第五章 枯尾花の入舞に、別れを告げる《六》

 童の時分には、憧れの眼差しで見つめるしか、できなかった。遠かった二人の背中が、今、善次郎の目前で剣を振るっている。

(儂はもう、あの頃の童ではない)

 腰を落として、刀を顔の傍で平らにし、突きの構えを取る。

 獅子は善次郎を睨むばかりで、動かない。

『我が獅子よ! 無能な飼い犬を、食い殺せ!』

 宇八郎と皓月の刀を躱しながら、乗邑が叫ぶ。獅子の体を覆う赤い炎が、勢いを増した。大きく咆哮を上げて、獅子が駆け出す。

(乗邑の声で士気を上げたのか? 何故、あれほど苦しそうに呻る)

 獅子の上げた雄叫びが、善次郎の耳には、悲鳴に聞こえた。

 構えを崩さず、善次郎は獅子との間合いを詰める。

(今、核を砕けば、総てが終わるのか? ……いや、迷う暇はない。気を凝らせ。開いた口を目掛けて、一突きで砕く)

 湧いた疑念に蓋をして、更に身を低く構える。

 善次郎の目前にまで躍り出た獅子を突如、落雷が命中した。

「ざまぁみろ! 三社権現じゃぁ油断したがなぁ。雷は、あたしの十八番おはこなんだ!」

 環の金棒が、乗邑の雷を吸い取る。閃光を纏った金棒を高く翳し、振りかぶった。

「そぅら、でっけぇのを、見舞ってやる! もう一発、食らいやがれ!」

 雷の塊が、獅子に向かい鋭く飛ぶ。獅子の体が稲魂いなだまに捲き取られ、足が宙に浮いた。

「善次郎様、お下がりください。あれに巻き込まれれば、人は死にます」

 後ろから円空が、善次郎の腕を引く。二人が獅子から遠ざかる。円空が、本殿を振り返った。乗邑と獅子を、何度も見比べる。

「円空も、違和を感じるか?」

 善次郎の問いに、円空が頷いた。

「三社権現でまみえた時は、獅子の核が怨霊の威力の根源に感じましたが。今は、まるで源壽院の怨霊が獅子に力を注いでいるかのようです」

「やはり、そう見えるか。儂の勘は、間違いではなさそうだ」

 善次郎は、刀を下ろした。

 神官崩れが獅子を手放した、と吐き捨てた乗邑の言葉。お鴇の書いた「獅子が泣いている」の文言。獅子が上げた悲鳴のような咆哮。

 善次郎の頭の中で、総てが、繋がった。

(獅子は、帰りたがっておるのやも知れぬ。核は今や、獅子の御霊を縛る枷だ)

 善次郎は、本殿を振り返った。社から溢れる神々しき光は、とても暖かい。善次郎たちを守り、宇八郎に活力を与える、護りの光だ。

「源壽院は、あの光を神の怒りと、笑いくさした」

 善次郎の眼の先を追って、円空の目が本殿に向く。

 円空は、乗邑に眼の先を変えた。

「久伊豆の御神の光から、怒りを感じるか?」

 善次郎の問いに、円空が首を横に振る。

「ですが源壽院には、そう感じるのでしょう。感じなければ、力を維持できぬのやも知れませぬ。だとすれば、長くは保ちますまい」

 善次郎は、円空に眼を向ける。

「怒りとは、刹那の感情です。それに頼らねば維持できぬ恨みなら、空疎な絡繰り同然。今はもう、何を恨んで怨霊に堕ちたかすら判然とせぬ心情やも、知れませぬな」

 二人は再び、乗邑に眼を向けた。

 宇八郎と皓月の二人を相手取り、太刀を交える乗邑を眺める。

(許す気持ちや忘れるのとは、きっと、違うのだろうな)

