第五章 枯尾花の入舞に、別れを告げる《四》
大伝馬町一丁目には、馬込勘解由の屋敷がある。今は木綿問屋を営んでいるが、元は傳馬役を引き受けていた家柄だ。
今でも二頭だけ、白馬を飼っている。御庭番が忍んで使う馬だ。
ここで一頭の馬を借り、善次郎は頭上を飛ぶ龍を追いかけた。
「御府内を出て、随分走ったぞ。心太はどこまで行くのだ」
江戸を出て、北に向かい、随分走った。
龍は時折、地上の善次郎たちを確かめながら、ゆるりと空を飛んでいく。
善次郎は、焦心に駆られた。後ろに乗る長七が、辺りを見回す。
「今、川口宿を抜けやした。この道は、岩槻街道ですぜ!」
長七の体が、ぐらりと傾く。身を起こして、善次郎にしがみ付いた。
岩槻街道は、正式には日光御成街道という。百姓町人が通る日光街道とは別に、公方様が日光参社に参る時に通る道だ。
「詳しいな。通ったことがあるのか?」
「俺の御先祖様は、岩槻の出なんだ。俺ぁ、江戸の生まれだが、じっさまの代で江戸に出て来やした。うちは、日光東照宮を造るのに集められた職人の家系だって、親父が誇っておりやした」
善次郎は、感得した。
(なるほど、道理で。だから、あれだけ見事な技を多く体得しておるのだな)
「今でも時々、岩槻での仕事が入りやす。そいつぁ俺ってぇより、入江の家に頼まれている仕事なんでさぁ」
「入江? 長七の姓か? そういえば、聞いておらなんだな。歳は、いくつだったか」
「俺の姓は、入江でさ。歳は二十三です。お鴇とは六つも歳が離れているし、二親は死んじまっている。俺が、守ってやらねぇと。もう、あんな思いはさせたくねぇ」
ちらりと後ろを振り返る。長七が苦い顔で俯いていた。
獅子に襲われ、母親を亡くした時を、思い返しているのだろう。
「大事な話を聞き損じておったが、獅子に襲われた場所は、どこだ」
善次郎の中に、俄かに疑問が湧いた。
初めに長七から話を聞いた時は、宇八郎の鈴の驚愕が、あまりに大きすぎた。以後も、詳しい話を聞き損じていた。
忠光から宇八郎の死の真相を聞いた時も、同じだ。宇八郎が獅子に襲われた詳しい場所を、聞いていなかった。
「岩槻です。毎年、盂蘭盆の前ぇに頼まれている仕事をやりに行った時でさ。その仕事の時だけは、家族総出で出張るんです」
善次郎は一瞬、目を閉じた。
(岩槻が。……兄上が最期を遂げられた場所、か)
すぐに目を開き、後ろの長七に声を掛ける。
「だから、母親が一緒だったのか」
善次郎の背中で、長七が頷く。
「あん年ぁ、親父が仕事中に高台から足を踏み外して、死んじまって。俺が、初めて一人で任された大仕事だったんでさ。まさか、あんな風になっちまうなんて」
悔しさを滲ませ、長七が歯噛みする。直ぐには、返す言葉が見つからなかった。
善次郎は、ちらりと、空を飛ぶ龍に目を向けた。
「心太の向かっておる先は、岩槻だ。そこにお鴇がおる」
長七の話を聞いて、頭の中に一つの仮説が浮かんだ。
「何だって、岩槻に。お鴇の足で、そねぇに遠くまで行けるはずがねぇですよ」
長七の声が、徐々に弱まる。何かを、察している声だ。
「自ら歩いたのではない。連れ去られたのだ」
長七が息を飲んだのが、わかった。善次郎は、慎重に言葉を選ぶ。
「六年前に、お主ら家族を襲った獅子。あれを従える怨霊が、お鴇を攫って行った。儂と、死霊と化した兄上を誘き出すためだ。お鴇が持つ鈴は、儂の兄、明楽宇八郎が持っておった鈴だ」
縫殿助が獅子に、何を語り掛けたかは、わからない。
円空の言の通りなら、明後日、亀戸天神に現れるはずだ。
しかし、かえって乗邑の怒りを焚きつけ、恨みを膨らませたのだとしたら。善次郎が伝えた明後日など、あの乗邑が待つはずがない。
宇八郎の鈴を持つお鴇を連れ去れば、善次郎は必ず動く。宇八郎も、姿を現さない訳にはいかない。
(誘き出すために撒いた種が、あらぬ向きに芽を出した。逆手にとられるとは、何たる失策だ)
自分の愚かさと悔しさが、胸の中で渦を巻く。
「儂が、甘かった。また、お主らを巻き込んだ。すまぬ。……すまぬ、長七」
項垂れて、言葉を絞り出す。黙って聞いていた長七が、首を振った。
「善次郎様のせいじゃぁねぇ。俺も、本当は、何となく知っておりやした」
はっと目を見開き、善次郎が頭を上げる。
「お鴇に持たせた、あの鈴は、善次郎様と同じく優しい音色が致しやす。俺らを救ってくださった御武家様の目は、善次郎様とそっくりだ。兄上様だと言われても、驚かねぇ。むしろ、胸の痞えが取れやした」
善次郎は、大きく後ろを振り返った。
「違う。違うのだ、長七。あの獅子の狙いは、兄上だった。お主らは、巻き込まれたに過ぎぬ。だというに、お主らは大事な母君を失って……」
「それでも、俺とお鴇を命懸けで救ってくださったのには、違いねぇ。もし、あの場に俺らがいなけりゃぁ、兄上様は命を落とさなかったかも知れねぇ」
静かな目で長七が語る。善次郎は何も言えず、ただ首を振る。
「善次郎様、俺ぁ、巻き込まれたなんざ思っちゃいねぇ。六年前ぇの件がまだ尾を引いているんなら、けじめをつけなきゃぁならねぇ。そりゃきっと善次郎様だけじゃぁねぇ。俺もお鴇も、同じなんだ。蚊帳の外に、放らねぇでくだせぇよ」
長七が悲しい瞳で、薄く笑う。
眼界が、明るく開けた気がした。
(お鴇に巫覡の質が顕れたのも六年前の、あの件からだ。初めから、二人にとっても他人事ではなかった)
巻き込まれてもらう、必ず守る。一度はそう、決意した。
あの時の気持ちは、嘘ではない。しかしどこかで、遠ざけようとしていた。守るためにとの建前で突き放した行いが、どれだけ半端であったか、今更、思い知った。
(もう何度、長七に助けられておるか知れぬ。今度こそ、覚悟を決める)
決意を新たに、腹を括る。
奥歯を噛みしめ、手綱を握り直した。
「兄上の敵も、長七の母君の敵も討つ。お鴇も、必ず救い出す。これ以上、お主らに辛い思いはさせぬ。共にけじめをつけに参ろう」
長七が、力強く頷いた。
「このまま走りゃぁ、岩槻はすぐだ。向こうに、小さく城が見えやす!」
長七が指さしたほうに向かい、龍がゆるやかに下降する。開けた眼界の先に、鎮守の森が広がる。安息を守るはずの場所に、禍々しい気が蠢いていた。
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