きやしょうかね、明楽宇八郎様」

 死神が黄泉への道を開く。宇八郎の体が、透け始めた。

 善次郎は慌てて、宇八郎に向かい、叫んだ。

「儂が、明楽家を! 兄上から引き継いだ明楽家を、盛り立てて見せます。黄泉から見ていてくだされ!」

 宇八郎は満面の笑みで、力強く頷いた。

 全員の顔を見渡して、宇八郎が叫ぶ。

『後は頼んだぞ、善次郎。……皆、さらばだ』

 開いた道に流れるように、宇八郎の体が消えていく。

 止まったはずの涙がまた一筋、頬を流れた。善次郎は、目を逸らさずに、消える兄の姿を見送った。

 黄泉の道が閉じる。本殿から溢れていた神々しい光も消えた。

 境内に、平生の夜が戻る。

 夕月が姿を消しても、数多の星で空は煌く。境内には、柔らかな宵闇が広がっていた。

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