 我を失うほどの恨み。その恨みに飲まれた挙句が、あの姿だ。

 乗邑の怨霊が少しだけ、憐れに思えた。

 善次郎は、刀の柄を握り直した。

「だとしても、儂らの仕事は変わらぬ。核を砕いて、獅子の御霊を解き放つ。たとえ長く保たぬとしても、怨霊が消えるのを待つ訳にはゆかぬ」

 善次郎は、環を振り返った。

「環! 稲魂を消せ! 儂が核を砕く!」

 頷いた環が、金棒から放つ稲妻を空へ逃がす。宙に浮いた獅子の体が、地面に降りた。

 地に足を付いた獅子は、へたり込んで丸まり、動かなくなった。

「善次郎様、まだ直に触れねぇでくだせぇよ! 体ん中に、雷が残っているはずだ!」

 獅子の体から、びりっと、小さな稲妻がほとばしる。

 善次郎は頷いて、獅子に歩み寄った。

「お鴇! 待てよ。そっちは、危ねぇ! 行くな!」

 本殿のほうから、長七の大声が飛んだ。

 気が付くと、お鴇が獅子の正面に立っていた。

「お鴇、いつ、気が付いた。ここへ寄るな! 向こうで、長七と共に……」

 慌てて駆け寄り、手を伸ばす。お鴇の顔を見た途端、伸ばしかけた手は、ぴたりと、止まった。

(泣いて、おる。お鴇……では、ない。この涙は、福徳稲荷の狛犬の涙だ。お鴇の身に乗移ったのは、やはりあの狛犬だった)

 涙を流すお鴇の細腕が、獅子に伸びる。その姿を見た乗邑が、高らかに笑った。

『獅子よ、その小娘を食らえ! 無能を焚きつけるに、都合が良いわ!』

 座り込んだ獅子は、微動だにしない。乗邑が怒りの表情を露わにした。

『儂の指図が聞こえぬか! 立ち上がれ! 動かぬか!』

 獅子に寄ろうとする乗邑の行く手を、皓月と宇八郎が塞ぐ。

 お鴇の手が、獅子の顔を、そっと包んだ。ばちり、と閃光が走る。獅子の体に残る雷を浴びても、お鴇は表情を変えない。

『やっと見つけた、我が朋輩。ずっと、ずっと、探していた。離れられぬ場所から、ずっと』

 お鴇が、獅子に頬を寄せる。流れた涙が、獅子の目に落ちた。

『こんなにも、心をやつして。どれだけ辛かったろう。痛かったろう』

 お鴇の顔に、深い悲しみが滲む。獅子が顔を上げ、自らお鴇に、頬擦りした。

『ああ、そうだ。我らは、二つで一つの御霊。一つは、寂しい。一つは、怖い。共に還ろう。我らの、在るべき場所に』

 獅子の体から、燻った炎が消える。

 その場にいた誰もが、動きを止め、息を殺した。お鴇の声と獅子の息遣いだけが、境内に響く。

 獅子の体の中の青い灯火が、ゆらりと、揺れた。

 善次郎は、静かに獅子に歩み寄ると、突きの構えを取った。

「枷となる核だけを、砕く。さすれば、獅子の御霊は解き放たれよう。動いてはならぬぞ」

 お鴇が獅子の顔を抱く。獅子が身を強張らせ、じっと息を止めた。

 善次郎は、刀の切っ先に気を澄ました。刀身が淡く白い光を宿す。

 深く刺してしまわぬよう、慎重に、刀を滑り込ませた。

 切っ先が、核の外側を突く。獅子の体の中で青い灯火が、ぱん、と弾けた。

 途端に獅子の体が、ぐにゃりと歪み、透けていく。風に溶けた獅子の体が消えてなくなり、青い灯火が、空に浮いた。

 灯火を見上げたお鴇が、微笑んだ。

『やっと、自由になった。やっと、還れる。さぁ、戻ろう。もう二度と、離れぬように』

 お鴇の体から、獅子と同じ青い灯火が、すぅっと浮き上がる。気を失ったお鴇が目を瞑り、その場に倒れ込んだ。

 駆け寄った善次郎は、お鴇の身を抱き止めた。

 善次郎とお鴇の周りを、青い灯火が二つ、ふわりふわりと、揺れた。穏やかな安堵を宿した御霊が一つ、お鴇にふわりと、触れる。礼をするように揺れると、二つの灯火は空高く舞い上がり、夜の彼方に消えて行った。

 境内には、静かな風だけが、漂い流れていた。

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