第五章 枯尾花の入舞に、別れを告げる《一》
皓月堂に戻った善次郎は、長七の鏝絵を見ないため、勝手口に回った。
(仕上がってから鑑賞する約束だ。楽しみにしておこう)
胸が躍るのを抑えて、そっと寝室に戻る。
台所で仕事をする物音が聞こえた。
(お鴇は、もう起きておるのか。毎朝、早いな)
皓月堂に来て以来、お鴇は毎朝、誰よりも早く起き、仕事を始めていた。
(しっかり者で、働き者で、本当に、良い娘だ……)
やけに瞼が重い。体の疲れが抜けきれず、怠さを感じる。
「少しだけ、横になるか」
ごろりと布団に寝転び、天井を見上げる。
御役目を拝した日、ここで乗邑の怨霊の幻影に連れ込まれ、宇八郎に助けられた。
宇八郎の白刃が刺したのは善次郎ではなく、乗邑の怨念の塊である赤い灯火だった。真実が審らかになった今なら、信じられる。
(あれから、まだ四日しか過ぎておらぬのか)
怒涛のように流れた、この四日間は、御庭番として勤しんだ六年を遥かに凌いだ。もしかすると、この時を迎えるための六年、だったのかもしれない。
(まだ、終わっておらぬ。むしろ、ここからだ)
起きた出来事を思い返しているうちに、先ほど福徳稲荷で見た狛犬の涙が浮かんだ。
「涙は止まって、おらなんだ」
目を閉じても、狛犬の涙が、善次郎の頭から離れない。
(あの涙を、止めて、やらねば……)
意識が遠のき、うつらうつらと、眠気に襲われる。
「潺に、皓月に、伝えねば……明後日……」
目前に控えた戦闘を思い浮かべ、策を練る。疲れが溜まっているのか、眠気に抗えず、考えが鈍る。
(どうにも、頭が働かぬな……。しばし、休むか……。次こそは、源壽院の、怨霊を……)
急く気持ちのせいで、頭の中に色々な思いや考えが浮かんでくる。寝ようとしても深く眠れない。眠りと想念の狭間に漂う身を、持て余す。
ようやく頭の中が空になり、眠りの中を浅く漂う。
遠くから、何かの気這いが近づくのを感じた。
「……様、善次郎様」
誰の声かを考えるより早く、善次郎は咄嗟に身構えた。
肩に触れた腕を掴み上げる。体を起こし、反転させる。そのまま相手の体を、掻巻に押し当てた。
「同じ手には乗らぬ! ……ん? お鴇?」
善次郎の腕の中で、お鴇が真っ赤な顔で昏惑していた。
つい先日、怨霊の幻影に引き込まれた場所なだけに、警戒していた。善次郎の気が、途端に緩む。
「もう、昼だから、起こしたほうが、いいかと、思って……」
何とか絞り出したお鴇の微かな声が、掠れる。善次郎の顔から耳までが、火が出るほど熱くなった。
「これは、すまぬ。どこか、痛む所は、ないか」
顔を逸らし、お鴇が小さく頷く。
「それを聞く前に、お鴇さんを起こして差し上げるべきかと。陽は、とうに高うございます」
開いた襖の前に円空が立っている。お鴇に覆い被さる善次郎を、表情のない顔で、眺めていた。
「斯様な時まで気這いを断って近づくな。そういう、つもりでは、ない」
体を起こし、お鴇の手を取る。お鴇は嫌がるでもなく、善次郎の手を掴み、身を起こした。
「そういうつもりじゃぁねぇのは、お鴇ちゃんに失礼ですよぉ、善次郎様。ちゃんと、そういうつもりで、押し倒してやらねぇと。ねぇ?」
いつの間にか現れた環が、円空の後ろから、にやりと顔を出す。話を振られたお鴇が、更に顔を赤らめた。
「だから、そうではない。環、あまり揶揄うな」
お鴇の前で、怨霊や幻影の話をする訳にもいかず、言葉に迷う。
「本当に、すまなかった。殴るなり叱るなり、好きにしてくれ」
腹を括り、真っ直ぐに、お鴇に向き合う。
頬と耳を赤らめたまま、お鴇が俯く。すっと手を上げると、人差し指で善次郎の額を、ちょん、と
「……これで、許して、あげます」
顔を隠して立ち上がり、お鴇がそそくさと部屋を出て行く。
その背中を、善次郎は、ぽかんと口を開けて見送った。
「くっ……ふふふ。こりゃぁ、二人とも、時が掛かりそうだねぇ」
じれったさを滲ませながら楽しそうに笑う環を、きっと睨む。言葉が何も、出てこない。
「それにしても、善次郎様が昼寝とは、珍しいですね」
助け船を出すかのように、円空が話を変えた。
「もう、昼なのか? いつの間に、随分と寝入ってしまった」
特に感じていなかったが、心眼や心剣を扱い始めた体は、思っていた以上に疲れていたのかもしれない。
そういえば、善次郎を起こしに来たお鴇も、昼だから、と呟いた気がする。
間近に見たお鴇の、赤らんだ顔が頭に浮かび、どきりとする。
(目が、綺麗だったな……)
瞳と睫毛の綺麗さが、やけに感懐に残った。感慨に耽り、はっと我に返る。
(いや、後ほど、詫びをしなければ)
ふと、二人の目に気が付いて、顔を上げる。円空と環は黙って善次郎を眺めていた。環が、にやりと楽しそうにしているのは常にしても、円空まで、どこか楽しそうだ。
善次郎は息を吐き、波打った気持ちを整える。
「それで、何かあったか。儂を呼びに来た用事が、あるのだろう」
円空と環が顔を合わせて、目を瞬かせた。
「そうでした。長七さんの鏝絵が、総て仕上がりました」
「善次郎様が、心待ちにしているってぇんで。長七さんが気合を込めて、仕上げてくれやしたよ」
二人の言葉を聞き、善次郎は立ち上がった。
「そうか。直ぐに見に行こう。どんなものが出来上がったか、楽しみだ」
小走りに部屋を出る善次郎に、円空と環が続く。
廊下に差し込む暖かな陽を感じながら、善次郎は店先に向かった。
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